第505話 小さき神と小さき神の夫と:後
マリクの顔から、表情がなくなる。
こういう顔を『表情が抜け落ちた顔』というのだろうと、集は思った。
「急に何を言うんだい、ライミちゃん……?」
さすがに言葉が過ぎる。
声には出さずとも、集の表情がそれを語っている。しかし、ライミは止まらない。
「マリクちゃんは、ディ・ティ様を心から尊敬してるのは伝わったよ。信仰っていうのがすごく大事なモノでマリクちゃんにとって特別なものだってことも」
「……ライミちゃん、だったら」
これ以上は問うべきではない。と、集は言おうとしている。
それを、ライミもわかってはいるのだ。が、彼女はさらに続ける。
「でも、信じると愛するは、違うよね?」
「…………」
マリクは、何も答えられずにいる。
頬も動かせずにいる少年へ、ライミは問う。問わねばならないと思い、問う。
「神様を愛する気持ちっていうのはあるんだと思う。それはきっと『信仰』のうちに含まれるもので、それは夫婦の間にある愛情とは違うもののはずだよね?」
崇高とか、低俗とか、そういうものはライミにはわからない。
だけど、好きとか愛してるとか、そういう気持ちならば今の自分でもわかる。
「アキラちゃんは、ミフユちゃんのことがチョー好きだよね。あたしから見てもムカムカするくらい、あの子はミフユちゃんのことが好きで好きで大好き、だよね」
「……はい」
ようやく反応を示すマリク。だがそれは、か細い声での肯定が一つだけ。
「タクマ君も、シイナさんっていう人のこと、すごい好きみたいに見えたよ。この前の『炎獄杯』でシイナさんのときだけ、メチャクチャはっちゃけてたし」
「そ、そうなのかい……?」
そのときには新しい職場で働いていた集としては、初めて聞く話だった。
「うん、他の試合のときはすっごいまともで、抑える側だったのに、シイナさんが出てきたときだけ完全に人が変わってたよ。え、別人? ってなったくらい」
「ああ……、なるほど……」
何やら、集が凄まじく納得したような顔をして、何度もうなずく。
「アキラちゃんのトモダチのケント君も、そうだったよね。おじさんにタマキちゃんが負けて、ものすごいヤバイオーラ出してたじゃん? 覚えてる?」
「……うん、まぁね」
「気まずそうに視線逸らしても、あたしはあのときのこと忘れてないからね?」
ニッコリ笑って言うと、集の頬を伝い落ちる汗が一気に増えた。
本人も、あのときにライミに明かした本音については、覚えているらしい。
「――ライミおばあちゃんは」
だがそこで、硬い声。
マリクだ。
彼は眼鏡越しにライミのことを睨むのと同じ強さで見つめ、尋ねる。
「ぼくに、何が言いたいんですか?」
声も低い。すこぶる低い。
ライミの目から見ても、彼は明らかに苛立っている。傍目にもそれがわかる。
「あたしがききたいのはさっきと同じだよ。何も変わってないけど、じゃあもう一回いうね。マリクちゃんはディ・ティちゃんのこと、好きなの?」
「デ、ディ・ティ……、ちゃん……ッ!?」
いきなり敬称をやめたライミに、マリクは驚愕する。
それを見て、何となくだがライミ自身は『ああ……』と納得できるものがあった。
「やっぱり、マリクちゃんの中でディ・ティちゃんは神様なんだね」
「あ、当たり前じゃないですか! ぼくはディ・ティ様の司祭なんですよ!? それに『ちゃん付け』だなんて、畏れ多いことを! いくらおばあちゃんでも……ッ!」
「許さない? あたしはいいよ」
取り乱すマリクを前にして、しかし、ライミは笑みすら浮かべて受け止める。
「な……」
これに、凄んだマリクの方が逆に気圧されたような顔をする。
「何、ですか……? 何で、そんな顔ができるんですか?」
「気合と根性と、努力と信念。それがあれば、不敵に無敵だからだよ」
自分で言ってて答えになっていない。
ライミはそう感じつつも、思ったことをそのままマリクに叩きつける。
「アキラちゃんがね、あたしに言ってくれたの。あたしとアキラちゃんは積み上げたものが何もない零の状態だから、これから積み上げていこう。って」
「それが、一体……?」
「マリクちゃんはあたしをおばあちゃんって呼んでくれるでしょ? でも、あたしはマリクちゃんのこと、何も知らないの。だから、知りたいんだよ」
そう、知りたい。
ライミは、バーンズ家のことを知りたい。それがどんな小さいことでもだ。
そして同時に、感じている。
「マリクちゃんは、もしかしてディ・ティちゃんのこと――」
「その呼び方はやめてください。不敬です。我が神を、そんな馴れ馴れしい……」
だが、マリクがライミを遮る。
彼女を見る視線にも、さらに力が込められて、ほとんど威圧しているようだ。
さすがに、その圧にライミも飲み込まれかけるが、グッと拳を握る。
「やだよ、やめないよ」
確かな意志を持ってライミは拒む。
そしてその瞬間、マリクの自制は限界を迎えた。
「やめろ、やめろ! やめろと言ってるんだよッ!」
それは、整った顔を獣の如く歪めての、腹の底からの絶叫だった。
「我が神を、人と同じように扱うな! あの方は神なんだ! ぼくの救い主なんだ! こんなぼくを受け入れてくれた、唯一のお方なんだ! それを、それを……ッ!」
額に怒りの青筋を浮かべ、マリクは叫ぶ。怒鳴る。
ライミが驚くほどの声量で、怒りをブチまけ続ける。そこに突然ボール。
「え?」
「は?」
いきなり投げ入れられた水色のビーチボールに、マリクとライミが視線を注ぐ。
ビーチボールは、音もなく床に落ちて、転がった。
「ダメだよ~、二人とも」
ボールを投げ入れた集が、困ったように笑いながら二人に注意を促した。
「今のは、半分くらいは売り言葉に買い言葉だったね。ライミちゃんは、マリク君の事情に一気に踏み込みすぎだよ。理由はあっても、距離感はちゃんと見定めなきゃ」
「おじさん……」
集に指摘されて、ライミは「あ~……」と開けた口から声を漏らす。
次に、集はマリクを見る。
「マリク君も、呼び方くらいは許してあげてくれないかな。ライミちゃんは僕や君と違って司祭でも何でもないから。神様との接し方が僕達とはまた少し違うんだよ」
「そ、そうですね。それは、確かに……」
勢いを完全に殺されたマリクが、集の言い分に納得させられる。
「ところで、集さん。今のビーチボールは……?」
「あのまま放っておいたらケンカになりそうだったからね、楽しく遊べるものがあれば空気が和らぐかなって思ってね。どうだったかな? 少しは気がまぎれたかな?」
平然と言う集ではあるが、気がまぎれたどころではない。
マリクとライミの間で高まりつつあったものが、ビーチボールで霧散し尽くした。
「『真正面から寝首を掻く』。なるほど、聞きしに勝る。ぼく達の感情を小さな驚き一つでこうも見事に塗り替えて、削ぎ落してしまう。これが『護神術』なんですね」
「……うん、まぁ、そういうことにしておこう、かな」
感じ入るマリクに対し、集は苦笑するのみだった。
「あ~、うん! よし!」
パァン、と、景気のいい音がする。
それはライミが両手で自分の頬を思い切りひっぱたいた音だった。
「ごめん、マリクちゃん。おじさんの言う通りだ。ちょっとやりすぎちゃった」
「ライミおばあちゃん……」
潔く深々と頭を下げるライミに、マリクはまたしても言葉を絶する。
「こういうさ、一気に距離を詰めちゃおうとするの、あたしの悪いクセなんだ。みーたんにも叱られたことあったし、おじさんにも言われちゃった」
「美沙子からも言われてたのかい?」
「う~、気をつけてたつもりなんだけどなぁ~、反省……」
腕を組んでため息をつくライミ。
マリクも彼女に合わせるかのようにうなずいて、やっと表情を和らげて笑う。
「こっちも、カリカリしすぎちゃいました。ごめんなさい」
「いいよいいよ~! マリクちゃんが謝ることなんてないんだって~!」
「いや、ぼくも大変な失礼をしてしまいました。集さんの言う通り、おばあちゃんはディ・ティ様を信奉しているワケでもないので、ああ、本当にぼくは未熟だ」
マリクが首を横に振って、自分の様を嘆く。
そこまで深く反省すること。だったのだろう、彼にとっては。
「ちょっと、お手洗い、お借りしますね」
「あ、どうぞどうぞ~」
マリクがトイレへと向かう。
そして、二人だけになった居間で、集がゆるやかに笑ってライミをたしなめる。
「今のはあんまりよくなかったね、ライミちゃん」
「う~、わかってるぅ~……」
「アキラと美沙子には僕から言っておくからね」
「え、おじさん……?」
「僕が言うよりは、そっちの方がライミちゃんには効くだろう?」
柔らかな微笑みで、しかし、言っていることはライミにとってはキツすぎる罰だ。
「や、やめてぇ~!? アキラちゃんに呆れられちゃうよ~!」
「ダメです。反省するようなことをしたんだから、叱られようね。ライミちゃん」
「あああああああああああああああああああああああ~~~~……!」
必死にすがるも集にすげなくかぶりを振られて、ライミはその場に崩れ落ちた。
近日中にもアキラから呼び出しを受けそうだ。美沙子にも何を言われるやら。
「ぅぅぅぅ……」
自分の失敗に消え入りたくなるライミ。
しかし、そこで彼女はふと気づく。
今さっき、マリクがライミを前にして怒りを露わにしたときのことだ。
彼は、こんなことを言っていた。
『あの方は神なんだ! ぼくの救い主なんだ!』
救い主。
マリクは、ディ・ティに救われたことがある、ということだろうか。
あのときのマリクは、尋常ではない様子だった。
彼の、デイ・ティに対する感情が迸った。ライミからはそのように感じられた。
あの小さな妖精のような神は、気弱そうな少年をいかなる苦しみから救ったのか。
何となくそれが気になった、ライミであった。
――なお、アキラからの呼び出しは即日だった。




