第344話 或る恋の終わり/今はまだ、いつかきっと
え、何言ってんの?
サティ含め、マリエ以外の全員の総意である。
それを代弁したのは、というか、口に出したのはキリオであった。
「え、何言ってるでありますか?」
もう、まさにそのまんま。皆の気持ちをそのまんま代弁するキリオ。
だがマリエはしっかりとした物言いで、また言うのである。
「私は、助からなくてもよかったんです」
「マリエ!?」
「そう思っていたのは事実です。あなた様。……途中までは、ですけど」
言って、彼女は軽く苦笑する。
「あなたは何が言いたいんです? 勝ったのは自分だと、見せつけたいんですか?」
「そんなことをして、何になるんですか。苦しいだけじゃないですか。サティ様も、私も。それに、キリオ様も苦しいのではないかと思いますよ」
喰ってかかるサティに、マリエは悲しげに眉を寄せる。
それを見てサティもハッとして、また俯く。
「多分、ラララさんが異能態を使った影響だと思います。邪獣になっていた私もかすかではありますが、自我を取り戻していたんです。そして私は、自分がしたことを思い出しました。サティ様を呪いで蝕み、キリオ様を幾度も殺そうとしたことを」
「マリエ、だがそれは……」
「もちろん、頭ではわかっています。原因はグーラド・ベリアルという邪剣にあることは知っています。でも、人の気持ちってそんな簡単なものじゃないでしょう?」
諫めようとするキリオに、マリエはやんわりと言う。
それはまさしくその通りで、キリオは何も言い返せなくなってしまう。
「私は、自分は滅ぶべきではないかと思っていました。でも、キリオ様が言ってくれました。私の心は私のものだ、って。それで気づいたのです。私が罪悪感に押し潰されて滅びを選ぶことは、私を救おうとしてくれているキリオ様の心をないがしろにする行為だって。それは耐えがたいことです。だから私は、生きることを選びました」
「それが、それが何だって言うんですか……!」
語り終えたマリエに、サティが再び声を荒げる。
「……サティ様も、そのときの私と同じだったのではないでしょうか?」
「同じ? 私があなたと? 何が同じだというのですか、何が!」
「自分の行ないが悪だと知りつつ、でも、気持ちを抑えることができなかった。間違いであるとわかっていても、それをせずにはいられなかった。……違いますか?」
それとはつまり、マリエの滅びを画策したこと。
自ら呪いを受けることで、キリオに、マリエを諦めさせようとしたことだ。
「間違っていたら、ごめんなさい」
叱るでもなく、諭すでもなく、マリエは対等の立場で語りかけようとしてくる。
だが、その態度が、サティにとっては癇に障ったらしく、
「そうだったとして、だったら何だというのですか? 私があなたの死を望んでいることに変わりはないでしょう? 今だって、私はあなたにいなくなってほしいって、心から思っています! あなたは私から、キリオ様を奪ったのですからね!」
「サティ様……」
「何ですか? 何です、その目は? 私を憐れむのですか? キリオ様の隣で、あなたに敗れた私を、高みから見下ろすのですか! さぞやいい気持ちでしょうね!」
サティが、目を見開いてマリエに向かって怒鳴りながら笑う。
だが、マリエはそれを悲しそうに見つめ、そっと、サティに近寄ろうとする。
「な、何を……?」
「そこまで言うのでしたら、構いません。私を殺してください」
「は?」
驚くサティを前に、マリエはくっとあごを上げて自分の首をサティに示す。
「ここは自分の力以外は使えない場となっておりますので、首を絞めるのが一番早いかと思います。ですので、サティ様が今も私を殺したいのであれば、どうぞ」
「本気、なの……?」
唖然となるサティが、周りを見る。
だが、そこにいるバーンズ家の面々は、驚きを浮かべつつも止めようとしない。
ケントも、キリオですらだ。
「何故、何故止めないの? どうして? 何で誰も彼女を止めないんですか!」
混乱して、サティが叫ぶも、だが、やはり誰もそれに応じない。
「キリオ様!」
「これは、おまえとマリエの対話だ。それがしは口は出さんであります」
しっかり拳を握って我慢しているクセに、キリオはそう言うのだ。
突き放しているワケではない。
これは、マリエを邪獣から戻したときと同じだ。
確固たる決意をもっての行動を、キリオは邪魔しない。見守ることにしたのだ。
そうして、全ての判断はサティに委ねられた。彼女の前にはマリエがいる。
「……殺しますよ?」
サティが、マリエに向き直って低く呟く。
「構いません」
自分の細い首を示したまま、身じろぎ一つしない。
サティは、呼吸をかすかに乱しながら、そのマリエの首に手を伸ばそうとする。
白く、細い首だ。
サティの細腕といえど、両手で絞めればあっさり絶息させられそうだ。
「マリエ様……」
「何でしょうか、サティ様」
「私はあなたが嫌いです。大っ嫌いです」
サティが伸ばした手の指先が、マリエの首筋に触れる。
「それは、仕方のないことだと思います」
「そうやって、あなたは私を赦そうとする。そういうところも嫌いです」
「性分なものでして、すみません」
困ったように笑うマリエの首に、サティが両手をかける。
ここから少し力を加えればマリエの首は容易く締まることだろう。簡単な話だ。
「殺しますよ? 本当に、殺しますよ……?」
「構いません」
何度も確認をするサティに、しかし、マリエの答えは一貫している。
「またあなたは、そうやって私を……!」
サティは悔しそうに顔を歪め、マリエの首を締めようとする。
だが、三秒経ち、五秒経ち、十秒経っても、彼女の指先に力は込められなかった。
「何でですか……」
やがて、もう少し時間が経ったところで、マリエの耳に届くサティの声。
逸らした首から、彼女の両手が離れていく。マリエはあごを下げ、サティを見た。
「どうして、あなたは……」
サティは泣いていた。
その瞳からボロボロと涙を流して、マリエを睨んでいた。
「どうしてあなたはこんな私を赦そうとするのですか! 私はあなたの滅びを望んだ女なんですよ! あなたがキリオ様の隣にいることを我慢できない、そんな女――」
「あなたが……」
泣き叫ぶサティに、マリエはその表情を引き締めて、短く告げる。
「あなたが、私を滅ぼそうとしたことを悔いて、苦しんでいるからです」
「く、悔いてなんて……」
「悔やんでるじゃないですか。とっても後悔して、泣いているじゃないですか。それが見ていられないから、私は、あなたに改めて知ってほしかったのです」
知ってほしかった。マリエはそう言う。彼女は続ける。
「サティアーナ・ミュルレという人は、キリオ様がベタ惚れするくらい素晴らしい人だということを、あなたに知ってほしかったのです。だから苦しまないでください」
「マリエ様……」
「あなたが苦しむと、キリオ様も悲しみます。……知っていますか? 異世界であなたがお亡くなりになってから、キリオ様は十年以上も悲しまれ続けていたのですよ」
「キリオ様、が……?」
「あの、ちょっと、マリエさん。あの、それは……!」
いきなりの告白にサティはまたも驚き、キリオが盛大に取り乱す。
「キリオ様、それは、本当なのですか……?」
「い、いやぁ、何というか、その……」
サティに見つめられ、キリオは気まずそうに頬を掻く。そして、観念したように、
「情けない話だが、マリエの言う通りだ。彼女がいなければ、私は生涯、君の死から立ち直れなかったかもしれない。すまない、サティ。私は弱い男だったみたいだ」
そう言って頭を下げてくるキリオを見て、サティは、かすかに身を震わせる。
「ああ、ぁぁ、ぁああ……!」
今、マリエに『赦し』を与えられ、やっとサティは実感した。
自分の醜さ、自分の弱さを受け入れてもらえることが、どれだけの救いになるか。
ならば自分がしたことは何だったのか。
最後の最後まで、夫に強く在るよう求めた自分は、果たして強く在れたのか。
弱いキリオを見たくないという、己自身の愚かさの顕れではなかっただろうか。
果たしてそれは『支え』と呼べるのだろうか。
自分は、キリオを『支え』になれていたのだろうか。
その答えを示したのは、キリオだった。
「私はタマキ姉上のような強い人ではなかったよ、サティ。君という『支え』を失って、私の心はガタガタになってしまった。だから、マリエに助けてもらったんだ。すまない、君が望む強い男でありたかったが、私にはできなかったよ……」
そう言って、また謝ってくるキリオに、サティははっきりと感じてしまった。
己の弱さを吐露する彼こそ自分が求めた『強いキリオ』だと、わかってしまった。
「あぁ……」
サティの口から、声が漏れる。彼女は思い出した。
自分がどうしてキリオに恋をしたのか、どうして好きになったのか、思い出した。
「私は『強いキリオ様』ではなく『頑張るキリオ様』に恋をしたのです」
自分の弱さを受け入れて、それでもひたむきに前に進もうとする彼に惹かれた。
どこまで愚直に、そして実直に、一歩ずつ進んでいこうとする彼を好きになった。
今のキリオがまさにそれだ。サティが好きになったキリオだ。
では、そうでなくしたのは誰だ。
キリオから『弱さ』をとりあげて、強く在るよう求め続けたのは、誰だ……!
「そうだったのですね――」
全てを悟り、サティは深くうなだれる。
「一番弱かったのは、他の誰でもない、私自身だったのですね……」
その口元には、小さく笑みが浮かんでいた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
サティが言い出したことだ。
「お別れをしましょう、キリオ様」
キリオは、何となくではあるが彼女がそれを言い出すのではないかと思っていた。
「サティ……」
「今回の一件は、振り返ってみれば全て私の弱さに起因しています。テンラ殿下の勧誘を断っていれば、そもそも事件は起きていませんでした。マリエ様のお話だって、キリオ様を見つけてから聞けばよかった。だけど私は、それができなかった……」
「それを、誰が責められる。当時のおまえの状況を考えれば――」
キリオがそう言いはするのだが、サティはゆるやかに笑うのみで、
「私が私を責めています。人の気持ちは簡単ではない、でしょう?」
「そうではあるだろうが……」
「それに、私が切り出さなければキリオ様が切り出していた。……違いますか?」
「――いや、そうだな。私が言っていただろう。同じことを」
「キリオ様……!?」
これには、マリエの方が仰天する。
「私は君を守ると決めたんだ、マリエ。私の『怒り』は君を守るための『怒り』だ」
「それは、でも……」
「サティを嫌いになったワケではない。だが、どんな事情があろうとも、私にマリエを討たせようとしたことだけは、見逃すことはできない。今の私には、無理な話だ」
「はい、存じています」
サティは、すっかり大人しくなっていた。
彼女もまた、自分の弱さを受け入れることができたのだろう。キリオはそう思う。
「本当に? 本当に、お別れ、なんですか……?」
信じられないといった感じで、マリエがキリオとサティを交互に見る。
うなずいたのは、サティ。
「マリエ様、私は……、私は自ら、零れ落ちたのです。キリオ様の『守るべきもの』のうちから、この人の手の中から。だから――」
「自分を見てほしいなんて、当たり前のことじゃないですか! 私だって……!」
「でも、あなたは私を赦してくれたでしょう?」
泣きそうになっているマリエに、サティは優しく微笑んでいる。
その微笑みこそ、本当サティだと、キリオは知っている。
「だから、お別れをしましょう。キリオ様。そして私に仕返しをしてください」
「仕返しなんて、するワケがないだろう?」
「え……?」
覚悟の表情を見せるサティへ、キリオはかぶりを振った。
「今の私は君を赦せない。だがそれは恨みではない。『怒り』と『恨み』は近しいが別のものだ。私は君を恨んでいない。マリエは、聞くまでもないだろう」
言うキリオの隣で、マリエがコクコクうなずいている。
「そして――」
キリオは次に、その場にいる全員をグルリと見回す。
「この中に、サティを恨んでいる人は誰かいるでありますかァ~~~~!?」
「「「一人もいませぇ~~~~ん!」」」
声は綺麗に揃っていた。もちろん、打ち合わせなしのぶっつけ本番一発勝負だ。
「そういうことだ。恨みもないのにどうして仕返しをする必要がある?」
そしてキリオがチラリと見た先にいるのは、倒れたテンラ。
「仕返しを受けるべきは、あっちだよ。サティ」
「はい、ありがとうございます。キリオ様、皆さん……」
また深く頭を下げているサティへ、キリオはマリエに目配せしてから、告げる。
「五年、置こう。サティ」
「――キリオ、様? それは?」
サティが、理解できていない様子でキョトンとなっている。
それを少し面白く感じながら、キリオは彼女に自分とマリエの判断を聞かせる。
「君のことだ。二度と私達の前には現れない、とでも言うつもりだったんじゃないか? だが、私はそれを認める気はない。五年置こう。そうしたら、また会おう」
「で、でも、キリオ様は私を赦せない、と……」
「ちゃんと聞いていたか? 私は『今の私は』と言ったんだよ、サティ。お互い、冷却期間を置いて頭を冷やそうじゃないか。私はそうしたい。君は、どうだろうか?」
言い終えて、キリオがサティの反応を待つ。
しばし、面食らったまま固まっていたサティの瞳が、また潤み始める。
「いいの、ですか? 私を、こんな私を、キリオ様は……」
「いいも悪いもないさ。私はそうしたいと思ったから、提案しているんだよ」
キリオは彼女に笑いかけ、マリエも一緒になって涙ぐんでいる。
「どうかな、サティ」
再度問いかけるキリオへ、サティの答えは決まっていた。
「――愛しています。キリオ様」
長かった三日間が、ここに終わりを告げる。
テンラとサイディへの仕返しは、アキラとミフユが現世に戻ってからの話となる。
そしてその後に待ち受けるのは――、キリオからの、バーンズ家への仕返しだ。




