第314.5話 ミュルレとララーニァ/承
――これは、キリオ・バーンズの『幸福』の記憶。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
キリオ・バーンズの年齢が三十代半ばに差し掛かった頃の話である。
シンラが帝国を打ち建てて数年という時期。
キリオは帝都に定められた都市の一角にある自身の屋敷にいた。
「キリオ様」
休日、私室でくつろいでいると、そこにサティが入ってきた。
このとき、結婚してすでに二十年近く。
しかし未だに二人で一緒に風呂に入るくらいには仲のいい夫婦であった。
「どうした、サティ」
「宮廷より書簡が届いております」
「ふむ? 私宛にか?」
「…………」
キリオが尋ねても、何故かサティはムスッとした顔のままで何も言わない。
見れば、その手には宮廷から届いたくだんの封書がある。
「どうしたのだ?」
随分と不機嫌そうに見えるのは、その封書のせいなのだろうか。
しかし、キリオには残念ながら身に覚えがない。
自分は何か、妻を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
ここ数か月の記憶をほじくり返しても、特に思い当たるものはなかった。
が、実際にサティは不機嫌そのものの表情である。
これは一体何事か。よくない予感がキリオの背を冷たくする。
「キリオ様」
「あ、ああ、サティ、何だろうか……」
妻の硬い声に、思わずキリオは背筋を伸ばして居住まいを正す。
サティはツカツカと部屋の中に入ってきて、一言、
「私は、キリオ・バーンズの妻、ですね?」
「ん? 当たり前じゃないか。いきなり何を言い出すのだ?」
「そうですね。私もそのように記憶しております。私の夫はキリオ様だけです」
「うむ、それはそうだろうが、一体、何だというのだ、サティ?」
妻の質問の意図が全くわからない。
そんなキリオに、サティは封書を差し出して、
「では、これは何ですか?」
「んんんん~~~~?」
キリオは封書を受け取った。そしてまず、それを見てギョッとする。
封書の表に宛先の名前が書かれているのだが、その名前がキリオとは違っている。
――パーン・キーリオ。
騎士として宮廷に出仕する際にキリオが名乗っている偽名であった。
彼は、宮廷では偽名を使っている事実を妻に明かしていなかった。ド忘れである。
「おかしいですね。宮廷からの遣いの方は、ここをキーリオ家と呼んでいましたよ? そして私はパーン様なる騎士様の奥方として扱われました。ねぇ、キリオ様?」
「…………」
受け取った封書に、キリオの汗が落ちる。
彼は、汗ダラダラで顔に曖昧な笑みを浮かべて、サティを見る。
妻の額にくっきりと青筋が浮かんでいた。
「キリオ君、これはどういうことかしら!?」
そしてサティがキレた。口調が素に戻る。
「すまんであります! そういえば言い忘れてたであります~~!」
キリオもまた口調が若い頃のモノに戻って、サティに深々と頭を下げた。
「何でお城に行くのに偽名使ってるのよ! 皇帝の弟のクセに、信じられない!」
「い、いや、それは、その……」
封書を両手に抱えたまま、キリオの視線は右往と左往でスイミング。
「何? 事情は聞いてあげるから、しっかり言いなさいよね!」
「え~と、実はでありますね……」
「うん」
「ほら、ウチの国って騎士の中で優れた働きをした者に『聖騎士』の称号を与える制度があるでありましょう? 前に、サティに何回は話したアレであります」
「あの仰々しい称号ね。覚えてるけど、それで……?」
若干言いにくそうにしつつも、逃げ場はないのでキリオは素直に白状する。
「それがしが聖騎士になれたときに、いっちょババーンと『キリオであります!』って、名前を明かすとカッコいいかなって思って、それで、偽名を……」
「…………は?」
次第に尻すぼみになる彼の説明に、妻のリアクションは呆れに満ちた一音のみ。
キリオは死にたくなった。だが、今さら後戻りはできないのだ。
「いやいや! だって皇帝の弟という立場を利用するよりは、己の実力だけでその称号を手に入れる方がカッコいいでありましょう! それがしはそう思うなー!」
「その考え方、タマキお義姉さんに感化されてる感じと見たわ」
「ウギャアァァァ! 完全に見透かされてるでありまぁ~~~~す!?」
さすがは妻。夫のバカさ加減をよく心得ている。
「全く、キリオ君は……」
「うぐぐぐ、妻のため息がそれがしの心にズシンと響くでありますよ……」
いい感じに騎士としての仕事もこなせていたが、さすがにこれはもう無理か。
キリオは観念し、サティに改めて頭を下げた。
「すまんであります、サティ。次に登城したら本名を明かしてくるであります」
「え、何で?」
何故か、キョトンとされてしまった。
キリオからすると、そのリアクションの方が『え、何で?』である。
「私に話してくれなかったのはちょっとモヤモヤしたけど、やろうとしてることは面白いし、それはいいんじゃない? むしろ私も応援するわよ、キリオ君!」
「ああ、うん。サティはそういう性格でありましたな」
「そうよ、キリオ君は強いんだから! 一度始めたことは投げ出したりしないの!」
諦めかけていたキリオだが、妻の応援であっという間に気持ちを取り戻す。
サティはいつでも自分を支えてくれる。その実感が、嬉しかった。
「ところで、封書の中身は何かしら?」
「開けてみるでありますかー」
キリオが封を開けて、中身を確かめてみる。すると、
「あ」
という一声と共に、彼は硬直する。
「キリオ君……?」
夫の反応に疑問を持ったサティが手紙と彼とを交互に見る。
「これ、それがしの『聖騎士』叙任の通知であります」
「え、本当!?」
驚きの声をあげ、サティが横から覗き込む。そこに書かれた内容を彼女は読んだ。
確かに、騎士パーン・キーリオを『聖騎士』に除す、とあった。
「「やったぁ~~~~!」」
キリオとサティは、互いに喜び合ってハイタッチをした。
そして聖騎士叙任式の席で、キリオはのちに伝説として語られる『皇弟宣言』をブチかまして皇帝直々にこってり絞られることとなるが、それはまた別の話だ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――これは、キリオ・バーンズの『幸福』の記憶。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
マリエがキリオの屋敷に来て、二年と半年が過ぎた。
その日は、キリオはいつも通りに執務室で仕事に励んでいた。
あの少女を屋敷に迎えてからというもの、彼は登城する機会がめっきり減った。
聖騎士団の運営に関わる書類は宮廷から届けさせている。
ここ一年は現場に出ることも少なくなって、落ち着いた日々が続いている。
現場は後背に任せればいい。
皆、実直で有能だ。大丈夫だろう。
そんな風に余裕を持って考えられるようになったのは、いつからだったろうか。
それも、この数か月以内だったように思った。
「……不思議なものだな」
つい、二、三年前までは、毎日現場に出続けていた。
その理由も、もちろんキリオは知っている。
十数年前に亡くした最愛の妻、サティアーナ。
彼女の死をいつまでも引きずっていた。何年も何年も、ずっとずっと。
キリオが現場に出ずっぱりだったのはそれを少しでも忘れるため。
サティは、常に夫に強く在るよう求め、支え続けてくれた女性だった。
自分の死を引きずるキリオなど、きっと見たくもないだろう。
それを理解しながらも、だが、心に根付いてしまったものを取り払うのは難しい。
本当に、サティを失ってからの十年は苦しい日々だった。
しかし、今はどうだ。
それを思い出として振り返っている、今は。
「今の私は強いのか、それとも弱いのか……」
キリオは、執務室の壁の一角を見る。
そこには一枚の絵が飾られていた。
彼が『聖騎士』に叙任した記念に描かせた肖像画で、自分と妻が描かれている。
騎士として甲冑を纏い立つ自分と、隣で椅子に座って穏やかに笑っている妻。
サティを失って数年は見ることもできなかった絵だ。
しかし今は、それを眺めて過去の思い出に浸れるまでになった。
「なぁ、サティ。私もそろそろ、踏み出そうと思うよ」
絵の中で微笑むかつての妻に向けて、キリオはそう呟く。
返事はない。けれど、サティはきっと肯定してくれる。そう思えた。
ドアを、誰かがノックする。
この屋敷には彼以外には彼女しかいない。
「ああ、入ってくれ」
「失礼します。旦那様」
ドアを開けて入ってきたのは、最近、とみに女性らしさを増したマリエだった。
つい先日まで子供だと思っていた彼女も、もう十六歳。
可憐さばかりが目についたその容姿に、ほのかな女らしさが息づきつつある。
「お呼び出しとのことで来ましたけど、どうかなさいましたか? お掃除ですか?」
「それは、一昨日してもらったばかりだろう。違うよ」
仕事熱心なのは助かるが、そればかりを話題のするのも何だかな、とは思う。
「今日は、大事な話があって君をここに呼んだ」
「大事なお話、ですか……?」
マリエはその顔を緊張に強張らせる。あまりいい想像はしていないようだ。
「あ、あの、旦那様……」
「どうしたね、マリエ」
「…………」
自分でキリオに声をかけながら、しかし、マリエは黙りこくってしまう。
それが迷っているからだと見抜いたキリオは、無言で待つことにする。
「……旦那様、マ、マリエは」
言いかけるその声は激しく震え、そして、
「どうして、涙ぐんでるんだね、マリエ」
マリエは泣きかけていた。涙に濡れた瞳に、キリオの顔が映り込んでいる。
「少し前から、感じておりました」
「何をだね?」
「旦那様が、私に何かを言おうとなさっておられる気配を、です」
彼女は、自分が抱ていた恐怖を、キリオに対して素直に吐露する。
「それが怖くて仕方がなかったんです。もしかしたら、どこかに嫁に出されるんじゃないか。もしかしたら、旦那様と離れてしまうことになるんじゃないか、って……」
「マリエ――」
語るマリエの頬を、涙が一筋、伝い落ちる。
「私は、家族を失って奴隷になって、旦那様に受け入れていただきました。本当に感謝しています。本当です。だから、私にできることで、旦那様のお役に立てることなら何でもしたい。そう思っています。……だけど」
「だけど、何だね?」
「旦那様と離れ離れになるのだけは、イヤです……!」
普段はあまり自分から何かを主張することのないマリエ。
だが、それを言う声には、キリオも見たことがないほどの強い意志が籠っていた。
「お願いします。これまで通り、奴隷でも、小間使いでも、私、何でもします。だから私をこのお屋敷に置いてください……! 旦那様のそばに、いさせてください!」
深く頭を下げての、必死の懇願だった。
ここまで激しい調子で何かを求めるマリエを、キリオは見たことがない。
「それは、何故かな?」
至極冷静な声で、キリオは頭を下げたままのマリエに問いを投げる。
「他に帰る場所がないからかね? それとも、生活が保障されているからか?」
わざと意地悪な聞き方をする。
マリエに限ってそんなことはないと、誰よりも知っているのはキリオ自身だ。
「最初はそういう理由もあったかもしれないです。……でも、今は違います」
返ってくるのは、予想通りの答え。
そしてそれは、キリオ自身の中で膨らみつつある期待を刺激する。
はやる心を必死に抑え、彼はマリエの言葉を待つ。
「私が、旦那様のおそばにいたい理由は……」
しかしマリエも、いいところで言葉を途切れさせてしまう。
「理由、は……」
言おうとしている。
彼女はそれを必死に言おうとしてるが、それよりも先に頬が赤くなる。
「なぁ、マリエ」
「は、はい!」
キリオに再度名前を呼ばれ、マリエは背筋を正した。
頬を赤くしたままの彼女へとキリオは思い切って、告げた。
「もしよければ、だが、私の隣にいてくれないか?」
「ぇ……」
マリエの唇から、かすれた声が漏れる。
努めて平静を装いながらも、実はキリオの頬も、少しだけ朱に染まっている。
「あの、旦那様……」
信じられないといった顔をしているマリエが、キリオに確認しようとしてくる。
「それはつまり、よ、養子……」
「違うよ」
キリオはかぶりを振る。
「では、義理の親戚……?」
「何故そうなるんだね。無論、違うよ」
キリオは、またかぶりを振る。
「じゃあ、では……」
養子でもなく、義理の家族でもない。ならば残された可能性は、一つしかない。
気づいていないはずがない。マリエは、ただ、驚いているだけ。
「それじゃあ……、それじゃあ――」
「ああ、君が考えている通りだよ、マリエ」
やっと、キリオはうなずいた。そしてここではっきり口にする。
「こんな老い先短いジジイでよければ、結婚してくれないだろうか」
「…………ッ」
マリエが、これ以上ないくらいに目を見開いた。
「そんな、でも旦那様には、奥様が……」
「サティのことは忘れられない。でもね、いつまでも引きずるのもよくないさ」
キリオはチラリと、壁にかけてある絵を見る。
そこに描かれているのは、若い頃の自分と今は亡き妻の肖像であり、
「彼女との思い出は、今もいとおしい。……だが、過去だ。過去にせねばならない」
「旦那様……」
「あ~、いや、うん。その、悪かった。違う、そうじゃないな……」
マリエの視線を感じながら、キリオは居心地悪そうに幾度か咳払いをする。
「いかんね、どうにも回りくどい言い方をするクセがついてしまっている。君にはもっと直接的に、私の気持ちを伝えようと思っていたのだが……」
それもまた回りくど言い方をしながら、キリオは面と向かってマリエに告白する。
「君が好きだ。ずっと、そばにいてほしい」
真正面から愛を告げられたマリエは、その身を震わせ、しばし呆ける。
そして、一気に涙を溢れさせて、机に身を乗り出してキリオに抱きついてくる。
「旦那様……ッ!」
「うわっ、っとと、危ないでありますなァ!」
キリオは慌てて椅子から立ち上がり、彼女の体をしっかりと受け止め、抱き返す。
「旦那様、旦那様……! 旦那様ァ……!」
「答えは聞くまでもないようだね、マリエ――」
彼の腕の中で、マリエは何度もうなずいた。何度も何度も、うなずいた。
「これからもよろしく頼むよ、マリエ」
「はい、はい!」
「それと旦那様はやめてくれ。君はもう使用人ではない、私の妻になるのだから」
「はい――」
マリエが顔を上げて、煌めく瞳でキリオを見つめる。
「これからもよろしくお願いします、《《あなた様》》!」
そうして、祖父と孫ほどに年の離れた二人は、晴れて夫婦となった。
二人の仲は睦まじく、死が訪れるそのときまで、互いを想い続けていた。
――衆人環視の中で公開処刑される、絶望の最期まで。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
これは、キリオ・バーンズの『幸福』の記憶――。




