第307話 そのとき、彼は己の中に兆しを見た
プレス機で上から圧潰されたかのような有様だった。
実際、彼女がやられたことはそれに近い。
自らがはるか上空まで殴り飛ばしたタマキに、逆襲の飛び蹴りを喰らったのだ。
タマキの蹴りは、それはもう見事なまえの上から下への急降下。
角度もなしに、地面に直角に突き立った一撃に、マリエはなすすべなく潰された。
膨張しつつあった肉は爆ぜ、全身の骨が砕ける音が響き、人の形は失われた。
喰らった直後のマリエは、冒頭に記した通りである。
人であれば即死。人でなくとも即死。誰が見てもわかりやすく即死。
当たりには大量の血が散って、割れた肉からホネやワタが覗いている。
ホネは砕け、ワタも千切れて、まさに『潰れた』以外の形容はできない姿だった。
だが、マリエは生きている。
割れた肉の断面から新たな桃色の肉がミチミチ音を立て手盛り上がり、傷を塞ぐ。
砕けた骨も隆起する肉に押されて元の形に戻り、さらに長く強く太く成長する。
音が、幾重にも響いた。
ミシミシと、ベキベキと、グチャグチャと、ギシギシと。
完全に潰れた状態から復活していく様は、ビニール人形を膨らませるかのようだ。
ぐったりとしていたものに中身が注がれて、力と張りが戻っていく。
「ぉぉぉ……、ぁぁぁ……、ぁ、き、ギ、リォ、ざ、まぁ、ぁぁ、あぁ、ァ……」
致死のダメージを跳ね除けて、ますます肥大化していくマリエがその名を呼ぶ。
元の声とはかけ離れた、濁った音。汚い声。だが、マリエの声。
「……マリエ」
キリオは、変わり果てた。だが、さらに変わり果てゆくマリエを前に立ち尽くす。
開いた口から、血の色をした泡をゴボゴボ吹きながら、彼女は声を垂れ流す。
「ァァァァ……、ぁああぁぁ、なた、ザ、まぁぁ、ァあ、ぁぁあぁ……!」
これは、何だ。
何でマリエはこんな姿になっているのだ。
理解できず、キリオは立ち尽くす。
目の前の妻の姿を現実のものとして受け入れきれずに、ただただ、立ち尽くす。
いや、マリエの姿だけでなく、今、この瞬間に現実感がない。
自分がどこに立っているのかもわからない。何なのだ、この不快な酩酊感は。
「オイ、何してんだって、逃げろよ!」
「タマキの姉ちゃん、どうして……」
「おまえらは何かしなきゃいけないことがあるんだろ? ここで突っ立ってて、そではできるのかよ!? できないなら逃げろ! ここはオレが食い止めてやるから!」
驚くラララに、タマキが余裕のない物言いで叫んでいる。
その光景すらも、今のキリオには遠く感じられる。
「ミ、ズタァァァァ、あァァァァァ……、ァァ、あ……」
「菅谷真理恵ェ! おまえもふざけんのもそのくらいにしとけよ、ホントさぁ!」
完全に立ち直ったマリエが、肉を引きずって自分の方に迫ろうとしてくる。
その行動の根源にあるのは――、自分。キリオ・バーンズ。
彼女はただ夫のために、夫の役に立ちたくて、人であることをやめてしまった。
禁断の武器を使って、その姿を刻々と変え続ける邪獣と化してしまった。
――あの男のせいで。
「テメェ、タマキ! そいつらを見逃すツモリカ! そいつらは『Em』ダゾ!」
「うっせぇ、知るかァ~! オレはケンきゅんの味方だっつってんのぉ~!」
タマキとサイディが何かを言い合っている。
それもまた、今のキリオには遠い出来事でしかなく、
「チッ、オイ、エンジュ。こうなリャ、ワタシラガ――」
「行かせてあ~げない!」
動き出そうとするサイディとエンジュの眼前を、純白のビームが過ぎていく。
二人は軽く飛び退いて、ビームを発射した幼女を睨みつける。
「ナ、何しやガル、ヒナタ!」
「どうして邪魔をするんですか、ヒナタおばさん!」
「四歳児におばさん呼びはやめてほしいと思いま~す。地味に痛いんだぞぉ~!」
ヒナタが、エンジュからの呼ばれ方に不満を露わにする。
だが、その四歳児はすぐに表情を勝ち気な笑みに変え、頭上の異面体を指さす。
「動かないでね~? 動いたら、全身癌細胞化させちゃうぞ?」
「テメェ……!?」
ヒナタの異面体『燦天燦』の能力は光と熱の操作。
光熱を圧縮しビームとして発射することもできれば、放射線を操ることもできる。
サイディのようなタイプが相手なら、溜めを要するビームよりは放射線が有効だ。
これで、サイディとエンジュは動けなくなった。
「タマキお姉ちゃ~ん、こっちはOKだよ~!」
「ヒナタ、いいのかよ? オレが聞くことじゃないけどさ……」
「私の心は私のもの、で~す。今はこういう気分なので、問題はないよ~」
タマキとヒナタが話している。
その声も聞こえているが、やはり、今のキリオには他人事のように感じられる。
彼はずっと、マリエしか見ていない。
こっちに迫ろうとしながら、タマキに打ち据えられ、阻まれている。
マリエの顔は、まだ元の面影を色濃く残している。
しかし、額や頬には毒々しい色の血管が浮き出ていて、不気味に脈動している。
手などは、もう完全に別物だ。
今のキリオの手よりも小さ勝った手が、繊細だった指が、あんな、あんな……ッ!
悪夢だ。
こんな光景は、悪夢でしかない。
キリオは現実を認めない。こんな現実は認められない。
誰のせいで、一体誰のせいでマリエは、あんなことになったのか。
「……決まっている。それがしのせいだ」
そう呟いた瞬間、激しい何かがキリオの胸を衝いた。
その感覚を、彼が感じるのは三度目だった。
一度目は、異世界でサティを失ったとき。
二度目は、同じく異世界でマリエの死に際の『笑顔』を目の当たりにしたとき。
同じだ。
全く同じだ。今の自分は、結局は、それを繰り返そうとしている。
自分は何も変われていない。自分は、キリオ・バーンズという男は――、
「…………ッ!?」
そこに不意に覚える、今まで感じたことのない未知の感触。
それは風だった。
服の上から肌を撫でる風。力の流動。独特の圧。《《まるで渦を巻くかのような》》。
キリオはそれを、自分の足元に感じていた。
彼は、寸前までの激情に流されつつあった自分を忘れ、己の足元に目をやった。
「キリオ様、こちらへ!」
しかし、彼の思考はそこで中断を余儀なくされる。
サティが、声に焦りをにじませながらキリオの手を掴み、引っ張ってくる。
「行くよ、キリオの兄クン! 今のうちに、逃げられるだけ逃げるんだ!」
「おう、逃げろ逃げろ! ケンきゅん返してくれて、ありがとなー!」
ラララの声に、こっちを見送ろうとするタマキの声。
ここでやっとキリオの意識が今という状況に追いついた。そうだ、逃げねば。
マリエのことは放っておきたくないが、ここで自分達が倒れるワケにはいかない。
しかし、できる限りのことはしようと思って、キリオはタマキに声をかける。
「タマキの姉貴殿!」
「お、何だよ『ミスター』?」
「それがしキリオでありますが、マリエからあの剣を奪ってほしいでありますよ!」
「あ~、あの白い剣か? 難しいと思うけどやってみるぜ~!」
日常で交わす会話のような調子で、タマキはそれを請け負った。
「キリオ様、急ぎましょう!」
「わかっているであります、サティ!」
そして、キリオはサティ、ラララと共に自然公園の外へと向かって走っていく。
遠ざかる背中を見たマリエが、反射的にキリオの方を向こうとする。
「に、がさなぃい、ィィ、い。ミィ、スタァァア、ぁぁ、あああぁッ、あ……!」
「悪いなぁ、マリエ。ちょっとオレと喧嘩しようぜ!」
しかし、回り込んだタマキが、マリエの前に立ちはだかる。
「タマキお姉ちゃん、随分やる気だね。もらった手紙、何が書いてあったの?」
サイディとエンジュに睨みを利かせているヒナタが姉にそれを尋ねる。
「いっぱい書いてあった!」
「だから、何が?」
「オレのこと、好きだとかカワイイとか、すげーいっぱい書いてあった!」
「ああ、それはやる気も出ちゃうよねぇ~」
「おう! だから、手紙をくれたあいつらに一回だけ手を貸すぜ、一回だけな!」
「はぁ~い。私もそうしよっと」
「Goddamn! 何だってンダ、テメェラはヨォ!?」
自然公園の原っぱに『帝威剣聖』の怒りに満ちた声が響き渡った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
逃げる。
逃げる。
走って逃げる。
逃げる。
逃げる。
途中からは空を飛んで逃げる。
サティは魔法を使えないが、そこはラララが彼女に飛翔の魔法を使う。
そして三人は、人目もはばからず宙色市の空へと舞い上がって、ひたすら逃げる。
『ここまで離れれば、何とか大丈夫だろうね』
魔力念話で、ラララが安堵の感情と共にそれを言ってくる。
『まさか『彼』がマリエさんにあんなモノを持たせていたなんて……』
『仕返しする理由が溜まっていく一方だね』
あえて、ラララが軽い物言いをする。
マリエのことを話題に挙げれば、間違いなく空気が沈む。
それを嫌ってのことだろう。サティも察したらしく、ラララに乗る。
『これから、どういたしますか?』
『まずは美沙子おばあちゃんとリリスおばあちゃんのところに行くべきだと思うよ』
次に目指すべき場所は、そこ。
アキラとミフユから託されたものを用いて、二人を説得しに向かう。
『美沙子様は、アキラお義父さんの母親、でしたね』
『いい人だよ~? このラララはちょっとした仲良しさんさ!』
サティとラララが話している間、キリオは無言を貫いた。
彼の頭の中を占めているのは、マリエのことと、さっきの未知の感覚のこと。
マリエのことは努めて考えないようにしているが、全く頭から離れない。
少しでもそれを掻き消すために、キリオはさっきの感覚のことを思い返し続けた。
自分自身、感じたことはない、あの力の流動。
しかし、それ自体に覚えはある。はっきりと見たこともある。つい最近。
『それがしは……』
『どうしたんだい、キリオの兄クン』
ラララの念話が意識に響いたそのとき、キリオの体が空中で急にガクンと傾いだ。
『お兄ちゃん?』
『キ、キリオ様ッ!』
キリオの意識が、急速に白に染まっていく。
彼は飛翔の魔法を維持できず、そのまま重力に従って落下していく。
『キリオお兄ちゃん!』
『キリオ様!』
二人の声が頭に響く。
しかし、キリオの意識はそれには反応できず。
真っ白になっていくその過程で、キリオはついさっきの光景を思い返した。
邪剣によって人をやめたマリエと、それを目にして激しい感情に駆られた自分。
『……ああ、そうか』
キリオの中に浮かぶ、一つの記憶。
あのとき、アキラは言っていた。
『確信があるワケじゃないが、強く感じるんだよ。《《おまえは俺と同じだ》》』
そうか、そういうことか。
地上に向かって落ちながら、キリオは確信する。
『それがしの『真念』は『怒り』、か……』
彼の意識はそこで断絶した。




