第39話 菅谷真理恵は優しくて、でも運命は残酷で
八重垣探偵事務所を出て五分ほどの場所。
そこで、俺と賢人は宙色東警察署の女刑事、菅谷真理恵と遭遇した。
「賢人君、私と一緒に行きましょう!」
若い女刑事は、いきなりそう言って賢人に右手を差し出してくる。
「え、ぁ、……え?」
唐突過ぎるその申し出に、さすがに賢人も戸惑いの声を漏らす。
「な、何ですか、一体……」
そう問い返す賢人に、菅谷はフンスと鼻息も荒く続ける。
「決まってるでしょう、児童相談所よ!」
「児童相談……?」
賢人が、眉を下げたまま俺を見てくる。
いや、そこで救いを求められても、俺も何が何やらわからんから。
「昨日一日、あなたを放置してしまってごめんなさいね。リュウさんがあなたをどこかに連れていっちゃって、それから探したんだけど……」
「ぁ、昨日は、すみませんでした……」
何故かお互いに頭を下げ合っている賢人と菅谷。
昨日、おそらくは俺と賢人が出会う前、日中にでも二人は会っていたのだろう。
「今日も、こんな時間になってしまったけど、でも、ある程度算段は付いたわ。今からでも多分間に合うから、私と一緒に児童相談所に来てほしいの」
「ちょっと待ってくれよ、菅谷さん。児童相談所に俺を連れていって、それからどうするんだよ。何が何だかわからない。説明が欲しいですよ……」
若干ヒキ気味で賢人が言うと、菅谷は「あ」と声をあげる。やっと気づいたか。
「ご、ごめんなさい。前置きも説明もなしで、突然すぎたわね」
「いえ、いいんですけど……」
「あのね、賢人君」
「はい」
「私と一緒に、逃げましょう?」
「はぁ!?」
おいおいおいおい、まさかの駆け落ちルートにGOですかァ!!?
「私と一緒に児童相談所に行って、緊急的一時保護をしてもらうのよ。あなたは、郷塚の家にいちゃいけないわ。あの家は、あなたにとってマイナスにしかならない」
「あ、ああ、そういう意味か……」
「……? そういう意味以外に、どんな意味があるっていうの?」
ホッと胸を撫で下ろす賢人に、菅谷はキョトンとなる。
マジかよ、この女刑事。自分の言ってることの意味を全然わかってねぇぞ。
「でも、児童相談所なんて行ったって、どうせ無駄でしょ……」
菅谷の説明に、賢人はその顔を消沈させて、小さく息をはく。
その横顔は、一目見るだけでこいつの半生の過酷さを想像させる重苦しいものだ。
だが、菅谷はそんな賢人を真っすぐに見つめて、言うのだ。
「私が、何とかするわ」
――って。
「は、はぁ……?」
「これまでは、賢人君一人だったから色々とわからないことも多かったでしょうし、方法だって限られてたでしょ? でも、私が何とかするわ。だから安心して」
この、菅谷真理恵とかいう女刑事。何だ。
俺も戸惑ってしまう。
「でも、どうせ話なんて聞いてもらえるワケが……」
「私が聞いてあげるし、担当者にも聞かせてやるわ。手順も確認してあるわ!」
「でも、仮に話を聞いてもらってもすぐに動いてもらえるはずが……」
「私が動くわ。多少の蓄えはあるから、あなたを避難させるくらいはできるわ!」
「でも、お、親父はヤクザとツルんでて……」
「私は警察よ。今、あなたは、刑事とツルんでいるのよ! ヤクザ3倍特効よ!」
スゲェな、この女刑事。
初めて見たときはそんなでもなかったけど、こんな猪武者タイプだったのか。
賢人は、もう何を言っていいかわからず、タジタジになっている。
「……あのさぁ」
俺はそこで、これ見よがしにため息をついて、話に割って入る。
「何か、賢人の気持ちとかお構いなしに話進めようとしてねぇか?」
「あなた……? え、こ、金鐘崎アキラ君! どうして、あなたが!?」
今の今まで俺に気づいてなかったんか~い。
ものすごいシングルタスクなのかな、この人。集中力は無駄にありそう。
「俺がここにいる理由は、別にいいでしょ。それより、さっきから横で聞いてりゃ、一人でどんどん進めすぎなんじゃねぇの? 当事者の賢人が困ってるじゃんか」
「あ、確かにそうかも。ごめんね、賢人君。先走っちゃったわね」
「いえ、それはいいんですけど……」
ふ~む、人の話は子供の意見でも素直に聞いてくれるタイプか。
お人好し。それも相当筋金入りの。賢人が一定の信頼を置くのもわかる。が、
「まずは、賢人の希望を聞くべきなんじゃないのか?」
「いえ、まずは賢人君を安全な場所に保護するところからよ」
俺が指摘すると、だが菅谷はかぶりを振る。そしてそう断言した。
「今の賢人君は、自分の置かれた環境に常識を蝕まれて、正常な判断ができなくなっている可能性が高いわ。だから、まずは安心して休める場所に身を置くべきよ」
きっとそれは、誰もがうなずくであろう、至極真っ当な意見だった。
こいつ、感情論任せの考えなしってワケでもないのか。そうなると疑問が浮かぶ。
「何で、菅谷さんは俺なんかにそこまでしようとしてくれるんだよ」
今、賢人が口にしたそれこそが、俺も抱いた疑問。
菅谷真理恵は郷塚賢人の親戚ではない。友人でもない。繋がりも深くはないはず。
「俺はあんたとは、この前会ったばっかりだろ……」
「そうね。確かにそうよ。でもそれって、あなたを助けない理由になるの?」
逆に問われてしまった。何こいつ。無敵?
「ワケがわかんねぇ。何でそこまで賢人に執着するんだよ」
ついつい流れから、俺もそんな言わんでいいことを口走ってしまう。
「言ってることはご立派だが、虐待児童の保護なんて刑事のする仕事じゃねぇだろ。完全に管轄外じゃねぇのか。あんたには、他にやるべき仕事が山ほどあるだろ」
「大人にそういう生意気な言葉は使っちゃいけないんだぞ、アキラ君。めっ!」
うるせぇ、人の話を聞けェ! こちとら純粋促成の七歳児で悪かったよ!
「アキラ君の言う通りではあるわ。確かに私には、刑事としての仕事が沢山ある。でもね、私はもう賢人君の現状を知ってしまった。なら、それを何とかしたいの」
「……菅谷さん」
毅然とした態度で言う菅谷に、賢人は言葉を失う。
ここで、俺はあえて悪役を買って出た。
「それって、ただのあんたの自己満足じゃねぇか。独りよがりとか、独善って言うんだろ。自分がいいことをしたつもりになって、いい気分になりたいだけだろ、結局」
「おい、アキラ……!」
さすがに、賢人が気色ばんで俺を咎めようとする。
「いいのよ、賢人君。まさしくその通りだから。ええ、自己満足よ、これは!」
菅谷真理恵は否定するどころか、腕組みして清々しい顔で肯定しちゃったぞ。
「え、……え?」
賢人、菅谷真理恵を二度見、三度見。
「……賢人助けて、神様気分かよ。あんた」
俺もどう返せばいいかわからず、苦し紛れにそんなことを言ってしまう。
すると、何故か菅谷は軽くながらも顔に苦い笑みを浮かべる。
「昨日、相棒の刑事に同じようなことを言われたわ。やっぱり、そうなのかもね」
相棒の刑事――、貫満隆一か。
「でもね、だったらそれでいいのよ。私は、神様になりたいのよ、きっと」
おっと、この女刑事、何やらとんでもねぇコトを言い出したぞォ!?
「だって子供には、大人は神様みたいなものじゃない。特に、親なんて。違う?」
「それは……」
言い淀む賢人。
「何もわからない子供を導くのが、親の務めで、大人の義務。それって神様みたいなものでしょ。だから、その務めを果たす気がない郷塚家から賢人君を助けたいと思ったのよ。私も、まだまだ若輩で頼りないけど、一応は大人だからね」
「何で、どうして俺みたいなヤツに、そこまで……」
震える賢人の肩を、菅谷真理恵が優しく叩く。そして彼女は笑顔で言った。
「ただの自己満足よ」
「菅谷さん……」
「私のやってることは、刑事の仕事じゃないんでしょうね。でも、目の前の泣いてる子を見て見ぬフリして、窃盗犯なり捕まえて、今日も日本の治安を守ったぞ、なんていい気になれるはずがないでしょ。私の自己満足はね、そんなに安くないのよ!」
「そうかよ。……悪かったよ」
俺は、一言謝って引き下がった。
何てこったよ、という驚嘆が、俺の中に衝撃として広がっていく。
令和の日本にこんなヤツがいるなんて、思いもしなかった。
菅谷真理恵は純粋に、本当に心底からの一念で、郷塚賢人を助けようとしている。
こいつは、世にも珍しい『信念を持ったいい人』だ。
俺も、そして賢人もすでに確信している。賢人にとっての最善の道。それは――、
「だから、賢人君。私と一緒に来て?」
嗚呼、俺は今、悲劇を目の当たりにしている。
賢人の手を握り、あたたかみに溢れる笑顔を見せてくる菅谷真理恵。
だが、賢人はもう、この人の笑顔に応えることができない。
こいつはすでに、選択してしまった。人の道を外れ、俺と共に歩むという選択を。
「――ありがと、菅谷さん」
感謝を口にしながらも、賢人は菅谷の手を振り払った。
菅谷の顔に、驚きが浮かぶ。
「賢人、君……?」
「昨日それを言われてたら、きっと、あんたと一緒に行ってたよ。ありがと」
一日の差。たった一日の差が、命運を分けた。
「でも、もう俺はあんたとは行けない。ごめん、菅谷さん」
「待って、賢人君。それって、どういう……!」
菅谷真理恵の目の前で、俺と賢人の姿が消える。
俺が使った魔法じゃない。きっと、賢人が死体を透明化させた魔法だ。
「賢人君? え、賢人君!?」
菅谷真理恵はいなくなった賢人をその場で探し、他の場所も探すべく走り出す。
「賢人く――――ん!」
遠ざかる彼女の声と足音を聞きながら、俺は賢人に尋ねる。
「いいのか?」
「今さら、そんなこときかないでくれ。雇えって言ったの、おまえだろ」
ああ、そうだな。そうだったな。
賢人は、握った拳を震わせながら、見えなくなるまで菅谷真理恵を見つめ続けた。
「さよなら、菅谷さん。……ありがとう」
菅谷真理恵には届かない。それを知りながら、賢人は別れの言葉を呟いた。