第292話 聖騎士は追われ、汚濁にまみれて
冷たい雨が降る街を、少年は彼女を背負ってひた走る。
「きゃっ!」
「いって、何だよ!?」
日付も変わろうという頃、しかし人はまだ多く、少年は幾度も通行人にぶつかる。
「す、すまんであります! はっ、はぁ、は……ッ!」
意識を失ったままのサティをおぶって、キリオは傘もない中走り続ける。
逃げる先にアテなどない。
とにかく、この場を離れなければという意識だけで走っている。
だが、キリオは異世界で聖騎士として長年戦い続けてきた。
ゆえに窮地に陥った場合の対処についても、多少なりとも心得がある。
走りながら、彼は頭の中で考える。
今の自分の状況と、そうなった経緯。そして現状における直接的な危険について。
まずは今の自分の状況をなるべく冷静に振り返ろうとする。
今の自分は、バーンズ家を敵に回している。
一切の感情を省き、状況だけを見ればそのように表すのが正しい。
家族は自分の敵となった。
それを、事実としてひとまず受け入れる。
次に、自分はサティを背負っている。
サティ、サティアーナ・ミュルレ。異世界における一人目の妻、病で先立たれた。
彼女と再会できたことは、キリオにとって大きな喜びだ。
こんな状況でなければ、それこそ自分は大泣きしていたに違いない。
しかし、今の彼女は半死半生。
腹をダガーで抉られて、死にかけている。自力では回復できない状態だ。
自分が治してやるしかないが、追われている今は難しい。
おそらくだが、バーンズ家の面々はサティを取り戻そうとするだろう。
それも一つの手段か、と、キリオは走りながら吟味する。
家族にサティを任せれば傷を癒してくれるのでは、という淡い期待。
しかし、脳裏に浮かんだ老キリオの顔が、その期待を粉々に打ち砕く。ダメだ。
ちょっと前まで自分がいたポジションは、あの老キリオに乗っ取られてしまった。
それが、老キリオが使った異能態の能力なのだろう。
広範囲に働く洗脳の効果。
いや、そんな甘いものではあるまい。
話に聞く兄や姉の異能態の効果を鑑みれば、洗脳程度のはずがない。
おそらくキリオにとってもっともっと絶望的な効果。
歪んだのは家族の認識ではない。現実だ。歴史だ。事象自体が上書きされたのだ。
今まで自分が家族と共に歩んできた足跡を、そのままそっくり奪われた。
代わりに押し付けられたのが『Em』のボスという烙印。
アキラを始めとした家族達の反応を見れば、否応なしに理解を叩きつけられる。
老キリオは、自分に成り代わった。
今や、日本におけるキリオ・バーンズは、あの老キリオの方なのだ。
「……く、ぅッ!」
さすがに、そこに意識が及ぶと冷静でいられなくなる。
浮かぶ涙に視界がにじむ。噛んだ奥歯が血の味を感じる。クソ、クソッッ!
「……ッ! ――ふぅ」
自ら舌を噛んで、その痛みで冷静さを取り戻す。
束ねた気持ちを乱すな。冷静に、必要なことだけをしろ。今するべきは、思考だ。
まず、これから自分が行うべきこと。
それは間違いなく、サティの回復だろう。これについては急を要する。
極論、彼女が死んでも蘇生アイテムを使えば済む。
しかし、長らく会えずにいた一人目の妻がまた死ぬところを、誰が見たいものか。
治せるなら治したい。そう思うのは人情というものだろう。
どこか適当な部屋に入って、金属符を使うべきか。
いや、それは無理だ。と、一瞬でそのアイディアを却下する。
金属符の場所など、スダレが一瞬で探し当てるに違いない。
そして『異階』に逃げても、アキラは『空断ちの魔剣』を使う。逃げられない。
むしろ、それをすれば追い詰められるだけだ。
では『竜胆符』を使って『竜胆拠』に戻るのはどうか。
これも、キリオは却下する。
老キリオの異能態の力が及んでいる可能性が高い。
別の『Em』の拠点の制圧に向かった面子も、全員が敵になっている。
そういう前提で行動するべきだろう。こういう場合、楽観こそが絶望に直結する。
全員――、家族全員が、自分の敵に。全員が……。
「……マリエ」
その名を呟いたとき、脳裏に浮かんだのは最後に見た彼女の顔だった。
自分のことを親の仇を見るような目で見る、敵意剥き出しのマリエの顔だった。
ズキリと、胸に痛みが走る。
その痛みは、自分が死ぬ直前に覚えたものと同じだった。
「キリオ・バーンズ……ッ!」
にわかに燃え立つ怒りと共に呟かれた名は、果たしてどちらを指しているのか。
だが、どうあれ、キリオはここで大きなミスを犯してしまった。
よくそここまで冷静さを保ち続けられたという向きもある。
しかし、やはり今のキリオは自らの怒りに流されていた。そして、見落とした。
これから考えるべき事項として自ら挙げておきながら、見落としたのだ。
――現状における直接的な危険について。
「見つけたさね」
声。
銃声。右肩に激痛。
「ぐぅ、うゥッ!?」
くぐもった声を漏らし、キリオは痛みに耐えかね体勢を崩し、倒れ込もうとする。
咄嗟にサティを庇おうとして、彼は前のめりに倒れた。
濡れた道路の上にあごをしたたかに打ち付けて、新たな激痛。
全身が道路に溜まった雨水に濡れて、服が肌に張り付いて不快な感触を得る。
打った全身が痛い。あごをぶつけたおかげで目が回る。
しかし、意識はしっかり保ったまま、キリオはサティを背負って立とうとする。
「逃げるんじゃないよ、『ミスター』」
「我らの追撃を甘く見ることなかれ」
雨にけぶる景色の向こうから現れたのは、美沙子。そして、シンラ。
キラやミフユはいない。だが、見つかった以上はすぐに追いついてくるだろう。
「……シンラの兄貴殿」
「おまえに、そのような呼ばれ方をされる謂れはないな。『ミスター』よ」
シンラの声は冷たかった。
到底、自分に向けられたものとは思いたくない、感情の込められていない鉄の声。
威厳とか、そういうものではない、そこにあるのは、ただの殺意。
ああ、そういえばこの二人は『Em』に随分と酷い目に遭わされた、とか。
ならばシンラが見せる表情も納得が行く。今は自分が『ミスター』なのだから。
それでもキリオは、呼びかけるのをやめる気はない。
「それがしは、キリオ・バーンズであります」
「そのようなたわごとに、どれだけの価値があると思うのだ?」
「ええ、今は言っても無駄でありましょう。それでもそれがしは、言い続けます」
何せ、諦めが悪いのが自分の取り柄なのだ。
ケントも、その点だけは褒めてくれた。自分の諦めの悪さは、筋金入りだ、と。
ああ、ケント。ケント・ラガルク。
最初は突っかかったが、今は人生の先輩として尊敬してやまない、お師匠様。
彼もやはり、老キリオの異能態によって自分の敵となっているのだろうか。
「この状況で考えごとかい?」
美沙子の、冷め切った声。
そして銃声がするも、放たれた弾丸はキリオの胸に当たるも、弾かれる。
「おや……」
「それがしの『不落戴』をあまりナメんでほしいでありますよ?」
言いつつ、キリオは周りに視線を走らせる。
大通りの隅、それなりにひらけているが人はいない。だから美沙子は銃を使った。
これなら――、キリオは胸いっぱいに息を吸い込んで、
「何だ『ミスター』よ、妙な動きを見せるのならば……」
「兄貴殿、美沙子殿ッッ! ご婚約、おめでとうございまァ――――すッ!」
雨の街でも十分に響き渡る程の声量で、キリオは二人のことを祝福する。
「「なッ!?」」
さすがに、この奇行にはシンラも美沙子も驚きを見せる。
できた隙はほんの一瞬。だがその一瞬で事足りる。
「でぇりゃあァ!」
キリオが、魔法による突風を発生させた。
「むぅ、何を……!?」
雨が降る中での強風が、雨粒を派手に散らして霧のようにする。
辺りは夜。街灯の光は薄く、けぶる街角は霧雨のせいでさらに見えにくくなる。
キリオはサティを担いだまま、すぐさまその場から逃走する。
「むぅ、足音……! おのれ、逃げたか!」
「シンラさん、音はあっちに!」
「ええ、行きましょう。逃がしてはなりませぬ、美沙子さん!」
強風がやんだあとでシンラと美沙子が足音がした方向へと走っていく。
それから十秒ほどして、近くにあったゴミ捨て場に積み上げられたゴミ袋が動く。
「……ぷは」
そこから、キリオが顔を出した。
シンラ達の視界を遮った彼は、そのまま近くにあったゴミの中に躊躇なく隠れた。
サティが気になったが、背に腹は代えられない。
シンラと美沙子が追っていった足音は、収納空間から出したゴーレムのものだ。
異世界で聖騎士長を務めていた頃、予備兵力として収納していたものである。
「まさか、こんなところで役に立つとは……」
本当に世の中、いつ何が役に立つかわからない。
だがこれで、多少の時間は稼げた。とにかく逃げなければ。できる限り遠くに。
今のキリオに、それ以上のことはできない。
スダレの情報網が働く範囲の外に出るまでは、何も安心できないのだ。
「サティ、もう少しだけ待っているであります」
そうしてまた逃げ始めるキリオだが、バーンズ家の追撃はここからが本番だった。
どこに逃げても、常にそこに家族の誰かがいる。
ミフユと遭遇した。
タクマと遭遇した。
シイナと遭遇した。
そのたびにキリオはあの手この手で逃げ続けた。
そして徐々に、徐々に、心身共に追い込まれていく。全く生きた心地がしない。
完全に、スダレにマークされている。
改めてあの三女の情報力の高さを思い知ると共に、その恐ろしさに背筋が凍る。
スダレと連携して実にスムーズに動く、他の家族達にも。挙句の果て、
「よぉ、待ってたぜ。『ミスター』」
「父上殿……」
やっと逃げ込めそうなビルを見つけたと思ったら、入り口前にアキラがいた。
「追い込んだぞ」
「随分とまぁ、逃げ回ってくれたもんだね」
後方に、シンラと美沙子。
「見つけましたよ、もう逃がしませんからね!」
「やれやれ、追い詰めたぜ、やっとよぉ」
側面に、シイナとタクマ。
「もうさすがに諦めたらどうよ、あんたも」
アキラの隣に、いつの間にかミフユもいる。
「……これは」
キリオは、完全に囲まれてしまっていた。
視線を巡らせるも逃げ場は見つからず、全員、微塵も隙を見せていない。
「誘いこまれた、で、ありますか……」
ようやく、キリオはそれに気づいた。
今まで自分が逃げ続けられたのは、家族の皆が故意に見逃してくれたからだ。
最終的に、この場所に自分を追い込むため、退路を限定したのだ。
それを認識した瞬間、キリオは自分の体がドッと重くなるのを感じた。
元より希望のある逃避行ではなかったが、まさかここまで完璧に詰まされるとは。
さすがはバーンズ家、とでもいうべきか……。
半ばヤケクソになって、そんなことを考える。詰んだ。詰み。チェックメイトだ。
「さて、まずはサティを返してもらうぜ。人質のつもりなんだろうがな」
アキラが、一歩近づこうとしてくる。
「渡せんであります。父上殿」
「おまえなんぞにそんな呼ばれ方をされる筋合いはねぇよ」
それは、シンラと同じく、敵に向ける声。
尊敬すべき父親が、自分にそれを向けてくる。その事実がキリオの心を抉る。
もはや、逃げようはない。絶対に逃げられない。
その上で、アキラの言葉とまなざしが、キリオの精神を打ちのめしてくる。
ここまでの逃走で疲弊しきった心身がいよいよへし折れそうになる。
――だが、
「それがしの名は、キリオ・バーンズ。バーンズ家四男、キリオであります!」
彼は、諦めなかった。
ギヂと、奥歯を激しく噛み鳴らしながら、彼は家族に、世界に、己の名を告げる。
「それがしは折れんであります。絶対に、何があっても屈さぬでありますぞ!」
「ああ、そうかよ。その減らず口、どこまでもつか、試してや――」
声がした。
『全員、上を見ろォ――――ッ!』
唐突に、その場にいる皆の脳裏に響き渡る、魔力念話。
いきなりのことで、誰も彼もがそれにつられて雨が降る中、夜空を見上げる。
三つの人影が、空から降ってくる。
「無事か、キリオッ!」
「ハァーッハッハッハッハッハァ――――ッ! ラララ・バーンズ、華麗に見参!」
「ども」
降ってきたのは、ケント、ラララ、タイジュの三人。
「お、お師匠様ァ……ッ!」
「何とか、ギリギリ間に合ったみたいだな」
着地したケント・ラガルクが、キリオを守るようにして、その前に立った。




