第306話 自然公園の戦い/清き邪獣マリエ・ベリアル
時刻は15時過ぎ、宙色市内のこじゃれたカフェに、彼の姿はあった。
「――ふむ」
コーヒーを啜りながら本を読んでいるのは、スーツ姿の老紳士。
バーンズ家四男キリオ・バーンズである。
読んでいるのは、有名作家の最新作。本日発売の分厚いハードカバーだ。
題名は非常にシンプルだが、それを書いた作者の名前自体がウリになっている。
ジャンルは推理小説で、しかも密室を取り扱っている。
古式ゆかしいという言い方は適切ではないかもしれないが、やはり密室は面白い。
一種のパズル的な要素があり、推理作家は皆、そこに趣向を凝らす。
常識外れ、常識破り、常識無視と作家の趣向は様々で読み応えがあるジャンルだ。
が、その分、ハズレに当たったときの落胆も大きい。
思えば、推理小説はもう古典と呼んでも差し支えないジャンルになっている。
それなのに未だに人気が衰えないのは、やはり『謎』に惹かれるからか。
それはいわばお手軽な『神秘』だ。
作中に提示され、秘匿された真実をひも解くそのときまで、読者を魅了する。
手軽に好奇心を満たすだけなら、クイズやなぞなぞで十分だ。
推理小説の素晴らしさは、人のドラマが盛り込まれていることに他ならない。
最初の時点では絶対に解けようのない謎。
そして、その謎の奥に秘められている真実と、隠されていた人間関係
そうした様々な要素が、人を魅了してやまないのだろう。
かくいう、キリオ自身もそういった読者の一人だ。
今読んでいる作家は、トリックの仕掛けこそ単純だが人間関係を描くのが上手い。
事件の裏に潜む真実と、そこに待ち受ける意外な関係性。
それによって、キャラクターが今までとは全く違う一面を見せるようになる。
その変化を描き切れる技量を、この作家は持っている。
推理小説というジャンルほど基本フォーマットが確立しているジャンルも少ない。
王道、お約束。そういった、揶揄されがちな『お決まりの展開』。
しかしそのジャンルで話を作る以上は、そのフォーマットが基礎となる。
好ましい。
非常に、好ましい。
もしかしたら自分がこの本を読んでいるのは作家が理由ではないのかもしれない。
キリオは、そんなことを思った。
確立されたフォーマットの素晴らしさを、この書籍を通して確認している。
ただ、それだけなのかもしれない。
キリオ・バーンズは『帝国』を欲している。
自らが統べる、自らが守るべき『帝国』を心より欲している。
人々の生活の基盤となる、自らが統べる国家。
それを手に入れるために用意した『Em』は詰まらない理由で瓦解してしまった。
しかし、代わりに『家族』を手に入れることができる。それで十分だ。
現在、15時半。
異能態の発動から十六時間が経過し。残り五十六時間。
何とももどかしい三日間になるが、仕方がない。必要な過程だ。
「……む?」
胸に小さな振動を感じ、キリオは懐に手をやる。
取り出したのは、金色の長方形の金属の板。古代遺物『金色符』だ。
今、この宙色市と天月市を『絶界』に取り込んでいるそれが、細かく震えている。
その意味を、キリオは瞬時に察した。
「そうか、邪獣となったか、マリエ」
己の妻であるマリエ・ララーニァに持たせた古代遺物、グーラド・ベリアル。
それは、使い手の魂を喰らい、不死不滅の邪獣に変える禁忌の邪剣。
かの神喰いの刃ガルザント・ルドラの試作品の一つとして創造された。
これを使うことで変貌する邪獣は、使い手の『想い』が強いほど強靭さを増す。
「きっと君は最高の邪獣になる。そう見込んで渡したものだ。使ってくれたか」
我が妻、マリエ。マリエ・ララーニァ。
いつも自分の隣にいてくれた、優しき娘。キリオの最後の伴侶。
「ぐ、くッ……、マリエ……!」
その顔を思い浮かべて、キリオは顔に手を当て呻きを漏らす。
顔を俯かせて、背を丸めて肩を小さく震わせる。
見る者が見れば、それは泣いているようにも映ったかもしれない。
だがそれは、上手いこと隠しているだけだ。
キリオが上手いこと自分の吊り上がった口角を隠しているから、そう見えるだけ。
あの邪剣を使ったことを、きっと家族はよく思わないだろう。
しかしそれも時間が解決してくれる。
キリオの異能態は、時間が経てばたつほどその効果を増していく。
自分が『無敵の運命』を手に入れるそのときには、何もかもが叶っている。
いとしき妻を供物に捧げ、彼は、輝ける未来を手に入れる。
「――マリエ。私の『帝国』の礎となる君を、私は生涯、忘れないよ」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その瞬間に起きた出来事は、四つ。
一つ目、人喰いの刃を抜き放ったマリエの体が――、《《膨張した》》。
「ぐ、げ……ッ、が!」
口から奇妙な音を漏らし、細身だったマリエの体がボコボコと膨らんだ。
服の下が凸凹に蠢いて、質量を増した肉が彼女の服を内側から押し上げている。
人の形が別の形状を取るのは、見るからにグロテスクだ。
「マリエエエエェェェェェェェェェェェェェェ――――ッ!」
キリオが、血相を変えてマリエに駆け寄ろうとする。
しかし、それを越えて飛び出す、二つの影。
これが二つ目、タマキとラララが、マリエを殺しにかかった。
「一回、殺すぞ!」
「OKだよ、タマキの姉ちゃん!」
タマキは再び己の身に異面体『神威雷童』を纏い、殴りかかる。
ラララも『士烙草』に斬象剣を帯びて、全力で斬りかかった。
続く三つ目。
タマキの姿がその場から消えた。
爆発音にも近い音が響いて、直後、殴ろうとしてたタマキは唐突にいなくなった。
ラララだけが、何かに気づいて上を見ていた。
そんなラララを見て、キリオも気づく。
タマキは、何かとてつもない力で殴られ、空に打ち上げられてしまったのだ。
キリオがそう思った次の瞬間、四つ目。
ラララも消えた。
それからすぐに後方から、ドン、バン、と大きな音が聞こえてくる。
「な、ラララ……?」
キリオが音のした方を振り向けば、そこにはベッキリと幹が折れた木が二本。
その向こう側に、吹き飛んだラララの姿が覗いている。
「これ、は……」
ラララもまた、タマキ同様に何かに弾かれて吹き飛ばされた。
腕や足ではない。マリエに、そんな力があるはずがない。
「キリオ様! 呆けていてはいけません!」
飛んできたサティの叱咤に、キリオはハッとして視線をマリエに戻した。
そして、言葉を失った。
「……ぉぉぉぉぉ、おおお、ぉぉ、キ、リ、オ、さ、ま、ァ、ァァ、ああ、ぁ」
声が、変わっていた。
さっきまでの凛とした声から、ひどく低い響きを伴っただみ声に変わっていた。
姿が、変わっていた。
スラッとした細身だった体格が、見るに堪えないいびつな変形を見せていた。
人の形は保っている。
だが、その上に『かろうじて』の五文字をつけなきゃいけないレベルだ。
背は一気に高くなった。2mを超えるかもしれない。
だが、肩回りは細いままで、そのくせ右腕が異様に太く、丸太のようだ。
左腕は元のまま、しかし、左足が屈強さを増してズボンがパンパンだ。
逆に右足は細さを保っており、完全に人体としてのバランスを崩している。
顔は、マリエのままだ。
しかし鼻と口から、ダラダラと体液を垂れ流している。
血走ったその瞳はキリオのことを厳しく睨みつけたまま動いていない。
変形は今も続いていて、服の下で肉がボコボコと音を立てながら蠢き続けていた。
「バケモノ……」
ヒナタが、今のマリエを見て、呆気にとられながらそう評する。
だが、それこそは今の彼女を言い表すのに、最も適した言葉だろう。
「マリエ……?」
邪剣に魂を喰われ邪獣と化したマリエを前に、キリオが無防備なまま問いかける。
邪獣が、それに応じるように咆哮を轟かせた。
「ミス、タァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアァ――――ッ!」
ボゴン、と、肉が蠢く音が強く響き、何かがキリオめがけて放たれる。
彼は見た。それこそは、タマキとラララを吹き飛ばしたものの正体。
「――尾、だとッ!?」
無敵化の能力で襲い来るものを受け止め、キリオは驚愕に目を剥く。
それは、長さ3m以上はありそうな、ぬらりとした質感の肉の尾であった。
マリエの腰から生えたそれが、タマキとラララを超高速で打ち据えた。
実際に、尾の一撃を受けたキリオは、その威力の高さに驚く。
異面体の能力で自重が数倍にもなった彼の体が、10m近く吹き飛ばされる程。
「ふぅ、ぅぅぅぅぅ、ぉぉ、お、ミ、ミスタァァァァァァ……、ァァ、ァァ……!」
「マリエ、何と、何という姿に……」
邪獣となったマリエの姿に、吹き飛ばされながらもキリオは絶句したまま。
サティが必死になって、彼へと呼びかける。
「しっかりしてください、キリオ様! それは敵です! あなたを狙っています!」
わかっている。そんなことは、言われないでもわかっている。
だが、体が動いてくれないのだ。
受けたショックが激しすぎたためか、今のキリオは指一本も動かせずにいた。
「HAHAHAHAHAHA! 決まっチマッタナァ、コリャアヨ!」
「ママ、あれは一体……?」
マリエの姿に高笑いを響かせるサイディに、エンジュが青い顔をして尋ねる。
サイディはその問いに、いやらしい笑みを浮かべて答える。
「清き想いのモンスターサ。あいつらハここで終わりダゼ。HAHAHAHA!」
観客となって高みの見物を決め込むサイディに、エンジュは押し黙ってしまう。
二人が見ている先では、マリエがさらなる変形を遂げていく。
「キリ、ォ、ざま、マ、マリェ、は、ぁ、あなたの、ぉ役に……ィ、ィィ……!」
マリエの背が膨れて山を作る。
そして、服を突き破って伸びてきたのは、先端に鋭い鉤爪が生えた肉の触手。
「やめろ、マリエ! その剣を捨てるでありますよォ――――!」
「ォァァァアアアアアアアアアァァァッ! ミ、スタァァァァァァァ――――!」
体液を口から散らしながら、マリエが尾と触手を振り回してくる。
それを、キリオはその場で踏ん張って受け止め、マリエへ呼びかけ続けた。
「やめるであります、マリエ! それ以上、その剣の力を使ってはならない!」
『無駄だ、キリオ。あの女はもはやグーラド・ベリアルに呑まれた。あとは魂の力が続く限り、延々と変形を繰り返して、邪獣として力を高めていくだけだ!』
「魂を全て剣に喰われたら、マリエはどうなるでありますかッ!?」
『…………』
ガルさんの沈黙が、答えの全てを表していた。
奥歯を噛みしめるキリオ。その横を、誰かが疾風の如く走り抜けていく。
「ラララ……!?」
「あの程度で、このラララが倒れるものかよ!」
ダメージは全回復魔法で癒し、ラララは瞬飛剣での超高速突撃を敢行する。
「マリエの義姉ちゃん、ちょっと痛いけど我慢しなよォ!」
そして放たれる、数百にも及ぶシラクサによる連撃。
斬撃の嵐と呼ぶしかないそれが、邪獣と化したマリエに襲いかかるが、
「ォォ、オ、オ、オ、オ、オォォォォ!」
「うっわ、ご冗談……」
一つも、当たらない。
ラララが繰り出した斬撃の全てが、マリエに届く前に見えない壁に弾かれる。
「オイオイ、魔力の障壁かい? それはズルいだろ!」
「いや、違うであります。あれは、《《ただ魔力を放出しているだけ》》であります!」
全身から放出された余剰魔力が、物理的な力に変換されて防護壁になっている。
仕組みそのものは単純明快。だがそれゆえに、打ち破る方法は少ない。
「反発力場を生み出すほどの魔力放出って、常人なら三秒で力尽きるよ?」
「言われずともわかってるでありますよ……ッ」
それほどに、今のマリエは人からかけ離れている。
その事実をラララに再認識させられて、キリオは顔に苦いものを浮かべた。
「……ガルさん、いけそうでありますか?」
『貴様が俺様の本来の主であれば、何とかなっただろうがな』
ガルさんの答えは、キリオが予想した通りのものだった。
アキラに託されたとはいえ、ガルさんはアキラを主としている魔剣である。
本来の主でないキリオが振るっても、全力は発揮できない。
それでも大きな力であることに変わりはないが、こういう場合は響いてくる。
「ラララは、どうであります?」
「魔剣術は厳しいかな。障壁が魔力によるものなら、身に届く前に相殺されるね」
「シラクサで切り裂くことはできんでありますか?」
「残念ながら、そこまで万能じゃないんだ。シラクサは剣だからね」
斬りたいものを斬る。
それがシラクサの能力だが、これを発揮するにはまず『対象を斬る』必要がある。
「斬れないものには使えないんだよね、この能力……」
「つまり、結局は身に届かねば意味がないということでありますな」
「そういうこと」
ラララとのやり取りによって明らかになったのは、割とヤバイということ。
タマキの造反で何とかなりそうだった状況が、またひっくり返ってしまった。
「ウゴッ、ゴヴォ、が、ハ、キ、リ、ォ、様ぁ、ぁぁ、あ……!」
「マリエ……」
全身の肉をボコボコ蠢かせ、マリエは現在進行形で変形し続けている。
邪獣は、魂の力が続く限り進化を続け、力を高めていく。魂の力が続く限り――、
「マリエッ!」
「ダメです、キリオ様! 近づいたら……!」
飛び出そうとするキリオを、サティが前に立って止めようとする。
そのときだった。
「ドォォォォォォリャアアアアアアアアアアアアアアアアア――――ッ!」
という勇ましい雄叫びと共に、空から、タマキが降ってきた。
「全力パワフル、最強タマキキィ――――ック!」
「グギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァ――――!?」
上空数百メートルから重力で加速したタマキの飛び蹴りが、マリエを潰した。
彼女の反発力場など、その蹴りの前にはさして意味をなさなかった。
「うわお……」
ラララが感嘆の呻きを漏らす。
顔面に蹴りを喰らったマリエは、車に轢かれたカエルのようになっていた。
巨体が、強烈な力に押し潰されてひしゃげている。
これはさすがに死んだだろうと、誰もが思う光景だが、タマキが叫んだ。
「早く逃げろ、おまえら!」
邪獣の再生は、すでに始まっていた。




