第276話 柏木蓮司の黄昏:後
レンジ・カルヴェルを研究所に連れ込んで、室内を『異階化』させる。
全回復魔法を封じられ、自らの異面体もヒメノの『不傷』の能力の前には無意味。
仮に魔法で抵抗したところで、マリクに勝てるはずもなし。
かくて、レンジ・カルヴェルに打つ手なし。
二重底の『異階』に囚われた彼の命運は、ここに尽き果てた。
「う、わ、私をどうするつもりだ……ッ!?」
魔法の鎖で拘束され、床に転がされたレンジが自分を囲む三人を見上げて騒ぐ。
「どうなろうと、末路は決まってるんだから聞くだけ無駄だろ?」
そう返すマリクの顔に、表情は一切浮かんでいない。
今の彼はデーモン・マリクからまた一変しており、サングラスに黒スーツ姿だ。
「お兄ちゃん、その姿は?」
「この前、一緒に見たマフィア映画の影響だと思うよ」
「ああ……」
ほんの数日前の話だ。
その映画の中で、黒スーツ姿の主人公が裏切り者を尋問するシーンがあった。
「これから始まるのは尋問じゃないけどね」
拳銃の代わりに赤い大腿骨を握り締め、マリクがレンジを見下ろす。
「一思いに殺さないんですか?」
「ひっ、こ、殺すって……ッ」
タイジュの言葉に、レンジがおののきの声をあげる。
今になってようやく自分に訪れる運命を悟り、顔色は真っ青に変わった。
「すぐには殺さないよ。これは『Em』への反撃でもあるけど、同時に仕返しでもあるからね。タイジュもそれはわかってるんじゃないのかな?」
「わかってますよ。バーンズ家にとっての『仕返し』がどういうものか、俺だって知ってますから。ただ、この男には個人的な恨みはないので、一応の確認を」
「そうだね。ぼくも個人的な恨みはない。……でも、家族としての恨みならあるさ」
淡々と語るマリクに、レンジが目に涙を浮かべて怒鳴り散らす。
「何だ、恨みって何なんだッ!? 私が君達に、何をしたっていうんだァ!」
「おまえは何もしてない」
その事実を、マリクはあっさりと認める。
「でもおまえの仲間がした。ぼくのお母さんを襲った。だからおまえはここで死ぬ」
「な、何故……ッ!?」
「おまえが『Em』で、ぼく達がバーンズ家だからだ」
そこに深い理由などない。余計な感情が立ち入る隙も無い。
そっち側は黒でこっち側は白。それくらいに単純明快な行動動機である。
「私は、ど、どうなるんだ……?」
「これから苦しんでもらう。死ぬのは、その苦しみが終わったあとだ。だが、苦しみが終わるのが先か、おまえが死を願うのが先か。……どっちだろうな?」
マリクは薄く笑って、青い液体が入った試験管をレンジに示す。
「……これ、何だと思う?」
「ぅ、あ、ああぁ、あああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ……ッ」
その試験管を見た瞬間、レンジの顔は青ざめて激しくかぶりを振り始める。
「マリクさん、それは?」
「タイジュ、これはね。この部屋の中にあったレンジ製の魔薬だよ」
「レンジ・カルヴェルの魔薬……。まさか、強化用の?」
「それだったらこいつはここまで怯えてないよ。――強化用じゃない、実験用さ」
タイジュが見ると、レンジの体がさらに一段激しく震え出す。
すでにこの男はこれから行われるであろうコトを、確信している。
そしてその目が、今まで無言でいたヒメノへと注がれる。
「お、お嬢さん、私を助けてくれ……ッ!」
マリクとタイジュに助けを求めたところで無駄だとレンジは判断したようだった。
三人中唯一、ここまで話に加わっていないヒメノに、彼は縋ろうとする。
「君は、この二人の行ないをよく思っていないのだろう? 私とて教職についていた身だ。君の考えていることくらいわかる! なぁ、お願いだ、私を助けてくれ。わ、私は確かに罪を犯した……。それについては心から反省しているんだッ!」
「ヒメノ?」
つばを飛ばして懇願するレンジに見下ろしつつ、マリクが妹の名を呼ぶ。
ヒメノは、今はタイジュ以上に無表情で、マリクの隣でレンジを眺めている。
「……本当に、罪を償う気があるのですね?」
「ああ! 本当だ! 過去の私がやったことはまさに外道の所業だった! 認めるよ! そして警察に自首する。それで、罪を償う! 一生をかけてでも。だから!」
舐めろと命じられれば、喜んで靴でも舐めそうなレンジの勢いである。
マリクとタイジュは、ヒメノの方を見る。レンジがさらに大声で告げてくる。
「ぃ、いいのか、君はいいのか!? 私を手にかければ、この少年は私と同じ外道に堕ちてしまうのだぞ! それを、君は見過ごすのか? 本当にそれでいいのか!」
自分のような外道には殺す価値もない。だから殺さないでくれ。
そう言い募って命を拾おうとする彼を、ヒメノは表情のない顔のままで見つめる。
そして――、
「お兄ちゃん。ちょっとどいてくれますか?」
「ああ、いいよ」
マリクが横にどいて、ヒメノが前に出てくる。
そして彼女は、自分を見上げるレンジと視線を交わらせて、確認する。
「ここで命を助ければ、あなたは警察に自首する。そうですね?」
「ああ、必ずだ! 決して逃げたりはしない! ほ、本当だ、信じてくれ!」
「でも、あなたは『Em』の方ですし、信じられませんわ」
「あんな組織も抜ける! 必要な情報は何でも提供する、い、今すぐにでもだ!」
「それでしたら――」
「何だ? 何でも答えるぞ。本当に何でもだ!」
光明を見出して必死さが増しているレンジに、ヒメノはしばし考え込んで見せて、
「『ミスター』と『ミセス』に関する情報を、教えてくださいな」
「そ、それは……ッ」
レンジの顔が、驚愕に凍てつく。
「ウソはつかないでくださいね。私達、すぐにわかりますから」
「ぐ、ゥ……ッ!」
そこから数秒の沈黙を経て、観念したらしいレンジが、小さく呟く。
「あ、あの二人のことは、覚えていない……」
「やはり」
その返答を、すでにヒメノは予測していた。マリクも、タイジュもだ。
スダレの調査から逃れるような人間が、組織の構成員を放置するはずがない。
構成員を捕縛されてもいいように、何らかのセーフティがかけてあるのだ。
そしてそのセーフティは、時間をかけられない現状では破りようがないものだ。
「だが、待ってくれ! 他の情報なら、何でも……!」
「他は間に合っておりますわ」
「え」
そこでポカンと開いたレンジの口めがけて、勢いよくヒメノの爪先が突き刺さる。
グジャッ、と、肉が潰れる生々しい音がした。
「ぐひッ!?」
「それと、勘違いなさっておられるようですので、そちらも正しておきますわね」
平然と言いながら、ヒメノはその爪先を二発、三発とレンジに叩き込んでいく。
「私は別に、呵責なんて感じておりませんわ。あなたが私をどう見たのかはわかりかねますけれど、あなたが自首するから何だというのでしょうか? それであなたが『Em』に加担していた事実が消えるワケでもなし。逆に、たった数年程度刑務所で過ごすだけで、社会はあなたを許してしまうのでしょう? そんな、生易しい……」
「ひぎっ! ぐげぇッ!? おぼッ!」
レンジの顔面を爪先で抉りながら、ヒメノは頬に手を当ててほぅと小さくため息。
「私だってお兄ちゃんと一緒ですのに。どうして甘く見られてしまうのでしょうね。お母様が襲われた事実に、怒っていないはずがないでしょうに。本当に、もう……」
「ヒメノは実際に優しいから、そういう雰囲気がにじみ出てるんじゃないかな?」
「お兄ちゃんったら……。私だって、怒るときは怒るんですのよ?」
それは知っている、と、そばで聞いているタイジュが若干顔色を悪くする。
彼もまた、異世界でヒメノの超長時間説教を喰らったことがある。あれはヤバイ。
「さて」
再びレンジの前に出たマリクが、笑顔で試験管のフタをキュポンと開ける。
左右に揺れる青い液体を見て、前歯が欠けたレンジが悲鳴をあげる。
「ひぁ、ああ、ぁッ! う、や、やめ……ッ!?」
「おまえ、生き物が別の何かに変わるのが好きなんだろ?」
もがくレンジの頭上で、笑ったマリクがゆっくりと試験管をななめに傾ける。
「じゃあじっくり味わえよ。――自分自身に起きる『変化』をな」
傾けられる試験管に、レンジの瞳が限界まで見開かれる。
「や、や、や……、やめろおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおッ!」
「やめない」
そして逆さにされた試験管から、重力に従って落ちた青い液体がレンジに触れる。
三人が見ている前で、彼の『変化』はすぐさま始まった。
「あぎゃあああああああアアアアァァァァァァァァァァァァァァ――――ッ!?」
最初こそ人の悲鳴だったものが、数秒も経たずに人の声ではなくなった。
それは、レンジの体がみるみるうちに変形して、口が大きく裂け始めたからだ。
肉はミチミチと音を鳴らして破れ、その下に新たなイボまみれの肌が現れる。
手は五指から七本指に増え、さらに肘から先に新たな腕も生えようとする。
急激な変形に耐えきれず、全身からバキボキと骨が砕ける音がする。
血と、何かもわからない奇妙な色の体液がそこかしこから噴いて、異臭を放つ。
「ぐぃひぃぃぃぃィィッ、ぎぃやああぁぁっ、あぎぃぃぃぃぃぃぃ――――ッ!」
「よくもまぁ、こんな薬を作ったモンだ。その点は感心するよ」
変形を続けるレンジを前に、黒スーツ姿のマリクが腕組みして言い捨てる。
レンジの無秩序極まる変形は、三十秒以上経っても続いた。
それはまさに『変化』を楽しむためだけに用意された、レンジの魔薬だった。
一分近く続いた変形がようやく終わり、レンジだったものが弱々しく痙攣する。
完全に人の形を失っている。子供が悪ふざけで描いたバケモノのような姿だ。
「最初と最後で、すごい『差』だね。こうなれて嬉しいだろ、レンジ・カルヴェル」
「あぎぃ~、ぎひぃあぁ、うぎぃぃぃぃ~~……」
脳の中まで変質したレンジに、人の知性など残っているはずもない。
「別にぼく達は、おまえに償いなんて求めない。贖罪なんて必要ない。ぼく達はそんなものに興味はないんだよ、レンジ・カルヴェル。ぼく達は、ただ――」
掲げた『篩嬌骨』の上に闇を集めて、マリクは冷ややかに告げる。
「――ただ、恨みを晴らしに来ただけなんだから」
そしてレンジだったモノに放たれたのは、光も逃がさない超重力の渦。
二倍ほどに肥大化したレンジだったモノの肉体にそれがフワリと命中する。
「ぎぃああああああああああああああああああああぁぁぁぁ――――…………」
強烈な重力によって身を圧縮され、磨り潰されて、断末魔の声が響き渡る。
直後、分子レベルで分解されたレンジは一滴の血も残さず虚空へと消え去った。
――レンジ・カルヴェル、完全消滅。