第33.5話 菅谷真理恵は正義の意味を探してる
誰かのために何かをできる人間でありたい。
それは、宙色東署の新人女刑事、菅谷真理恵にとって人生の命題だった。
命の危機に晒された自分を、一命を持って救ってくれた祖父のように。
自分もまた、弱き誰かを救える存在でありたい。そうなりたい。
真理恵自身は、その想いを吹聴して誇るようなことはしない。
しかし、常にそれは気高き目標として彼女の心の中で強い輝きを放っていた。
「おめー、バカか」
だが、コンビを組んでいるベテラン刑事の貫満隆一に、一言で切り捨てられた。
「な、バカって何ですか!?」
さすがの真理恵も、これは無視できずに大先輩に噛みつく。
宙色市内のとあるコンビニ前での出来事だった。
本来するべき事件の捜査はすっぽかし、二人はパトロールと称して外に出ていた。
もちろん、首謀者は隆一。
真理恵は否応なしに付き合わされただけで、純然たる被害者でしかない。
だが、コンビを組まされているので実質連帯責任。
また署長に叱られるんだ、と、真理恵は胸中ですでにさめざめ泣いていた。
彼女が隆一にバカ呼ばわりされたのは、夕飯後のことだ。
コンビニで適当に食べ物を買って、車の中で食べた。
隆一はあんパン。
あのアパートを張り込んでたときも食べていたが、甘党なのだろうか。
食事中、ふと、こんな話になった。
「正義って、何なんでしょうね~」
とても、とても大雑把な話題提起だった。真理恵自身、即座に後悔したレベルだ。
しかし相手が隆一ではこれも半ば仕方がない。
何故なら、話題にあげられそうな事柄が、両者の間に一切存在しないからだ。
性別、年齢、世代、性格から趣味・嗜好に至るまで、何もかもが噛み合わない。
凸凹コンビなどという生易しいものではない。
二人はいわばぬかと釘。ぬかに釘ではなく、ぬかと釘。噛み合ってたまるか。
そういった理由から、思い悩んだ挙句、出した話題が『正義』。
何という血迷い沙汰か。真理恵は自らのセンスを呪い、その判断に戦慄した。
「――面白いこときいてくるじゃねぇか、新入り」
そして最悪なことに、大先輩の風船爆弾がこれに乗っかってきてしまった。
もはや後戻りはできない。
このベテラン刑事と会話を続けるしかないのだ、正義という話題で。
「新入り、そんな話を振ってくるからにゃ、おめーの中にゃあるんだろ、正義が」
「ぐぅ~……」
ニマニマ笑って言ってくる隆一に、真理恵は低く呻くしかなかった。
そして、果てなき羞恥に身を焼かれながら、彼女は己が抱く人生の命題を語った。
そしたら――、
「おめー、バカか」
と、ぶった切られたワケである。
「な、バカって何ですか!?」
「いや、バカだろ。何だよ、弱い誰かを救える存在になりたいって。神様かよ」
「か、神様とか、そういう話じゃなくてですね……」
「いや、そういう話だよ、おめーがしてるのは」
「む……」
隆一がやけにはっきり断言するので、真理恵は自信がなくなって黙ってしまう。
「おめーを助けたじいさんが、おめーの中で神様になってんだよ。違うか?」
「……それは」
隆一が見せる鋭い眼光に射貫かれた真理恵は、反論したいが言葉を続けられない。
今の相棒の指摘を、その通りかもしれないと感じてしまった自分がいた。
「おめーはそのじいさんを自分の中で神格化し過ぎてんのさ。だからそんなバカみてぇなことを堂々と恥ずかしげもなく豪語しちまう。やめとけよ、現実を見やがれ」
「何か、ものすごく納得がいきません……」
隆一の言っていることは一部は当たっているのかもしれない。
しかし、平気で捜査をサボる勘頼りの風船爆弾に指摘されたのが、無性に腹立つ。
「そこまで言うなら、リュウさんにはあるんですか、正義」
「あるさ。あるに決まってる。俺ァ、刑事だからな」
やり返すつもりで尋ねたら、さも当然のようにうなずかれてしまった。
「いいか新入り、俺達は刑事だ。警察だ。ある意味での特権階級だ」
「特権階級……」
「そう、俺達は『犯罪者を取り締まる特権』を与えられてる。――法律によってな」
刑法、警察法、その他の様々な法律。
日本という国でさだめられたそれらの法律が、真理恵達に特権を与えている。
当然の話だ。今さら、改めて学ぶようなことでもない。
「いいか、新入り。日本は法治国家だ。つまり、法が正義だ」
「それは日本が定める正義であって、リュウさん自身の正義とは違うんじゃ?」
「同じだ。人間は、強さ弱さじゃねぇ、正しいか間違ってるか、それだけなんだよ」
法を基準とした、正しさと正しくなさ。
それこそが己の正義であると、ベテラン刑事の貫満隆一は語る。
「どれだけ歪んだ人格をした人間でも、法を守ってりゃ正しいんだ。逆に、どれだけ過酷な環境に置かれた弱者でも、法を犯せば悪だ。俺達に許された正義は、それだけだ。いいか新入り、おまえの語った弱者を救う正義はな、法という絶対的な基準を欠いた感情論でしかねぇんだよ。刑事が口にしちゃいけねぇたぐいのシロモノさ」
「そんな、感情論だなんて……」
己の抱いてきた気高き正義を、こうも全否定されるとは思っていなかった。
真理恵は絶句し、隣に座るベテラン刑事に何を言えばいいのかもわからなくなる。
「ま、人道的に見れば、おめーの考えも立派なんじゃねぇか? 生憎、俺らは人道支援に熱あげる篤志家じゃなく、罪人しょっ引くのを頑張る刑事だがね」
あんパンを食べ終え、隆一がゴミになったビニールを手で丸める。
そして、未だ口を開けずにいる真理恵をチラリと見て、
「それよりもだ、新入り。金鐘崎アキラをしょっ引く方法を一緒に考えようや」
「……またそれですか」
今まで幾度も聞かされてきた話題に、真理恵はうんざり顔になる。
「あの子は七歳で、ただの小学二年生ですよ? お母さんと二人で暮らしてるだけの、普通の子です。そんな子を、一体どんな容疑で捕まえるっていうんですか……」
「いいや、ありゃそんなタマじゃないね。俺の勘がいってるぜ。あいつはとんだバケモノさ。日本の犯罪史上、他に類を見ない魔王みたいなヤツだ。間違いない」
また勘だけの決めつけかぁ、と、真理恵は痛む頭を指で押さえる。
「たった今、刑事は法が正義って言った口で、次に自分の勘によると小学二年生がバケモノだから捕まえたい。って、さすがにムチャクチャですよ? 自覚あります?」
「今のところ、これを相談できるのはおめーだけなんだよ。だからよ、今の日本の制度であのガキを牢屋にブチ込むための方法を考えて――、あン?」
隆一の言葉が途中で止まり、その目が車の外へと向けられる。
何事かと真理恵が彼の視線を追えば、そこにはつい先日見た顔があった。
「郷塚、賢人君……」
コンビニから出てきたのは、郷塚健司の息子、郷塚賢人だった。
だが、どういうワケか、顔に酷いケガをしている。
絆創膏だらけで、右目が塞がるほどに張れ上がっていた。見ていて実に痛々しい。
「賢人君!」
溜まらず、真理恵は車を出ていって賢人に声をかけた。
「……あれ、この前の刑事さん。ッ、いてッ」
喋って傷が痛んだらしく、顔をしかめる賢人に、真理恵は「乗って」と車を示す。
賢人は、無言でうなずくと、素直に車の後部座席に乗り込んだ。
「よぉ、郷塚の坊ちゃん。こないだぶりだが、どうしたよ。エラい男前じゃねぇか」
「親父にやられたんだよ……、あのクソ親父ッ」
ミラー越しに問う隆一に、賢人はそう毒づいた。
よほど鬱憤が溜まっているらしく、その顔には強い怒気が浮かんでいた。
「俺のせいでじいちゃんの葬式がおじゃんになったとか言ってきてさ、ムチャクチャ殴ってきやがった。俺が郷塚の看板に泥を塗った、とかさ。知るかっつぅの……」
「そんな理不尽な……」
「あのクソ親父、ことあるごとに郷塚の恥さらしとか言って殴ってきてよ……。小学生のときには、それで一回死にかけたことだってあるんだぜ、俺」
「そんなの、酷すぎる……!」
父親への不満を露わにする賢人に、真理恵はいたく同情した。
男の子とはいえ、まだ彼は中学生でしかない。
それなのに、真理恵には到底理解できない理由でこんな暴力に晒されていいのか。
「災難な話だな、郷塚の坊ちゃんよ。家族はあんたを助けてくれないのかい?」
「あんな連中、頼ろうとも思わないよ。母さんは金勘定と世間体しか頭にないから、俺がどれだけ殴られたって、病院にも行かせてくれないしさ……」
「お姉さんは……?」
真理恵が問う。
賢人には、姉の小絵がいたはずだ。彼女は賢人を大事にしていたように見えたが、
「……あの女のことは、話したくないよ」
それまでベラベラと家庭事情を語っていた賢人が、途端に表情を険しくした。
真理恵には詳しいことは何もわからない。
だが、何かよっぽどのことがある。それはありありと感じ取れた。
ダメだ、もう、見ていられそうにない。
真理恵の中で郷塚家に対する怒りが湧き上がり、どんどんと熱を帯びていく。
顔を腫らした後部座席の少年は、真理恵にとってまさしく救うべき弱者だった。
「あの、賢人君。私達で何か力になれることが――」
「やめとけ、新入り」
言いかける真理恵に、隆一が待ったをかけた。
「何でですか、リュウさん! この子は、明らかに虐待されてます! 家庭環境が異常すぎますよ。だったら、私達が助けてあげなきゃいけないじゃないですか!」
「助けは必要だろうが、それをするのは俺達じゃねぇ!」
怒りの熱に任せた真理恵の主張は、しかし隆一の強い語調に遮られてしまう。
「こいつはガキだ。ガキの子守りは警察の仕事じゃなく、厚労省とかだろうよ」
「それは、そうかもしれないですけど。でも、それじゃあ賢人君があまりに……!」
「別にいいよ、何もしないでも」
反論しようとした真理恵を止めたのは、誰でもない賢人本人だった。
後部座席の少年は、顔に何ら表情を浮かべず、達観したような目で外を眺める。
「周りにいる大人なんて、誰も頼りにならなかったよ。親戚も、学校の担任も。あんた達警察も一緒なんだろ。ちょっと、話聞いてくれたから色々語っちゃったけどさ」
それを言う賢人の声には、深い絶望と諦めの響きがあった。
聞かされた真理恵は、胸が詰まるかのような感覚に囚われてしまう。
こんな顔。こんな声。こんな言葉。
中学生がしていいはずがないし、言っていいはずがない。
今まで、彼は幾度となく周りに助けを求めたのだろう。
だがそれはことごとく裏切られ、賢人は大人に期待することをやめたのだろう。
確かめたわけではないが、真理恵には手に取るようにわかった。
郷塚賢人こそは、救われるべき人間だ。
真理恵の中で、その想いはますます強くなっていく。だが――、
「なぁ、郷塚の坊ちゃんよ。確かに俺らは、あんたを助けることはできねぇ。だが、場合によっちゃあ、別の形であんたに関わることになるかもしれねぇ」
いきなり、隆一がそんなことを言い出した。
「……リュウさん、唐突に何です?」
「郷塚の坊ちゃんよ――」
真理恵を無視して、隆一は賢人に尋ねた。
「あの葬式での死体消失。ありゃあ、あんたの仕業だろ?」
隣に座るベテラン刑事が何を言ったのか、真理恵は理解できなかった。




