第464話 宙船坂さん、全てを暴く:後
広い部屋に響く、ヒステリックな金切り声。
「どういうことよ? これはどういうことなのよ!?」
叫んだのは、永嶋成美。
彼女がその叫びを向けたのは、永嶋之晴。
何が成美を叫ばせたのか。
その理由を、集はすぐに理解することとなる。
「どうして、兼樹君があんたの言いなりになってるのよッッ!」
言葉の意味が掴めずとも、その声に含まれるもの。宿る情念は一発で把握できた。
思わず、集は呟いてしまう。
「……まさか、そういう仲なんですか?」
言いはするものの、成美は聞こえていない様子で之晴に詰め寄ろうとしている。
仕方なく、集の視線は兼樹の方へと向けられる。
「志熊」
「…………ッ」
舌打ちを一つ。そして兼樹はバツが悪そうな表情で集から顔を背ける。
答えはなかったが、こちらに確信を与えるのに十分すぎるリアクションだった。
「驚いたな……」
集は素直にそれを呟く。
成美に愛人がいることは来魅からも聞いていた。
それが、こんな近くにいただなんて、さすがに想像の範囲の外だ。
「ちょっとあんた、どういうことか説明しなさいよ!」
一方で、ソファを立った成美は之晴にズンズンと押し迫る。
その顔色は怒りで赤く染まり、大きく見開かれた目は之晴しか映していない。
「……志熊は俺の部下だ。指示に従うのは当然だろう」
自分を睨む妻からは目を逸らして言う之晴だが、さすがに苦しまぎれが過ぎる。
「兼樹君はあんたの部下ではあっても手下じゃないでしょうが!」
事実、憤怒に駆られているはずの成美にも指摘されてしまう。
集を陥れるための証拠の捏造。
それを兼樹に命じたのが之晴なら、それは犯罪の片棒を担がせたことになる。
愛人である成美も平静ではいられないだろう。
同じく『裏事屋』へ依頼をした点を鑑みれば彼女も人のことは言えないはずだが。
「あっちはちょっと待った方がよさそうだねぇ~」
永嶋夫妻の方はしばし話は聞けなさそうな状況だ。集はクラマにうなずく。
確認を進めるだけならば、それ以外の二人でも十分ではある。
「渡会さん」
「……わ、私は」
茜はビクリを身を震わせて、後ずさる。
「志熊」
「…………」
兼樹は無言。俯いて、押し黙ってしまった。
もちろん、そんなことを許すはずもない。まず真っ先に、集は確認する。
「君と永嶋先輩は、どういう繋がりがあるんだ?」
上司と部下。
たったそれだけの関わりで、犯罪の片棒を担ぐようなことをするのか。
それが、集が最初に覚えた疑問だ。
もちろん兼樹だけではなく茜にも同じことを問わねばならない。
「渡会さんも。答えてくれないかな」
「それは、その……」
茜は、明らかに動揺していた。
もう少し押せば、何かを答えてくれそうだ。そんな雰囲気がある。
「どうして、僕をハメようとしたんだい?」
「だから、永嶋部長の、指示で……」
「何でそれに従ったのかを聞きたいんだ、こっちは。僕に恨みでもあったとか?」
「そんなことは、ないです。主任は私によくしてくれましたし……」
言いにくそうにしながらも、茜は集に思うところはないとかぶりを振る。
ならば、彼女が之晴に従った理由は――、
「答える必要はないぞ、茜」
そこに之晴が固い声で割って入った。
「おまえは集に言わされているだけにすぎない。そんな自白に意味はない。これ以上は何も答えるな。大丈夫だ、おまえも志熊も、別に犯罪なんてしてないから」
「永嶋、部長……」
場に動揺と混乱が渦巻く中、之晴は至って冷静だった。
しかし、結論からいえば、彼はそこで集の方に口をはさむべきではなかった。
「……ああ、そういうこと」
成美が、ニヤリと笑う。
「何だ、その顔は?」
妻が浮かべた笑みを無視しきれずに、之晴が尋ねる。成美は急に笑い出した。
「アハハハハハハ、そうなのね! あんたもなのね! あんたも私と一緒なんだ!」
「奥さん、まさかそれは……?」
成美が示したものに、集も反応を示す。
志熊兼樹と浮気関係にある来魅の母親は、血走った目を渡会茜へ向ける。
「あんた、そこの小娘とデキてるのね!」
茜は成美と目を合わせなかった。
之晴は、苦々しい顔つきで眉間にしわを集める。
「何を言うんだ、成美」
「アハハハハハハ、ごまかそうとすんじゃないわよ、クソ野郎! ねぇ!」
半笑いになった成美が、集の方を見る。いや、視線の先にいるのはクラマだ。
「ねぇ、そこのおじさん! 声を聞けばわかるんでしょ! だったら教えなさいよ、このクソ野郎はそこにいる女とデキてんでしょ? そうなんでしょ? ねぇ!」
「おやおや、ブチギレちゃってまぁ……。どうするよ、集ちゃんよぉ~?」
「そうですね。知っておきたいところです」
之晴と茜が愛人関係にあった。
今まで、そんな話は一度も出たことがない。会社でも噂すらなっていない。
しかしそれが事実ならば、茜が之晴に従ったことにも納得がいく。
同時に、之晴が自分をハメようとした理由にも関わるような気がしてならない。
「ふざけるな、やめろ!」
今までずっと冷静だった之晴が、初めて取り乱し、叫ぶ。
だが構わずに、クラマは成美に答えた。
「あんたの旦那さんについちゃあ断言はできんがねぇ~」
言って、彼が見るのは之晴ではなく、茜。
「こっちのお姉さんが旦那さんに向ける目と、声は、ただの『頼れる上司』に対するものじゃないことは確かだねぇ。そいつについちゃ、保証してやるさぁ」
「フン、十分よ!」
クラマの話を聞いた成美が強く鼻を鳴らして夫に勝ち誇った目を向ける。
「之晴!」
夫の名を叫び、成美は笑う。
「やっぱりあんたも外にオンナを作ってたんじゃないの! これまで、ことあるごとに私を悪者にして、あんたのやってることは何なのよ? ふざけんじゃないわよ!」
「知らん、俺は知らない! 俺は――」
鬼の首を取ったかのようにがなり立てる成美に、之晴は激しく首を横に振る。
しかし、否定しようとする彼を、茜がすがるような目で見つめた。
「之晴さん……」
「な、何だその顔は、渡会君! 俺と君はそんないかがわしい関係では……」
「もう諦めなさい。しらばっくれたって仕方がないのよ?」
整っているはずの顔を醜く歪ませて、成美が笑う。夫を全力で嘲笑う。
それを見るだけでも、彼女の之晴に対して長年溜め込んできたものが垣間見える。
「志熊君、渡会君、どうして俺を巻き込むんだ! 俺はそんな命令はしていない!」
「はぁッ!? シラを切るつもりですか、永嶋さん!」
之晴の反論に兼樹が目を見開いてさらに言い返す。
茜は、その目にいっぱいの涙をためて、ワナワナと震えていた。
「アハハハハハハ! いいザマよね、之晴! やっぱり悪いことはできないわね!」
夫の醜態を指さし笑う成美。だがその笑みは、それからすぐに止まることとなる。
「このオバサンと付き合うように俺に指示したのも、あんたでしょうが!」
自分が付き合っていたはずの兼樹にオバサン呼ばわりされたことで。
「…………え?」
さらに笑おうとしていた成美が、兼樹に指をさされて凍りついた。
「か、兼樹君……?」
「うるせぇよ、オバサン! 俺が本気で付き合ってたと思ってたのか!?」
「やめろ、志熊! それ以上は言うな!」
髪を掻きむしって叫び続ける兼樹を、之晴が制止しようとする。
しかし、完全に火がついた集の同僚は、さらに大声で裏事情をブチまけた。
「全部、あんたの旦那の指示だよ。あんたと俺をくっつけて浮気させて、調停になっても裁判になっても絶対に勝てる状況を作ってたんだよ、この男は!」
「そ、そんな……ッ」
成美は呼吸を止める。
愛したはずの男から直々に自分が道化であった事実を叩きつけられたのだ。
「……志熊ァ」
之晴が、頬を引きつらせて兼樹を見据える。
ビクリと震え、顔色を悪くしながらも、だが兼樹も、彼を睨み返した。
「ぃ、今さら脅してももう遅いぞ。いくらあんたが『本部』に近い人間だからって、俺が何でもかんでも従うと思ってんじゃねぇぞ。……いい加減、うんざりだ!」
「……『本部』?」
兼樹の口から出た聞いたことのない単語を、集が小声で繰り返す。
それに、ずっと控えていたライジが舌を打った。
「余計なことを……」
集も気になるところだが、部屋の中はそれどころではなかった。
兼樹と茜の自白に端を発する混乱は、収まるどころかますます加速していく。
「ウソでしょ? ウソよね兼樹君? ねぇ、ウソなんでしょ!?」
成美が、涙目になって兼樹に縋りつく。
それを彼は鬱陶しげに眉を寄せて振り払おうとする。
「ウソなものか! 俺はあんたの旦那から頼まれて付き合ってやってただけなんだよ! あんたは金も持ってたから、その部分は楽しませてもらったけどな!」
「ぅ、ウソ、ウソよ……、離婚したら一緒になってくれるって……」
ついに成美が涙をこぼす。
しかし、それを見ても兼樹はただただめんどくさそうに顔をしかめるだけだ。
「そんなの口だけに決まってるだろうが、何を本気にしてんだよ、オバサン」
「ぁ、あ、ああ……!」
成美がガクガクと震えながら後ずさる。
その一方で――、
「……之晴さん、私を助けてくれないんですね」
「…………」
茜に追求されて、之晴が苦い顔をしていた。
「私は別に、再婚してほしいなんて思ってません。ただあなたのそばにいられればいい、そう思って、あなたのことを信じて、主任をの証拠をでっち上げたのに……」
「…………」
成美よりもさらに深刻な顔と声で涙ながらに茜は訴える。
しかし、之晴は無言。沈黙。ひたすら、無反応。
「どうして何も言ってくれないんですか? そんなに自分のせいにされるのがイヤなんですか? ここには関係者しかいないのにそれでもいい格好をしたいんですか?」
「人聞きの悪いことを言うな」
やっと紡がれた之晴の言葉は、自分に対する非難を否定するものだった。
茜の瞳に、彼を咎めるような光が宿る。
「私のことを大事にするって言ってくれたのに、ウソだったんですね」
「それは、ウソでは……」
「ウソ。だって、守ってくれなかったじゃないですか、さっき」
「それとこれとは別の話で……」
「同じです。同じなんです。私には同じなんですッ!」
「……チッ」
ワッと泣き出す茜に、之晴はそっぽを向いたまま舌を打つ。
会話中、彼は一度も茜の方を見よていない。その顔には嫌気が浮かんでいた。
「何ともまぁ……」
隣に立つクラマの声を聞きつつ、集は思う。
この人達は、一体何の話をしているのだろうか。この愁嘆場は一体何なのか。
《《まだ》》、《《本題に入ってもいないというのに》》。
「要するに――」
集が、大きな声を四人の『依頼人』に向ける。
「永嶋先輩と渡会さんが愛人関係で、先輩の奥さんと志熊が愛人関係だった。だけど志熊は先輩に命令されて奥さんと付き合っていた。理由は、離婚調停で確実に勝つために。つまりはそういうことですね? 志熊。それで合ってるかな?」
「ぁ、ああ、その通りだ」
「ウソッ、ウソよ! そんなのウソよォ――――ッ!」
うなずく兼樹のそばで、成美が膝を折って泣き崩れる。
だがそれに何も思うことはなく、次に集は之晴と茜の方へと目をやる。
「僕の部署で進めていたプロジェクトのデータを他社に漏洩した事件について、証拠をでっち上げたのは渡会さんと志熊。どっちも永嶋先輩から指示を受けて。だね?」
「……はい。そうです」
「待て、渡会君。ち、違う、違うんだ。そうじゃないんだ」
うなずく茜に之晴が言い訳を重ねようとしている。
しかし、やはり集はそれに何も思うことはない。ただ、確認したいだけだ。
「結局――」
彼が見るのは、当然、永嶋之晴。
「あなたは何がしたいんですか、永嶋先輩?」
「……集」
「この流れだとプロジェクトの機密データを漏洩したのもあなたですよね、先輩。物的証拠はないですけど、状況的に見て一番臭いのは間違いなくあなただ」
「待て、集。俺の話を聞いてくれ。俺は……!」
之晴が何かを言おうとするが、無論、そんなものに耳を貸すつもりはない。
「ご家庭のことは、つまり奥さんを悪者にして別れようという魂胆だったんでしょう? わざわざ志熊を使って奥さんに不倫させたくらいなんですから」
「ぐ……ッ!」
図星を突かれたからか、之晴が苦しげに呻く。
彼へ、兼樹と茜が刺すような視線を送る。成美は、まだ立ち直れていなかった。
「僕がわからないのは、何で僕をスケープゴートにしたかです。僕自身、先輩に恨まれるような覚えはないんですけど、何でわざわざ証拠捏造までして、僕を?」
「そ、それはだな……」
「ああ、答えを聞く前に、これをどうぞ」
たじろぐ之晴に、集が差し出したのは『真実の珠』だった。
「言い訳はしてもいいですけど、ウソは一切なしでお願いします」
「ぅ、お。ぉぉ……ッ!」
灼熱のウソ発見器を前に、追いつめられた之晴がゴクリと息を呑む。
そして、彼はやっと白状した。
「知らない! 俺も知らないんだッ! ただ『本部』からおまえをハメろと言われて、俺も上から命令されただけなんだ! 俺のせいじゃない、俺のせいじゃ……!」
「『本部』、上から命令、ですか……」
首を激しく横に振り、之晴が大声で騒ぎ続ける。
集はクラマをチラリと見る。恩師は一度だけうなずいた。ウソはなさそう、か。
之晴が言う『本部』とやらが何なのか、集には全く心当たりがなかった。
ただ、自分と何某かの関わりはあるのだろう。これはなかなか、難儀な話だった。
「き、箕浦ァ!」
之晴が、急にライジのことを呼ぶ。
「いつまで高みの見物を決め込んでる! 手下を呼べ、この連中をどうにかしろ! さもないと『本部』に今回のことを報告するぞ! いいのか、評価が落ちるぞ!」
「之晴さん……!」
ライジに集達の排除を命令する之晴に、茜が絶望のまなざしを送る。
しかし、名指しで命令されたライジは軽く髪を掻いて、肩をすくめて笑うのみ。
「な、何だ、その反応は……? いいのか? 本当に報告するぞ?」
「どうぞ、ご自由に。俺ァ、そこの宙船坂って人とコトを構えるつもりはないんで」
「何を、言ってる……?」
之晴が絶句する。
しかしライジは「当然の選択だ」と言わんばかりに、盛大に息をつく。
「相手が悪すぎますわ。そりゃ、あんたがこのことを『本部』に報告すりゃ、俺の評価は落ちるかもしれねぇけどよ、こっちの野郎を相手にしたら命を落とすことになりかねねぇ。同じ『落ちる』なら、命より評価の方がマシに決まってるでしょう」
「な、な……?」
ライジにすげなく断られてしまった之晴が、完全に顔面蒼白になる。
決定的な一打であった。
この場における主導権を、集が掌握したのだ。
「――永嶋先輩」
「うッ!」
集に呼ばれて、之晴がビクンと震えて背筋を正す。
「ま、待ってくれ、集。その、俺も反対はしてたんだ。おまえをハメたこと。だから最初に協力を申し出たじゃないか。俺はずっとおまえの味方で、だから、な……?」
彼は汗にまみれた顔をヘラヘラ笑わせ、言い訳を始める。実に往生際が悪い。
それも含めて、集はずっと思っていたことを言った。
「どうでもいいですよ、別に」
「……え?」
「先輩がどうして僕をハメたのかも、その『本部』が何で僕を狙っているのかも、今はどうでもいい。本当にどうでもいいんです。何なら、先輩のご家庭のことだって」
そう、どうでもいい。全くもってどうでもいい。
さっき集は自分の一件を枝葉に例え、クラマは永嶋家の一件を幹と根に例えた。
だが違う。違うのだ。
永嶋家の一件は確かに幹であり根である。しかし、違うのだ。
「先輩が誰と浮気してようが、奥さんが誰と不倫してようが、僕にとってはどうでもいいことです。今の僕にとって大事なのはもっと『実のある話』なんですよ」
大事なのは枝葉ではない。幹でもない。根でもない。
この場で最も大事なのは『実』だ。
「だから本題に入りましょう」
集は静かに目を細めて、これまで一度も触れられなかった『本題』を告げる。
「――来魅ちゃん達は、どうするんですか?」




