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第39.5話 かつて貫満隆一だったモノ

 道を歩いていると、雨が降り出した。

 五月の終わり、春も深まり、そろそろ空気が湿り気を帯びる時期。


 ポツポツと降る雨の中に、かすかに鼻孔に届くのはアスファルトの鉄臭さ。

 周りの通行人が走ったり傘を開くのが見える。

 だが、多数の中にまぎれながら、貫満隆一は己を雨に晒して歩き続けた。


「……クソがよ」


 毒づいたのは、胸が痛んだから。

 耳に届く雨の音が、鼻に感じる鉄の匂いが、ぬるい空気の感触が、彼を苛む。


 心臓はあっという間に早鐘を打ち、汗が止まらなくなる。

 意識がグラつき、呼吸が乱れる。平衡感覚も怪しくなって、身が傾いでしまう。


 近くにあった公園へと歩みを早めて、隆一はトイレに駆け込んだ。

 濃い湿気のおかげで、漂う悪臭はそれはひどいもので、隆一は吐き気すら覚えた。


 だが、えり好みはしていられない。

 隆一は洗面台の蛇口をひねり、水をジャアジャアと出した。


 ポケットの中に手を突っ込むも、指先が震え出して上手くモノを掴めない。

 苛立ちに奥歯を噛みしめ、何とか掴み出したのは、クシャクシャになった紙の袋。

 中には、幾つもの種類の錠剤が入っていた。


 錠剤の梱包に書かれている名称は、いずれも精神安定剤に類する薬品のもの。

 何種類もあるそれは、全て効き目が特に強いモノばかりだった。


「はっ、はァ、……ァっ、はっ」


 ブルブルと震える手で、隆一は必要な錠剤を一つ一つ出していく。

 分量など考えない。とにかく、梱包から開けていく。

 手のひらに小さく山を作るほどの量を出すと、それを一気に口の中に入れた。


 当然、飲み込めるはずがない。

 だがそこは、出しっぱなしの水に口をつけて強引に流し込んだ。


「ぐっ、げッ! げほッ! ぐほっ! が、は……!」


 激しく咳き込んで、立っていられずその場に這いつくばる。

 胃が震えるのがわかって、吐き気と共に中身がせり上がってくるイヤな感触。

 しかし隆一は口を手で押さえると、逆流を無理やり止めた。そして、飲み下した。


 震える体を抑えきれず、しばし、彼はそのままの体勢でいる。

 やがて、ようやく少し落ち着いて、口から手を放した。


「はぁ、はぁ……」


 漏れる自分の吐息すら、鬱陶しい。


「――チッ」


 床に落ちた自分の中折れ帽を見つけて、隆一は舌を打つ。

 立ち上がると、薄汚れたの向こうにくたびれ果てた五十代半ばの男が見えた。


 呼吸も落ち着いた。手の震えもなくなった。

 心臓の鼓動は正常に、汗も流れなくなり、吐き気も何もなくなった。

 だが、胸の痛みだけは消えず、絶えず、貫満隆一を責め続ける。


 五月の終わり。

 初夏の入り口、梅雨目前のこの季節。

 貫満隆一は自分の家族を失った。――犯人は、未成年だった。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 もう、二十年以上も前の話になる。

 貫満隆一の結婚は遅かった。

 初婚が、三十を越えてからで、子供ができたのは三十五を過ぎてから。


 若い頃からずっと警官一筋でやってきた隆一。

 そんな彼にとって、このときの数年間が最も幸福な時期だったのは間違いない。


 妻は同じ警官で、年下だが賢く器量よしで、何より隆一のよき理解者だった。

 多忙であまり帰れない彼を常に支え、子育ても頑張ってくれた、自慢の妻。


 だが、隆一の仕事中、彼女は死んだ。

 まだ幼い子供を連れて散歩中に、真っ昼間の往来で通り魔に襲われた。


 報せを聞いた隆一が病院に駆けつけたときは、もうすっかり冷たくなっていた。

 泣いた。隆一は泣いた。

 もう何を言っても応えてくれない妻の亡骸にしがみついて号泣した。


 捕まった犯人は、まだ十五歳の少年だった。

 家庭環境と受験へのストレスから、心身喪失状態にあったという。


 結論から言えば、犯人への罰は大したものにはならなかった。

 世論は、そして隆一本人は、犯人への厳罰を望んだ。当然の話だろう。


 しかし、日本という国は、社会は、そして法は、犯人を厳しく罰せられなかった。

 むしろ犯人の将来や更生が云々などと、擁護っぽいことまで言い出す始末。


 隆一は憤慨した。

 これが社会なのか。これが法なのか。正義は一体、どこにあるのだ。と。


 激しい怒りに心を焼かれ、一時期は自暴自棄になりかけた。

 警官をやめようとも思った。

 誇りを持っていたはずの自分の職務が、どうでもいいものに思えてならなかった。


 だが、隆一には子供がいた。

 最愛の妻が遺してくれた、唯一無二の宝物だ。

 この子を、自分が育てなければならない。それだけは、誰にも譲れない。


 だから、隆一は警官をやめなかった。

 不器用で正義感に篤い彼は、結局、警官としてしか生きていけなかったのもある。


 親戚や友人に手伝ってもらいながら、隆一は男手一つで子供を育てた。

 そして時間は流れ、親子二人、ゆっくりと少しずつ、心の傷を癒していった。


 妻を殺した犯人が出所したのは、四年後のことだった。

 それを知ったとき、隆一はまたしても社会の理不尽に直面した。


 たった四年。たった四年だと。

 人一人の命を奪っておいて、たかが四年で赦された。と?


 忘れてはいなかったが薄れつつあった激憤が、再びその身を燃やそうとした。

 それでも、激発しなかったのは子供がいたから。

 父親である自分に、この子よりも優先することなどあってはならない。


 持ち前の強い倫理観を鎖として、彼は自らを縛り上げ、耐えきった。

 そう、貫満隆一は、耐えきれるはずだった。

 怒りにも、憎しみにも、絶対に負けないはずだった。絶対に。絶対に。絶対に。


 数日後、妻を殺した犯人は死んだ。

 貫満隆一の子供も死んだ。

 現場は隆一の家で、血に染まった部屋には、放心している彼が立ち尽くしていた。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 鏡に映る自分へと、隆一は語りかける。


「情けねぇザマだ。なぁ、しっかりしようや、刑事さんよ。おめーは法の番人だろ? 警官だろ? 刑事だろ? だったら、休んでるヒマなんかねぇよなァ、オイ?」


 ブツブツと呟きながら、目に尋常ならざる光を宿し、彼は中折れ帽子をかぶる。


「おう、そうだぜ。それでいい。そうだ。いい顔じゃねぇか。見たことがあるぜ、おめーの顔。コートに、中折れ帽に、無精ひげの、あ~、ドラマに出てたあの警部さんだ。何だよ、おめー、あれそっくりじゃねぇか。いいねぇ。いいセンスしてるぜ」


 彼がコートを着るようになったのは、子供を失ってから。

 中折れ帽子をかぶるようになったのも、髭を伸ばし始めたのも、同じタイミング。


「そうさ。ドラマでも言ってたじゃねぇか。警官の正義はな、法律なんだよ。法こそが絶対だ。法だけが、俺達を律する唯一無二の鎖、神の言葉なのさ。警官はそれに逆らっちゃいけねぇ。外れちゃいけねぇ。そうさ、わかってる。わかってるさ……」


 まばたきはしていない。

 顔の筋肉は、唇以外はどこも動いていない。


 瞳だけが揺れている。

 血走った瞳が、鏡を見つめて、フラフラと頼りなく揺れている。


「わかってるだろ、貫満隆一。あの子は死んだ。死んだんだよ。ああ、そうさ。俺の目の前で殺された。そして、あいつは、あ、あいつは、あいつも、ぉ、俺は……」


 瞳の揺れが激しくなる。

 一度収まったはずの動悸が、また早くなり始めた。


 汗が浮かぶ。

 体が震える。

 呼吸は乱れて、また指先がブレ始めて――、


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」


 鈍い音が響いて、鏡が放射状に割れた。

 隆一が、鏡を殴ったからだった。切れた拳から、血がつつと垂れる。


「ふぅ……」


 短く、息をつく。


「落ち着けよ、貫満隆一。混乱するな。あの子の件はもうカタがついただろうが。あいつは、あの子を殺して自殺したんだ。事件は被疑者不在で終わったんだよ、隆一」


 そうだ、あの事件はもう終わった。

 捜査の結果、犯人は隆一の子供を殺したのちに自殺した。という結論になった。

 自分から全てを奪い去ったあの事件はそれで終わって、過去となったのだ。


 乱れかけた呼吸を再び整えると、隆一は中折れ帽を手で直す。

 彼が、物語に出てくるような刑事の格好をしている理由。

 それはまさに、物語に出てくるような刑事の格好をしているからに他ならない。


 自身をイメージの鎖で縛って、キャラクターという檻の中に押し込めている。

 そうすることで自己暗示を施し、壊れかけた心に形を与えているのだ。


「俺の勘が告げてるぜ。今晩辺り、全部の決着がつきそうだ。そのとき必ずあのガキは、金鐘崎アキラは本性を現すはずだ。……逃がさねぇ、絶対に逃がさねぇからな」


 金鐘崎アキラに対する執着を、貫満隆一はまだ自覚していない。

 ただ、己の勘に従うままに、彼はあの少年を追い続ける。


「待ってろよ、俺が必ず、捕まえてやるからよぉ……」


 どこでもない虚空へと呟きながら、貫満隆一は悪臭漂うトイレを出ていった。

 彼が『日本語を話す風船爆弾』となったのは、妻と子供が死んでからだ。


 今やなくてはならない彼の『勘』も、そのときに得たもの。

 そして、貫満隆一『勘』は、未成年犯以外の事件で働いたことは一度もなかった。


「待ってやがれ、金鐘崎アキラァ……」


 ――風船爆弾は、もうすぐ起爆する。

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