第325.5話 ミュルレとララーニァ/結
――これは、キリオ・バーンズの『絶望』の記憶。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ヒメノから宣告を受けた。
今晩辺りに逝くだろう、と……。
キリオ・バーンズ、50歳のときの話である。
他のヒーラーに言われたならば、即座に突っぱねていたに違いない。
だが、それをキリオに言ったのは、彼が知る最も優れたヒーラーのヒメノなのだ。
「助かるすべは、もう、ありませんか……」
「申し訳ありません」
ヒメノは、ただただ申し訳なさそうに謝ってくるばかりだった。
それに対して、キリオは何も言えなかった。
この数年間、ヒメノはサティのために手を尽くしてくれた。
ヒーラーとして世界各地を回る傍ら、様々な情報や薬をキリオに届けてくれた。
正直、キリオ本人よりもヒメノの方が、よっぽどサティのために動けている。
その彼女に、何もできないままのうのうと夫ヅラをしてる自分が何を言えるのか。
「これまで、ありがとうございました、姉上」
深々と頭を下げているヒメノに、自分も頭を下げるしかない。
それ以外にできることなど、何もなかった。
ヒメノは、最期のときまでサティのそばについていたいと希望した。
彼女がここまで言うのは、滅多にあることではない。よほど堪えているようだ。
しかし、キリオはそれを丁重に断った。
「最期のときは、二人で過ごしたいのです」
そう言って、納得してもらった。
言う自分に反吐が出そうになった。自分の妻はまだ生きているではないか。
ヒメノが帰って、屋敷には自分とサティの二人だけ。
屋敷はそこまで広くはなく、使用人も今は誰もいない。先日まで数人いたが。
キリオは、サティのいる部屋へと向かう。
彼女を一人にしてしまった。そのことに罪悪感を覚えている。
「サティ……」
進む足取りは重い。足全体が鉛と化したようだ。
当然だ。妻はもうすぐ死ぬ。それを、あのヒメノまでもが保証してしまった。
今、キリオの心は幾つかに分かたれていた。
サティの死を認めまいとする自分と、サティの死を受け入れようとする自分。
全ては夢なのではないか、とも考える自分もいる。安直な現実逃避だ。
目頭が熱い。焼けつくようだ。
少し気を緩めれば、この場で泣き崩れてしまいそうになる。
だがサティはそんな自分など望まないだろう。
彼女はいつだってキリオに強く在って欲しいと願い続け、今日まで支えてくれた。
「サティ、私だ」
ドアの前に立ち、ノックをして声をかける。
少ししても返事は来ない。だが、少し待つのが習慣となっていた。
部屋の中に入ると、目に飛び込んでくるのは新緑と深緑。そして色とりどりの花。
ベッド以外の家具は片付けられていて、多数の花瓶にこれらが活けられている。
これを行なったのはキリオだった。
せめて気分だけでも、と、部屋の中を妻の故郷の森の国のようにしたのだ。
そして、濃密な花の匂いが満ちる部屋の中に、彼女はいた。
「来たよ、サティ。私だ」
「――――」
キリオが近づいて呼びかけても、返事はない。
あの、溌溂として活発だったサティが、今や見る影もなくなってしまっている。
まだ四十代を終えたばかりだというのにその髪は隅まで白く変じ、ほつれている。
薄く開いた瞳は濁って、頬はこけ、体はやつれきって、今や骨と皮だけの状態。
肌からは生命の質感が失せて、キリオも見慣れた死体のそれに近い。
顔色は土気色で、これも死体と見分けがつかないような色合いになっている。
口は半開きで、彼女の瞳はもう、どこも見ていない。
渇いている。
渇き切っている。
生命の潤いが、全く見られない。
半ば朽ちかけた、残滓程度の生命力しか残していない、死んでいないだけのもの。
これが、これがあのサティだというのか。これが……!
「く……」
込み上げてくるものを無理矢理飲み下し、キリオはベッド脇の椅子に座る。
「…………」
もはや、声をかけることもできない。
今まで毎日呼びかけてきたが、ついぞサティからの反応はなかった。
あるいは、もう心は死んでしまっているのかもしれない。そんなことも思った。
だが、さすがにそれは辛すぎる。そうは思いたくない。
サティは眠っているだけなのだと、キリオは常から自分に言い聞かせた。
きっと目を覚ましてくれる。
そうしたら、またいつものように話して、それから、それから――、
「サティ……」
ベッド脇で顔を俯かせて、目を閉じる。
すると、これまでの三十年間の思い出がブワッと意識の中によみがえってくる。
いずれもが幸福に彩られた、自分とサティの記憶。
若かりし日、彼女に渡すためにセレニスの花を探し続け、谷底に落ちた記憶。
帝国建国後、名前を偽って騎士をしていたことがバレたときに叱られた記憶。
どれもこれも、彼女と共に歩んで、彼女と共に過ごした、愛すべき日々の景色だ。
だが、今のサティはすっかり老け込み、死を待つばかりとなってしまった。
「死なないでくれ、サティ……」
彼女の手を両手で包み込んで、キリオは願う。
どうか、どうかサティが生きていられるように、と。無駄な願いを念じ続ける。
「君がいなくなったら、私はどうすればいいかわからないんだ。君が……」
擦り切れるような声を出して、彼は願った。
どうか死なないでくれ。どうか、と。ずっとずっと、願い続けた。
そして、そんなことしかできないでいる自分の無力さを、心底から呪い続けた。
「……ぁ――」
どれくらいの時間そうしていたかもわからないキリオの耳に、声が届く。
ひどく小さな、この至近距離でもなんとか聞こえる程度の声だ。
「……サティ?」
キリオが俯かせた顔を上げれば、そこには瞳に意思の光を宿し、自分を見る妻。
そして、渇いたその唇が、微細ながらも動きを示す。
「キリ、ォ、さま……」
「サティ? サティ! 気がついたのか、サティ!」
一転して狂喜し、手を握ったまま立ち上がるキリオ。
だがサティが見せる微笑みに、彼はすぐさま喜ぶのをやめた。背筋が冷たくなる。
「どうしたんだ、サティ……?」
「キリオ、様。申し訳ありません。私は、先にいきます」
「ま、待ってくれ、サティ。そんなことを言うな!」
サティの笑みが別れを告げるものであると悟り、キリオは顔を青くする。
「やめてくれ、サティ。そんなことを言うのは、やめてくれ!」
「これまで、サティはあなたと一緒に過ごせて本当に幸せでした。キリオ様」
「言うな、言わないでくれ! サティ、お願いだ!」
キリオの瞳から、大量の涙が零れる。
妻を生かせるなら、それが悪魔との契約であっても、今の彼は躊躇わないだろう。
死なないでくれ。
死なないでくれ。
キリオは今わの際に立って、涙ながらに妻に乞う。
「お願いだ、サティ。私を一人にしないでくれ……ッ!」
君がいなくなったら、世界は闇に包まれる。
自分という人間の心は、二度と這い上がれない場所にまで墜ちてしまう。
「サティ、死ぬな。サティ! お願いだ!」
幾度も自分の名を呼ぶ夫に、妻は言う。
「泣かないで、キリオ様」
「サティ……」
「あなたは、世界で一番強い人。不屈の人。だからどうか、己の弱さに負けないで」
呟くサティの声から、徐々に力が失せていく。
だがキリオは、彼女の言葉を聞き続けた。絶対に聞き逃すまいと、意識を注ぐ。
「キリオ様、どうか、強く、強く在ってください。強く……」
「わかったよ、サティ。大丈夫だ、私を誰だと思っている。君の夫だぞ」
「はい」
サティが笑みを深める。
それは、彼女が見せる終わりの笑顔。残る命の全てを振り絞った、花の一咲き。
「あなたは、世界で一番、強い、ひと――」
そしてサティアーナ・ミュルレの瞳は閉じられた。
それを見届けたキリオ・バーンズは、ゆっくりと目を見開いて、妻の名を呼ぶ。
「サティ」
反応はない。
「サティ?」
反応はない。
「サティ!」
反応はない。
「――――ッ」
草花に彩られた部屋の中に、夫の絶望の嘆きが響き渡った。
サティアーナ・ミュルレはその日、亡くなった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――これは、キリオ・バーンズの『苦しみ』の記憶。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
牢屋から出され、帝都の中央広場へと連れて行かされた。
キリオ・バーンズ、72歳のときの話である。
ボロ服一枚着せられた状態で、腕に枷をつけられ兵に強引に引っ張られる。
すると、広場に待ち構えていた群衆が、キリオを見て口々に騒ぎ出す。
「来たぞ、『簒奪公』だ!」
「あいつが皇太子殿下を殺しやがったんだ!」
「おまえなんか死んじまえ!」
「平和になったと思ったのに、余計なことしやがって!」
キリオめがけて次々に投げ入れられる石、ゴミ。
兵士達がやめさせようとするが、民達はそれを恐れずにキリオを罵り続ける。
「……クク」
どうにも笑えてくる。
これが、己のしたことの結果かと思うと、失笑を禁じ得ない。
自分はこの国のためを思って行動を起こしたつもりだった。
戦力を集め、帝国を変質させんとする皇太子に天誅をくらわせたつもりだった。
自分が、兄シンラのもとで尽力し、ついに築き上げたこの帝国。
それを皇太子が我がものとして変えようとしている。
これこそは許されざる暴挙であるとして、自分はそれを止めるべく決起した。
多数の貴族がこれに呼応した。
帝国を皇太子のおもちゃにさせてなるものかと、皆が正義を叫び、結集した。
そして、成功したはずだったのだ。そう、成功した。
このたびの義挙は、皇太子を成敗することで決着した。帝国は守られた。
そのはずだった。
が、わずか四時間後には状況が覆った。
第二皇子が率いる軍によって、キリオ・バーンズの軍勢はあっさり鎮圧された。
呼応したはずの貴族達も揃って手のひらを返し、尻尾を巻いて逃げ出した。
捕まったのち、それを聞かされて、キリオは彼らを口汚く罵った。
帝国への忠節を忘れた外道共。
恥を恥とも思わぬ卑劣漢。力あるものにおもねるばかりの風見鶏共が、と。
だが、自分が処刑される今日、こうして広場を歩いて、感じた。
わからされてしまった。痛感させられた。
間違っていたのは、自分の方だ。キリオこそは、恥を恥とも思わぬ卑劣漢だった。
自分に石を投げる民衆を見るがいい。
皆、キリオに対して嫌悪や敵意を隠そうともしていない。憎悪すら感じる。
キリオが、皇太子を殺してしまったからだ。
あの方はキリオが思っていたよりもはるかに民から慕われていた。
すでに自分達の時代はとっくに終わっていた事実を、キリオは今になって知った。
自分がシンラと共に切り拓いたこの国は、もはや時代に受け継がれていた。
それを認めずに老醜を晒し、皇太子を殺してしまった。
ああ、何たる暗愚。何たる愚物。気づけるチャンスは幾らでもあったろうに。
今さら後悔を抱きながら、キリオ・バーンズは処刑具の前に到着する。
民衆がしっかり見えるよう設営された舞台の上、そこに置かれた巨大なギロチン。
「叔父上……」
そこに、自分を捕らえた第二皇子カイル・バーンズが待っていた。
「殿下――」
「遺言は聞きません。これより、あなたの公開処刑を行ないます」
カイルは努めて平静を装いながら告げてくるが、声の震えが隠しきれていない。
幼い頃に剣の稽古をつけた甥でもある。今となっては苦しいばかりだが。
「よろしくお願い致す。私の如きバカ者が二度と現れぬようにしていただきたい」
「…………」
すっかり観念しているキリオだが、カイルの反応がどうにも鈍い。
それに気づいたキリオは、甥に尋ねてみる。
「殿下、いかが――」
「叔父上。あなたの処刑は、まだ行いません」
「え……?」
思わぬ言葉に呆けるキリオの前に、同じく兵士に連れられて、彼女は現れた。
キリオの妻の、マリエであった。
「……マリエ?」
キリオは彼女を見てますます呆け、そして、その手を繋ぐ枷を目の当たりにする。
「な、何故……!?」
マリエは、国外に逃がしたはずだ。
自分の決起に巻き込むまいと、事前に準備をして、逃がしたはず――、
「彼女は、あなたが捕縛されたあとで、自ら我々のもとに赴いたのです。叔父上」
「そん、な……ッ!」
バカな、何故、何故……!?
混乱するばかりのキリオに、マリエがにっこりと微笑みを向けてくる。
「あなた様、やっとお会いできましたね。さみしかったですよ」
「マ、マリエ。……何故だ、どうしておまえは!」
「何故、と言われましても……」
問われたマリエは、一瞬困ったような顔をして、また笑う。
「私はあなた様の妻ですから。いつだって、あなたの隣にありたいのです」
「バ、バカな、そんなことで自分の命を投げだすというのか、おまえは……ッ」
キリオは信じられなかった。
この場にマリエがいることが、信じられなかったのだ。
十分な資産は渡した。住む場所も用意した。
自分がいなくなろうとも、生きていける環境も準備できていた。それなのに!
「叔父上。まずは先に、奥方の処刑を行なわせていただく」
「な、殿下、何を申される、マリエは何も関係ないはず! それなのに、何故!?」
「あなたがしでかしたことは、それで済む話ではないということです」
冷たく告げて、カイルは広場を満たさんばかりに膨れ上がった民衆へ目をやる。
「殺せ、簒奪公を殺せェ!」
「簒奪公の家族も、みんなみんな、殺せ!」
迸るキリオへの敵意、憎悪。
響き渡る『殺せ』の言葉。
カイルはそれを背に、キリオへ言った。
「今、この場に満ちている殺意は、全てあなたの行ないによって生み出されたものだ。あなたはさっき、自分の如きバカ者が二度と出ないように、と言われた。私もその通りにするつもりだ。あなたと、あなたの妻の死をもってして」
「や、やめろ! やめてくれ! マリエを殺さないでくれェ……ッ!」
キリオが激しくもがいたが、兵士によって地べたに抑えつけられてしまう。
それでも彼は、マリエの命乞いをする。
「で、殿下ァ、お、お願いします……、マリエは、マリエだけはァ……」
「…………」
カイルは、無言のまま反応も見せずマリエに向かった。
「奥方」
「はい、わかっております。殿下」
マリエは一切抵抗を見せず、大人しくギロチンがある舞台へと上がっていく。
それを、キリオは兵士達にねじ伏せられた状態で見せつけられる。
「マリエ、マリエェェェェェェェェェ……」
ギロチンの刃の下に首を置くマリエの姿が、涙ににじんでぼやけてしまう。
何故、何故こんなことになった。どうしてだ。何故、何で……。
「マリエェェェェェェェェ――――ッ!」
「こうなった原因は、全てあなたにあるのですよ。叔父上」
舞台の上より、カイルが泣き叫んでいるキリオを冷徹な目で見下ろす。
「あなたがつまらないことをするから兄は死んだ! そして今、あなたの奥方が死ぬことになった! あなたが原因だ、あなたが悪いのだ! キリオ・バーンズ!」
「ぅああああぁ、うああああああああああああああああああああああああああ!」
大きく開かれたキリオの口から、後悔と悲嘆とが声となって迸る。
だが、もう遅い。もう、全ては遅いのだ。何もかもが手遅れとなっていた。
「自分の行ないの結末をその目で見届けて、後悔しながら死んでください。叔父上」
「マリエエエエエエエエエエェェェェェェェェェェェェェェェ――――ッ!」
自分の心の全てを吐き出さんばかりの絶叫に、マリエは笑顔をもって応じた。
「あなた様――」
嘆くキリオへ、マリエは最期の瞬間まで、曇りなき笑顔を見せ続ける。
そして彼女は愛する夫へ別れの言葉を紡いだ。
「今まで、ありがとうございました」
ギロチンの刃が、落とされる。
「やめてくれええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――――ッッ!」
それから十分後、キリオ・バーンズもまた、民衆の前でその命を散らした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
これは、キリオ・バーンズの『絶望』の記憶――。




