第309話 一緒に入ってた期間は25年以上
風呂場はかなり広かった。
全体的に薄ピンク色で、甘い花の香りに満ちているのが気になったが。
「何か、落ち着かんであります……」
石鹸やシャンプーも見るからに女性用。
自分はここにいていいのだろうか。
そんな無駄な焦燥感に駆られながら、キリオは体を洗って湯船に浸かった。
「ぁ、あ~……」
温かな湯に体を浸からせると、変な声が出た。
意識せず漏らしたその声に、改めて自分が疲れ果てていたことを知る。
今、こうして風呂に入っているだけで、体から力が抜けていく。
「これを気持ちいいと感じてる時点で、ヤベェでありますな~……」
そう呟くものの、気持ちいいモノは気持ちがいい。
浴室や浴槽の広さも、心地よさを感じる要因だろう。とても伸び伸びできる。
「ッはぁ~~~~!」
ついつい、漏らす声も大きくなってしまった。
体から疲れが抜けていくのを感じながら、キリオは握った自分の右手を見る。
手を開くと、そこには銀の指輪があった。
カディナ銀製の指輪。
かつてマリエの誕生日に贈り、あの夜、お守り代わりに受け取ったものだ。
「マリエ……」
その名を口に出すと、自然公園で見た自身の妻の姿が思い浮かぶ。
小柄でスマートだった菅谷真理恵は、だが、邪剣の力によって怪物と化した。
目の奥に浮かぶ、膨張と変形を繰り返したマリエの肉体。
耳の奥に響いてくる、キリオの名を呼ぶ、重く濁った低いだみ声。
自分に対する敵意と『キリオ』に対する愛情。
その二つだけが、邪獣となったマリエを衝き動かしている。
「ダメなのか、マリエ――」
あのガルさんが最凶最悪とまで評した邪剣、人喰いの刃グーラド・ベリアル。
その能力を打ち破り、マリエを元に戻すことは、果たして可能なのか。
アキラのマガツラならば可能かもしれない。
マリクの魔法技術ならば可能かもしれない。
ヒメノの治癒技術ならば可能かもしれない。
それがなくとも、話に聞くミフユやスダレの異能態であれば可能かもしれない。
可能性は幾らでもある。平時であれば。だが、それは平時であれば、だ。
今はもう、アキラもマリクもヒメノもミフユも、全員いない。
そして、異能態を使える兄弟達は、それに関する記憶を封じられている。
ガルさんの話によればマリエは魂の力が続く限り不死身で、進化し続けるという。
もし魂の力が尽きればどうなるか、ガルさんは教えてくれなかった。
教えるまでもない。と、いうことだろう。
つまり、そのときマリエは死ぬ。ただ死ぬのではない、魂が尽きて、死ぬ。
それは蘇生できない死だ。いわゆる『滅び』というヤツだ。
「それだけは、させん」
強く強く、指輪を握り締めながら、キリオはマリエのことを思う。
目を閉じると、マリエの笑顔が浮かび上がる。
こちら世界で再会し、自分のことを『あなた様』と呼んでくれた、彼女の顔が。
目の奥がジンと疼いて、胸に言いようのない痛みが走る。歯を食いしばる。
「――キリオ様」
浴室のドアの前からサティの声がしたのはそのときのこと。
キリオはハッとなって、右手の指輪を収納空間に戻す。
「ど、どうしたでありますか、サティ」
「お風呂の湯加減はいかがですか?」
「ああ、とても気持ちいいでありますよ!」
ビックリした。
マリエのことを考えているときに声が聞こえたものだから、不意を突かれた。
悪いことはしていないはずなのに、何故だか後ろめたさを感じる。
サティは、着替えを持ってきてくれたのだろう。
他にも、もしかして長風呂になってしまっているのを諫めに来たとか――、
「失礼いたします」
って?
「お背中、お流しいたします」
その一言と共に、タオル一枚を体に巻いただけのサティが風呂場に入ってくる。
湯船に入ったまま、それを見たキリオが完全に硬直してしまう。
「あら、もしかしてもう全部済んでいましたか?」
湯に浸かるキリオを見て首をかしげるサティの姿は、大人の色香に満ちていた。
ここまで、余裕がなくて気づけなかったが、サティは非常にスタイルがいい。
タイル一枚を羽織っている今の状態だと、その体の線がハッキリと見て取れる。
豊かな胸に、細いウェスト、スラリと伸びた長い脚は、だが何ともなまめかしい。
長い髪を上げてまとめたその髪型と赤い唇も、彼女の色気を一層引き立てている。
キリオの前に立つのは、女性として完成された美しさを持つサティだった。
そんなモノを見せられ、健全な高校二年生が果たして平静でいられるだろうか。
それは、瞬く間に顔を真っ赤にするキリオを見れば瞭然であろう。
「ぁ、あぁ~……」
裸の自分を前に、タオル一枚という無防備さで近づいてくる妻。
跳ねた。心臓が跳ねた。爆せるほどに強く、ドッキンバックンいっている。
視線は主にサティのお胸辺りに集中する。
このキリオ、自覚はないが実はおっぱい星人のケがあった。
風呂の湯とは別の要因で頭に血を上らせたキリオを、サティは不思議そうに見る。
「キリオ様、どうかなさいましたか?」
呼びかけられ、思考停止からきっかり五秒。ようやくキリオも再起動する。
「いやいやいや、いきなり何でありますか!?」
「え、ですからお背中を……」
「何でまた突然!」
「だって、いつもそうしていたでしょう、異世界では」
「…………。あー」
言われ、一瞬呆け、それからキリオも思い出した。
異世界でまだサティが病に倒れる前、風呂はずっと二人で入っていた。
それを思い返すと、不思議と心臓の高鳴りも収まっていく。
今のこの状態が『いつものこと』のように思えてきて、しっくりくるのを感じる。
「でももうそれがし、体洗っちゃったでありますぞ」
「お背中お流ししたいので、もう一回洗ってくれませんか?」
「平気でそういう無茶を言うのがサティでありますよなー! 知ってたー!」
「はい、でも、そうやって納得してくれるのがキリオ様ですよね。知ってました」
そう言って見せるサティの笑顔に、今までキリオは勝てた試しがなかった。
「こういうとき、おまえは少しだけ素が出るでありますな」
「はい? 何です?」
湯船を出て、サティに背中を流してもらいながら、キリオが笑う。
「今の笑顔に、若い頃の君を思い出したよ、サティ。懐かしいな、森の国が」
「……もう、おじいちゃんみたいなこと言わないで欲しいわ、キリオ君」
「仕方がないだろう? 私が死んだのはおじいちゃんになってからなんだから」
互いに、物言いを変えて笑い合う。
そこから少しの間、異世界で夫婦だった二人は久々に水入らずの時間を過ごす。
それは思い出話であったり、二人が『出戻り』してからの話であったり。
「ああ、そういえば――」
弾む会話の中で、キリオは自分が意識を失う前に気づいたことを語ろうとする。
「サティ」
「はい、何ですか、キリオ様」
「それがしの『真念』が何であるか、わかったでありますよ」
「え、それは……」
キリオ好みの力加減でタオルで背中をこすってくれていたサティの手が、止まる。
「公園から逃げる直前、それがしは足元に渦巻く力の流動を感じたであります。あれは、それがしの中で『真念』に相当する感情が高まったからでありましょう」
「もしや、そのときに『真念』に目覚めていた可能性も……?」
「それはないでありますな」
サティが口にする疑問に、だがキリオは『否』と言い切ってしまう。
「『真念』とは、己自身の真実にして核心。必要なのは『核心を確信すること』」
「核心を、確信……」
「《《それ》》が《《そう》》であるという確信が持てねば、異能態は使えんであります」
その辺りのことは、過去にアキラから学んでいたことだ。
知るのではなく、感じること。そして掴むこと。それこそが重要なのだ、と。
「キリオ様の『真念』とは、一体……?」
「おそらく、いや、確実に断言できる。それがしの『真念』は『怒り』だ」
「『怒り』……。待ってください、それは……!?」
「そう、父上殿と同じでありますよ、サティ」
そう言うと、背後のサティから驚きの気配が伝わってくる。
少しして、彼女は再びキリオの背中をこすり始める。
「それにしては――」
そして、口に出される疑問。
「同じ『真念』にしては、お義父さんとキリオ様の異面体は真逆なような……」
「そうでありますな。それがしは無敵化で、父上殿は絶対的な突破力だ」
「はい。全然違いますよね」
「何となくだが、その理由もわかるでありますよ」
「一体、どんな理由が?」
「父上殿の『怒り』は全てを破壊する激情であり、それがしの『怒り』は己の意を貫き通す頑なさに起因するものなのでありましょう。同じ『怒り』でも質が違うのだ」
怒りとは、最も強く最も激しい感情。
そしてその強さは、頑なさに言い換えることもできる。キリオが司るのはそこだ。
「何物をも壊す激しさと、何物にも揺るがぬ頑なさ。それが『怒り』でありますよ」
「そう聞くと、まさにキリオ様にピッタリですね」
「で、ありましょう?」
「はい。……では、これからはどう?」
端的に、サティがそれを確認してくる。
これよりどう動くか、ということなのだろうとキリオは判断し、
「それがしの『真念』はわかった。しかし、先にも言ったが『真念』は知ったところで意味はなく、感じ、掴まねばならぬもの。そこを意識していくであります」
「でも、知っているのと知らないのとでは、大違いでしょうからね」
「なるほど、そこを考えれば『真念』を知ることにも意味あるでありますな」
前言を翻してキリオが苦笑すると、サティも一緒になって笑うのが気配でわかる。
だが直後、キリオは一気に表情を引き締めて、
「それがしは必ずや『真念』に目覚め、あの『キリオ』の異能態を打ち破ってやるであります。そして、おまえとマリエを救ってみせるでありますよ」
「マリエ様……」
「うむ。必ずや、マリエを――」
決意を新たにするキリオだが、サティから反応が返ってこない。
三秒ほどして、それに気づいて彼が妻の名を呼ぶ。
「……サティ」
「キリオ様」
サティが、キリオの名を呼び返した。その声はやけに近くから聞こえた。
「キリオ様……」
再び聞こえる。しかも、もっと近くから。
しかもその声には、今までにないひどく悩ましげな響きが込められていた。
一度落ち着いた心臓が、その声に再びドキンと高く鳴る。
そこへ、さらに背中に、柔らかいものが押し当てられるのが感じられた。
え、これ、もしかしておっぱ――、
「キリオ様、お願いがあります」
声はすぐ耳元に。
間違いない。サティが、後ろからキリオに抱きついている。
「サ、サティ……?」
耳元への囁きと背中の感触に寒気と興奮を入り交じらせ、彼は肩越しに妻を見る。
そこには、眉尻を下げ、切なげに瞳を潤ませるサティの顔があった。
彼女は、かすれた声でキリオに懇願してくる。
「キリオ様。マリエ様のことは、もう諦めてください」
――サティ?




