第305話 自然公園の戦い/その刃は磨き抜かれた骨の色
始まりは、奴隷とご主人様から。
マリエ・ララーニァは、異世界西部のとある山村で生まれた。
その辺りにはいくつかの村があり、かつてはララーニァが領主的な立場にいた。
しかし、仕えていた神の声が聞こえなくなると、ララーニァ家は没落した。
彼女達の権勢を支えていたのは、冥界の神というネームバリュー。
その声を民に届けられなくなれば、権力の根拠も消え失せる。没落は必然だった。
しかし、マリエにしてみればそれは過去の話に過ぎない。
彼女が生まれた頃には、ララーニァの家はとっくに貧しかった。
幸い、家族は過去の栄光を求めるような人々ではなかった。
貧しく、慎ましく、されども不満は少ない日々。
幼少期のマリエの記憶にあるのは、そんな、割と満たされた幸福な日常だった。
それが失われたのは、マリエが13歳のとき。
故郷の村が、野盗の群れに襲われた。
彼らはどこかの国の兵士で、戦争に負けて落ち延びる途中だったらしい。
家は焼かれ、人は殺され、食い物は奪い尽くされた。
なまじ山奥で人が来ることが少なかったのが災いした。備えが足りていなかった。
戦乱に満ちた時代であっても、争いと無縁な場所は存在する。
それがたまたま、マリエの故郷だった。
そして、異世界中に広がった戦火は、そんな平和な村を一瞬にして呑み込んだ。
抗うすべなどあるはずがない。
平和な日々を送っていた人々は戦うという発想をまず忌避するから。
それほどまでに、村は平和だった。そのときまで。
だが、村は滅んで、女子供は人買いに売られるための商品として連れていかれた。
その中に、ララーニァの家の唯一の生き残りとしてマリエも混じっていた。
平和な村は平和であるがゆえに、寿命以外の死因で人が死ぬことが少なかった。
それもあって、村の人々は蘇生アイテムの存在すら知らなかった。
ほとんどの大人が死んだ。
そしてその全てが蘇生もされないまま、外に死体を晒した。
その中に、マリエの家族も混じっていた。
マリエは村から連れ出される前、切り刻まれた両親の死体を目にしていた。
家族を失った事実を、マリエは全く受け止めきれていなかった。
何も感じない。何も思わない。
周りに家族がいない今が、夢の中にいるようで、フワフワしている。
人が人を殺す。
戦乱の世においては当たり前に起きることが、マリエには理解できなかった。
そんなひどいことをできる人間がいることが信じられなかった。
捕らえられた他の子供達は皆、怖がったり泣いたりしている。
けれども自分は何故か泣けない。怖いとも思わない。一体、何でなのだろう。
その疑問ばかりを考える。
家族が死んでも涙一つ流せない自分は、もしかしたらひどい人なのだろうか。
人を殺せるような人と同じ、人の痛みを感じられない人間なのだろうか。
そんなことばかりを考えているうちに、どこかの街に到着した。
マリエは他の子供数人と共に、奴隷商人の店に連れていかれ、商品となった。
泣きもしない。笑いもしない。ただ無表情なだけの不愛想な少女奴隷。
背は低く体も未成熟で性奴隷としての価値も薄く、マリエは一年ほど売れ残った。
彼女がキリオと出会ったのは、そんな頃。マリエ14歳のときだ。
キリオは、奴隷を買いに来たワケではなかった。
実情はその逆。
彼は帝国の聖騎士団を伴い、違法な奴隷商人を摘発するためやってきたのだ。
この日より遡ること半年ほど前、街が属する国は滅びた。
自分から宣戦布告を行ない、ものの三か月でシンラの帝国に滅ぼされた。
帝国には奴隷制は存在したが、登録制で、違法な奴隷商人は徹底的に撃滅した。
シンラ本人は奴隷制を廃止したかったものの、時代が彼に追いついていなかった。
だからせめてクリーンであることを心がけよう。
その決意のもと、皇帝の意を受けた聖騎士団は違法商人の摘発に躍起になった。
このとき、すでにキリオは聖騎士長の重職にあった。
しかし彼は、他の誰よりも現場に出続け、積極的に職務に精励した。
周りは彼を褒め称えた。
皇帝の懐刀、聖騎士の鑑、騎士たるものの見本。と。
だが、そんな称賛は全てキリオにとってはむなしいものでしかなかった。
彼が現場に出続ける理由は一つ。仕事中だけは、胸の痛みを感じずに済むからだ。
サティ。
サティアーナ・ミュルレ。
彼が十年前に失った、最愛の妻。生涯一人だけと感じた、運命の相手。
その妻を失った痛みを、未だ彼は引きずっていた。十年経った今も、なお。
そんな彼が、マリエと出会った。
マリエ14歳、キリオ60歳のことだ。あまりに歳の離れた二人の出会いだった。
キリオは、ニコリともしないマリエを一目見て理解した。
ああ、この子は自分と同じだ。
サティ失ったときの自分と、全く何も変わらない。
それに気づいた彼は、マリエに話しかけた。
なるべく優しく、怖がらせないように気遣いながら、
「どうしたんだね、お嬢さん。そんな難しい顔をして」
「あなたは誰? 私の御主人様? 私、あなたに買われるの?」
「いいや、違うとも。私は見ての通り、騎士だ。君達を助けに来たんだ」
「騎士様……」
「そうだよ、お嬢さん。君は家に帰れるんだ」
キリオがそう言っても、マリエはやはりその表情を微塵も変えなかった。
「家はないの」
「何だって……?」
「家はないの。お父さんもお母さんも死んじゃった。だから奴隷になるしかないの」
「何と、そんな――」
「でも私はひどい人だから、奴隷にもなれないのね。死ぬしかないのかな」
「ひどい人とは、どういうことだね?」
「だって、お父さんとお母さんが死んだのに、私、泣けなかったの。ずっとずっと、今まで泣けていないの。悲しいかどうかも、わからないの。ひどい人でしょ?」
「そうか……」
キリオは、息を漏らす。
ガラス玉のように、瞳に自分を映し返すだけの少女に、キリオは強く共感する。
そして伸ばした手が、そっとマリエの頭を撫でた。
「違うよ、お嬢さん。君はひどい人なんかじゃない」
「ひどい人よ。だって悲しくないんだもの。涙が出ないんだもの」
「それはね、お嬢さん。君が感じきれないほどに、悲しみが大きすぎるからだ」
キリオは語る。
十年前の自分を、無表情の少女に重ねて、語る。
「大きすぎる……?」
「そうとも。君は優しい子なんだね、お嬢さん。ご両親を、深く愛していたんだね」
ガントレットを外し、マリエの頭を撫でるキリオの手つきは優しかった。
「君のご両親はさぞ立派な人達だったのだろうね。君のような子が育ったのだから」
「お父さん、お母さん……」
優しい手と、優しい言葉。
そして何より、彼女と同じく大きすぎる悲しみを抱えたままの、キリオの瞳。
それら全てがマリエの凝り固まった心を融かしていった。
「うん……ッ」
彼を見上げる少女の目が、濡れた光に揺れる。
「優しかった。優しかったの、お父さんも、お母さんも……ッ」
そうして、彼女は涙を溢れさせた。
やっと、やっとマリエは、自分の両親の死を悲しむことができたのだ。
「お父さん、お母さん……、う、ぅう!」
「私の胸を貸してあげよう。今日まで泣けなかった分、存分に泣きなさい」
そして、キリオは孫ほどの歳の少女に自分の胸に迎え入れ、両腕で抱きしめる。
「あ、ぁぁ、ああ、ぅああああああああ、ああああああああああああああ……ッ!」
「久しぶりに、私も少しだけ泣きたくなったよ」
苦笑するキリオの目にも、一粒だけ涙が輝く。
これが、マリエ・ララーニァとキリオ・バーンズの出会い。
マリエが押しかけ奴隷としてキリオの屋敷に突撃していくのは、これから三日後。
まだ二人の間に、想いの花が芽吹いてもいない頃の話だ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
マリエが取り出したのは、白金色の一振りの長剣。
鞘にも柄にも鍔にも、全体に渡って壮麗な装飾が施された、煌びやかな剣だ。
「キリオ様――」
愛する夫の名を呟き、マリエは左手に鞘を持ち、右手に柄を持つ。
これは、キリオから授けられた剣。
マリエにとっては、夫から与えられるもの全てが、愛情の証のように感じられる。
「待て、マリエ。おまえは何を持っているでありますか……?」
取り出した剣を見た『ミスター』が、緊迫した顔つきで何かを言い出す。
マリエは、あの少年が許せない。
キリオの名を騙るあの少年を、到底許すことができない。
マリエは、決してキリオを盲信しているワケではない。
ただ、感謝している。自分などを愛してくれた彼に、尽きぬ感謝を捧げている。
異世界で老いた身でありながら、残りの人生を過ごす相手に自分を選んでくれた。
それがマリエにとってどれほどの喜びであったことか。
あの日、奴隷商人の店で出会った、彼。
自分に人を想う心を思い出させてくれた、優しい騎士様。
あの方のおかげで、心を見失いかけた自分は、再び人間に戻れた。
そのことを感謝しない日はない。異世界でも、今でも。ずっとそれは変わらない。
マリエにとって、キリオは神ではない。
マリエにとって、キリオは教祖ではない。
ただ、ずっと隣にいたいと思える人。
誰よりも自分が認め、自分を認めてくれる人。
あの『ミスター』はそんな夫の名を騙った。
そこにどんな理由があるかまでは、マリエは知らない。
しかし、キリオの名を騙ったことが、彼女にとっては何より許しがたい。
怒りが湧く。怒りが沸く。
不快な熱が体内を満たして、それはすぐに『ミスター』への怨念に変わっていく。
ここまでの激情を、普段のマリエは抱かない。
彼女がここまで激しい怒りに駆られている理由は無論、『キリオ』の異能態だ。
あの男の現実改変の影響を、マリエは誰よりも強く受けている。
彼女の中で『キリオ』の存在は神格化されている。本人は気づいていないが。
さらに今はそれに加えてもう一つ、マリエの心を変質させる要因がある。
その名を叫んだのは、神喰いの刃ガルザント・ルドラだった。
『キリオッ! マリエからあの剣を引き離せ! 今、すぐにだ!』
「ガルさん、あの剣は一体……!?」
『あれは武器型の古代遺物、人喰いの刃グーラド・ベリアル!』
――キリオ様。マリエは、必ずや期待に応えてみせます。
『使い手の魂を喰らって不死の邪獣に変質させる、最凶最悪の邪剣だッ!』
「な……ッ!? マ、マリエエエエェェェェェェェェェェェェェェ――――ッ!」
マリエが鞘から引き抜いた刃は、磨き抜かれた骨の色をしていた。




