第310話 残り40時間、次なる場所へ
キリオが聞き返す。
「サティ、今、何と……?」
「マリエ様のことは諦めてください、キリオ様」
聞き間違いではなかった。サティは二度も『諦め』を口に出した。
そして訪れる、しばしの沈黙。およそ二秒弱。
「それは……」
キリオは声の震えをなるべく抑えながら、サティに真意を問う。
「何故だ?」
「マリエ様が邪剣によって変異した邪獣は、危険すぎます」
「だから、救う努力もせずに諦めろというのか、マリエを」
「そうです。どちらにせよ交戦は避けられないでしょうが、殺すことを目標とする方がキリオ様が生き延びられる可能性が高いでしょう。救うなんて、無理ですよ……」
サティも、声の震えを必死に我慢しようとしている。
しかし、キリオに語るその声は、それにも関わらずしっかりと震えていた。
「異世界でも、あんなモンスターは見たことがありません……」
それは恐怖の震え。
心を猛烈に凍てつかせる怯えから来る、激しい震えだ。
「それは、それがしも同じだ。不覚にもマリエの姿に臆した自分がいる」
キリオもまた、サティの言葉を認める。
邪獣と化したマリエには彼も強い恐怖を抱いた。そうするべきでないと思っても。
こればかりは生物としての本能に根差したもの。抗いようがない。
「だが、それがしは……」
「危険すぎます。危ないんです、キリオ様が……!」
恐怖を認めながらもマリエを諦めまいとするキリオに、サティが声をかぶせる。
その声は熱を帯び始め、キリオを抱きしめる腕にも力がこもっていく。
「キリオ様があの人を助けたいと思っているのはわかります。当然です。でも、死んだら終わりなのです。あなたが死んだら、全てが終わってしまうのですよ……?」
一言一言、力と熱と想いを込め、サティはキリオを説き伏せようとする。
「あなたが死んだら、家族の皆さんはどうするんですか。全てを『彼』に奪われて、いいように扱われて、それで――、いえ、都合のいい言い訳はやめます……」
「サティ……」
一拍の間を置いて、サティは後ろから彼に強い調子で言ってくる。
「……もう、あなたとお別れをしたくないのよ、キリオ君」
湿った声で言われて、キリオの腹の底がズシンと重くなる。
咄嗟には何も返せない彼を、サティはより強く抱きしめ、
「やっと会えたのに、また、あなたとお別れをしなくちゃいけないなんて、私はイヤよ。イヤなの、キリオ君……。ねぇ、わかるでしょ……?」
「ああ、わかるよ。わかるさ」
わからないはずがない。その気持ちは、自分も同じだからだ。
異世界で彼女が死んだとき、十年以上も立ち直れなかった。
あのときの底なしの悲しみは、今も忘れてはいない。
しかし、ここでキリオは自分でも卑怯だと思いながらも、一つの提案をする。
「だが『キリオ』は一人じゃない。もし私が死んだら、そのときは……」
「『あの男』は、キリオ君じゃないわ」
キリオが言い終える前に、サティは彼の提案を遮った。
「サティ、それは?」
「『あいつ』は私を殺そうとして、マリエさんを邪獣に変えた男よ?」
「ああ、それは確かに、そうだが」
「そんな男がキリオ・バーンズなはずがない。キリオ君は、そんなことしないわ!」
そう言われては、キリオに返す言葉はなかった。
他の誰でもないサティが言うのならば、彼女にとって『あの男』は違うのだ。
今の彼女にとってのキリオ・バーンズは、ここにいる自分だけ。
それは何だか誇らしくもあり、だが、同時にキリオは困ってしまうワケで……、
「だからといって、マリエを諦めろというのは……」
「私は、キリオ君に死んでほしくないの。それだけなの……ッ!」
もはや完全に感情のみで訴えて、サティはキリオの背中にひしとしがみつく。
そして聞こえてくる、彼女のすすり泣く声。
それ以外に何も音がない浴室で、キリオはしばしその泣き声を聞いてから、
「サティ――」
思いっきり白けた声で指摘した。
「おまえの嘘泣きは下手だから、やめろって前にも言ったでありますよね?」
「チッ、バレてましたか」
言われたサティもケロッとした様子で泣きマネをやめて、彼の背中から離れる。
「それがしが異世界で仕事に追われ忙殺されたときも同じような感じで『仕事と私、どっちが大事なの!?』って言って嘘泣きしてきたでありますよね?」
「ああ、ありましたね。そんなこと」
「ちなみに正解は第三の選択肢『どっちも大事』。引っかけ問題甚だしい……!」
「当然です。一方しか選べないような人に嫁いだ覚えはありません」
笑うサティの声に、震えなど微塵もなかった。
「で、それを例えに出してきたということは、キリオ様のお答えは?」
「あの『キリオ』も倒す。マリエも救う。両方やるに決まってるでありますな!」
「はい、合格です。それでこそキリオ様です」
サティは、心底満足げに声を弾ませ、軽く拍手などもして見せた。
「キリオ様には強く在ってほしい。そんな私からの突発抜き打ちテストです!」
「いきなりそういうのやめろであります! 半分信じかけたであります!」
「知ってますか? 抜き打ちテストは抜き打ちでやるからこそ意味があるんですよ」
「サティ~~~~!」
「ところでキリオ様、私の胸の感触にドキドキしましたか? どうでした?」
「サティィィィィィィィィィ――――ッ!?」
我慢しきれず、面と向かって一言叱ってやろうとキリオがバッと振り向く。
「あん♪」
などと声をあげつつ、サティの体を覆っているタオルがハラリ……。
至近距離、キリオの視界いっぱいに大人の女性の豊満ボディがドォ――――ン!
「――――」
キリオ、瞬時に硬直。石化。フリーズ。一部を除き機能停止。
サティ、そんなキリオの全身を真正面から観察し、ニッコリと笑みを深める。
「健全な青少年ですね、キリオ様」
それだけ言って、彼女はタオルを拾い上げて体を覆い直した。
「では、お先に上がらせていただきます。ごゆっくり」
そして風呂場を出ていくサティの背中を、キリオは何も言えないまま見送った。
やがて、十秒ほど。キリオはプルプルと身を震わせて――、
「おのれ、サティ……、あ、鼻血が……」
サティの言う通り、キリオ・バーンズの体は非常に健全だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
風呂から出てダイニングに赴くと、食事の準備が整っていた。
時間の経過を考慮してか、相当な量だ。しかも、かなり美味しそうである。
作ったのはラララと――、
『ベリーちゃんってば、何しても超一流なんですよねぇ~♪』
「うんうん、すごく使いやすかったよ。このラララも感嘆するしかないね!」
彼女が握る真っ白い聖剣包丁ベリーちゃんであった。
「そういえばラララは母上殿よりベリーちゃん殿を託されていたでありますな」
「ベリーちゃんすごいよ、お兄ちゃん! 料理するのすごく楽しかった!」
『ルンルル~ン、ベリーちゃんにお任せで~す♪』
はしゃぐラララに、楽しそうなベリーちゃん。
案外、相性がよさそうな二人(?)であるように、キリオにも見受けられた。
「何してんの、さっさと食べちゃえば?」
そこにやってきたサラ・マリオンが、キリオに促す。
「おお、サラ殿。服の替えまでお貸しいただきかたじけないであります」
「お礼はいいわよ。どうせ着る相手もいない服だし。それより、食べながら相談よ」
「む、了解でありますよ」
着る相手がいないという点が気になったが、無暗に首を突っ込む気はない。
大人しくサラの言葉に従い、食べながら今後の動きについて打ち合わせを行なう。
「まず、あたしも同行するわ」
「ほぉ……?」
開口一番、そんなことを言い出すサラにキリオは驚く。あ、煮物が美味しい。
「それはまた、何故でありますか?」
「あたしの目的を果たすためよ。元々、そのために『Em』に入ったんだし」
「ふむ……」
キリオは風呂に入っていたので、ラララ達が聞いたサラの目的を知らない。
それはそれとして、白身魚のソテーうめーであります。
「その目的とやらは、それがしらに同行することで果たされると?」
「どのみち、それしか選択肢が残ってないのよ」
「と、言うと?」
「あっちの『キリオ』も今頃はあたしに気づいてるに決まってる。このままじゃあたしも消されるわ。だったら、動かなきゃどうしようもないでしょ。そういうことよ」
「なるほど、そうでありますな……」
ソテー、白米。ソテー、白米。ソテー、白米。ガツガツモグモグ。
「キリオ様、お水です」
「ナイスタイミングであります、サティ!」
差し出された水を受け取り、それを一口。プハァ、と、キリオが一息つく。
そこで、今度はラララがキリオに提案してくる。
「キリオの兄クン、このラララに一つ考えがあるんだが」
「ラララの考えとは? この際、使えそうなものは何でも使うでありますよ」
箸を動かしつつ、言葉通りに何でも使う気でいたキリオだが――、
「二手に分かれよう」
妹が出したそのアイディアに、その手の箸がピタリと止まる。
「……ラララ?」
「追っ手のことを考えれば、危ないのはわかるよ。でも時間がないでしょ」
ラララが、ダイニングにある時計に目をやる。
つられてキリオもそっちを見れば、そろそろ午前七時を回ろうとしている。
「それがしのせいでありますな……」
「そういうのは言いっこなしよ、お兄ちゃん。今できることをやるしかないわ」
「それは、そうだが――」
二手に分かれる。
分かれて、自分は美沙子のもとに、ラララはリリスのもとに、ということだろう。
そうした方が、家族の説得に費やす時間は減らせる。か。
「……分かれるとして、どう分かれる?」
「もちろん、お兄ちゃんとサティお義姉ちゃん。それから、こっちは私と――」
ラララの隣に座っているサラが、軽く挙手をする。
「あたし、役に立つわよ。あたしの異面体、自分以外の影武者も造れるから」
「それ、すっげぇ便利な異面体でありますなー……」
「でしょ?」
感嘆するキリオに、サラは機嫌よさげに笑うが、サティが半眼だ。
「サラ……?」
「このくらいで目くじら立てないでよ~! あんた、ガチ勢すぎ~!」
「当たり前です。私はキリオ様の妻ですから」
しれっとキリオの隣に陣取って、サティが涼しい顔でそれを断言する。
サラは「うわぁ……」と顔をしかめる。
「何ですか、サラ。その顔は?」
「何でもないけどー。ってか、本当にガンギマリよねー、あんたは……」
女二人の会話を耳にかすめつつそれを意識の外に追いやり、キリオは考える。
あの『キリオ』の異能態による現実改変が正しい歴史となるまで、あと四十時間。
「四の五の言ってられんでありますな」
「お兄ちゃん、じゃあ……!」
「二手に分かれるであります。それがしは美沙子殿へ、おまえはリリス殿へ」
こうして、二日目の方針は決まった。
準備を終えて午前八時、キリオとラララは動き出す。
「昨日まではやられっぱなしでありましたからな、ここらでそろそろ反撃の態勢を整えるでありますよ。そのために、まずは家族を取り戻すであります!」
「うん、全力で行くさ、このラララもね!」
キリオとラララが盛り上がる中、自身も外に出る準備を終えたサラが呟く。
「……待ってなさいよ、シイナ・バーンズ」
その声は小さくて、他の誰の耳にも届いていなかった。




