第342話 或る恋の終わり/その花の名は『恋慕』
幸せだった。
彼女と過ごした日々は、間違いなく、幸せだった。
若き日、仕事で訪れた村の宿屋で出会った彼女。
礼儀作法など少しも知らず、ただ元気で、溌溂としていた宿屋の看板娘だった。
仕事が終わるまでの二年近くを過ごしたその宿屋で、いつの間にか親しくなった。
村を去る頃には、とっくに好きになっていた。
彼女に求婚するために、自分は二か月を費やし神の名を持つ花を探したりもした。
結婚して、街に連れて帰って、家族も皆、祝福してくれた。
子供はできなかったけど、それでも共に過ごした日々はまぎれもない、人生の宝。
共に笑って、共に泣いて、時々喧嘩して、すぐに仲直りして。
苦しみを分かち合い、喜びを分かち合って、一緒に過ごした三十余年。
色んなことがあった。
軽く思い出すだけでも、様々な記憶が溢れる。
出会いの記憶。
お買い物という名の最初のデートの記憶。
谷底での求婚と、家族に初めて紹介したときの記憶。
二人が経験した最初の危機は、妻の勘違いによる浮気騒動。
様々なことがあった。
色んな事件があった。
三十年という年月は短いものではない。
その中で言い表せないほどの数の出来事があって、二人でそれを乗り越えてきた。
ずっと一緒にいられればと、そう願い続けた三十年だった。
だが、現実は残酷で、無情で、過酷なものだった。
異世界でも、日本でも、二人は添い遂げることはできなかったのだから。
遠き異世界では、病が二人を引き裂いた。
そして、ここ日本で二人の仲を引き裂いたのは――、
「おまえしか考えられないのだ、サティ」
サティアーナ・ミュルレ、その人だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
音が死んだ。
キリオの暴いた真相に、もはや誰も呻きすら盛らせずにいた。
走り抜けた衝撃にかき乱された空気も、完全に落ち着いて凪いでしまっている。
静寂だった。ただただどこまでも、一切の雑味もない、透き通った静寂。
「…………」
そんな中で、一人だけ静寂に浸りきれず気配を揺らしている者がいる。
キリオに名指しで元凶であると告げられた、サティである。
ずっと俯いたままの彼女の反応を、キリオは辛抱強く待ち続けた。
だが、一分が過ぎ、三分が過ぎたところで、彼は仕方なしに口を開く。
「否定は、してくれないのだな……」
「――――ッ」
彼の声に、サティは大きくその身を震わせる。
キリオの確認。――いや、それは確認などではない。懇願だ。ただのお願いだ。
頼むから否定してくれとキリオはサティに言っているのだ。
暴いたのは、彼。
だが、それを最も暴きたくなかったのも、彼。
信じたいがために疑って、そこに出てしまった答えに、キリオの心は震えている。
そこにある真実がどうあれ、彼の中に、サティに対する隔意など一つもない。
マリエという伴侶を選んだ以上、サティの夫を名乗れなくなったとしても。
それでもサティアーナ・ミュルレを信じたいのが、キリオ・バーンズの本音だ。
だが、そのかすかな願望すら、打ち砕かれる。
「私の……」
ゆっくりと顔を上げて、天井を見上げたサティが、ようやく口を開いた。
「私の『真念』は『恋慕』です」
そして彼女が明かしたのは、自身の『真念』について。
それは、事実上の自白だった。
「やはりか、やはり、そうなのか……ッ!」
キリオの声が、熱を帯び始める。
それを聞きながら、サティは自分の異能態について、かすれ声で説明をする。
「私の異能態は『霧生華御月』。相手を『キリオ・バーンズ』に変える能力を発揮します。私はそれで、テンラ殿下を『キリオ』様に変えました」
「な、何ですか、その能力……ッ!?」
彼女の話した内容に、シイナを始めとして皆がまた驚く。
静寂は壊れ、またしてもザワつくその場で、キリオが眉間にしわを集めて、
「そうか、おまえの『真念』が『恋慕』だから、か……」
「はい……」
キリオへの尽きぬ恋心。
それこそが、サティアーナ・ミュルレの真実にして、自己の核心であった。
顕れた異能態の能力は『キリオ』の複製。
しかもただの複製ではない。
魂のレベルから、相手を本物の『キリオ』に変えてしまう、恐るべき能力だ。
本来、サティには知りうる機会がない晩年のキリオの記憶も完全再現してしまう。
そこまでできるのは、絶対に限りなく近い絶大を実現しうる異能態だけだ。
「ちょっと待って、おかしいよ!」
だが、ラララが大声で水を差してくる。
キリオとサティと共に、この三日間を駆け抜けたラララが、ここで疑問を呈する。
「じゃあ、あの『真問真答一対呪』はどうなるの!? あのとき、呪いはサティお義姉ちゃんに反応しなかった。お義姉ちゃんは、嘘をついてなかったわ!」
「記憶が封じられていたのではないだろうか」
だがその疑問に、キリオは実にあっさりと答えを示す。
サティが、クスッと微笑をもらす。
「隠し切れませんね。さすがです、キリオ様」
「やはり、そうなのか?」
「そうです。異能態の副次効果として、私は自分がそれを使ったことを忘れます」
「え、そ、そんなことが……?」
サティが語った説明に、これまたシイナが不思議そうに首をかしげるが、
「いや、ありうるだろ。俺とおまえもそうじゃねぇか、シイナ」
「あ……」
そうだ、シイナとタクマも同じく、自分の異能態を使った際の記憶がなくなる。
ただ、サティと二人の間に相違点がないワケではない。
サティは己の異能態の効果を知っているが、シイナ達はそれを知らない。などだ。
「サティ、おまえが自分でそれを覚えていないのは、おそらく……」
キリオは言いかけるが、結局そこで言葉を途切れさせてしまう。
サティが異能態の使用を忘れるのは、きっと、ニセモノではないと思うため。
目の前にいる『キリオ』が本物の自分の夫だと心から信じたい。
その願いが、能力の一端として発現したのではないか。
そんな推測を立てるキリオであったが、それを口にしたところで何も変わらない。
サティアーナ・ミュルレこそ、今回の一件の元凶の一人なのだ。
「テンラ殿下は『真念』には到達していませんでした」
サティが自白を続ける。
「では、あの『キリオ』の異能態は……」
「そうです、私の異能態で『キリオ』になった『彼』が発現させたものです」
「そのレベルで、他人を『キリオ』に変えられるのか――」
これにはキリオ本人も感嘆するしかない。
サティの異能態は、本当に魂までをも『キリオ』に変えてしまうのだ。
「しかし、サティよ。何故テンラなのだ? こやつにとってキリオは不倶戴天の敵であったはず。それがどうして『キリオ』になっていた。何があった?」
「……私は、テンラ殿下から取り引きを持ちかけられたのです」
倒れたテンラを見ながらのシンラの質問に、サティは若干の間を置いて答える。
「『出戻り』をしてから、私はただ会いたくて、殿下はおそらく復讐をするために、それぞれキリオ様を探していました。その中で、私は殿下と遭遇して『Em』への加入を持ちかけられたのです。殿下の最終目的は自分の『帝国』を手に入れること。そのために、彼はキリオ様の捜索と並行して『Em』の結成準備を進めていました」
「殿下はサティのことを知っていたはずであります。おそらくは、それがしに対する人質にするためにサティを誘ったのでありましょう」
キリオの見解は筋が通っている。サティ自身も、それにうなずいた。
「おそらく、そんなところだと思います。そして私は殿下に聞かされて、初めてマリエ様の存在を知りました。キリオ様が私の死後に娶った二人目の妻の存在を……」
声は静かなままで、サティはマリエを見つめ――、いや、睨みつける。
マリエはそれを正面から受け止めて、視線を返す。
「私は、一度は勧誘を断ったんです。でも、二度目の勧誘のときにマリエ様の話を聞かされました。最初は、嘘だと思いました。キリオ様が、私以外の女性を娶ることなんてあり得ない。そう思いました。でもテンラ殿下は帝国の式典に夫婦で参加するキリオ様達の話をして、それは真に迫るもので、作り話には思えませんでした……」
マリエを睨み据えたまま、あくまでも声の調子は変えずに、サティは語る。
「それでもマリエ様のことを否定する私に、彼は言ったのです。ならばキリオと再会したときに事実を確認して、絶望すればいい。と。その時点で、彼は私を『Em』に引き入れることは半分諦めているようでした。でも、私も動揺と怒りで平静ではいられず、つい口走ってしまいました。今この場で確認する手段がある、って……」
「そうか、それでテンラ殿下はおまえの異能態について知ったのでありますな――」
「その通りです、キリオ様」
キリオに対してだけ、サティの言葉の調子が沈み込んでしまう。
「そこで、テンラ殿下は提案してきました。自分を『キリオ』にする代わりに『Em』に入れと、そう言ってきたんです。どうやら彼一人では組織の結成準備はかなり難航していたようで、有能な右腕を欲しがっているようでした……」
「サティは事務仕事や交渉事なんかには強かったでありますからなぁ……」
「恐れ入ります」
褒められたのが嬉しかったか、サティはかすかに笑ってペコリと頭を下げた。
「自らの大願成就のためならば、己を怨敵そのものに変えることもいとわぬ、か。テンラめ、その執念を別の形で発揮すればよかったものを……」
シンラが、自分の長男に対して今さらな嘆きを発する。彼の憂いはなかなか深い。
「それでおまえは、テンラの提案に乗ったのか。サティよ?」
続けざま、彼が問う。サティは、だが、首を横に振った。
「彼の提案に乗ったワケではありません。ただ、キリオ様が本当に二人目の妻を娶ったのかどうか。それを知りたいという思いに衝き動かされて、私は――」
「テンラを『キリオ』に変えてしまったのだな……」
「はい」
そして『Em』のリーダーである『ミスター』こと『キリオ』が生まれたワケだ。
「今から、一年半ほど前の話になります」
「その頃は、それがしはまだ『出戻り』していなかったでありますな」
キリオがこちらに『出戻り』したのは一年前の話だ。
だが、そのときすでに『キリオ』とサティは『ミスター』と『ミセス』だった。
「異能態を使ってテンラ殿下を『キリオ』に変えた私は、その記憶を失って目の前の『キリオ』を本物であると思い込んで、彼に寄り添いました。私の異能態で『キリオ』になった人間は、本当の自分を忘れて、身も心も記憶も『キリオ』になります」
「だから、それがし達は皆、あの『キリオ』を本物と思ったのだな……」
淀みなく語るサティにキリオは納得するが、他の皆はおののいていた。
人一人を完全に別人に変える異能態。こうして聞くと、実に恐ろしい能力である。
「それでも何もかもが100%変わるワケではありませんでした。あの『キリオ』は自分の『帝国』を手に入れるという目的だけは忘れていませんでした。だから彼は『キリオ』になっても変わることなく『Em』を結成したのです」
「それで、サティはそこから、どうしたのだ……?」
「愚かしくも、優越感に浸りました」
優越感。
ここで出てくるにしてはあまり似つかわしくないセリフである。
「私は自分の異能態で変えた『キリオ』からマリエ様の話を聞きました。それで、一度は打ちのめされました。だけど『キリオ』はマリエ様の隣でなく、私のそばにいてくれたんです。『彼』は私に言ってくれました。彼女よりも私を選んでくれる、と」
「サティ……」
「その言葉を信じて、私はこの一年半、『彼』に付き従いました。でも――」
サティが次に言わんとすることを、皆がすでに知っている。
きっとそれが、全ての『終わり』の『始まり』だった。
語る彼女の瞳に、うっすらと涙がにじむ。
「私は、キリオ様が『出戻り』したことを知ってしまった……!」
すでに狂っていた歯車は、ここからカラカラと音を立てて空転していくのだった。




