第260話 三本目/百年後/『覚悟』の色は無色透明
――二十二世紀、中東の某国、某地方都市、その一角。
「……ァ、ァ」
彼は、錆びて朽ちかけたベッドの上に横たわっていた。
ひどく痩せさらばえた、自身が寝ているベッドよりもなお朽ちかけた老人だ。
頭には白い毛髪がかすかに残る程度。
顔は、髑髏に薄皮一枚張り付けたかのようで、肌の色も死人のそれに近い。
深く刻まれたしわと数多の傷で、元々どんな顔だったのかも判別できない有様だ。
歯は全部抜け落ちて、モノを噛むことなどとうにできなくなっている。
着ている服はすっかり黒ずんで異臭を放っており、手足も枯れ木のように細い。
呼吸をするたびに内臓がジクジクと痛んだ。
長年痛めつけた臓腑は、全て残らず病に冒され、肉も骨も、癌だらけだ。
彼が寝ているのは、半分が崩れかけた部屋だった。
元々はアパートメントとして建てられたが、砲弾によって半壊した。
そう、ここは戦場。
今も外では、銃撃と人の悲鳴、爆発音が続いている。
そんな場所で、彼は間もなく死ぬ。
この百年、世界の戦場を駆け巡った傭兵剣士たる彼も『老い』には勝てなかった。
彼は死ぬ。
もう間もなく、死ぬ。
誰にも看取ってもらえずに、孤独に、寂しく、戦場の片隅で死んでいく。
彼以外にこの部屋にあるものといえば、ベッドと、脇に立てかけてある刀だけだ。
その刀も、鞘は塗装が剥がれ、ひび割れ、壊れかけている。
中に納まった刃も、人を斬りすぎたせいで錆びきって、なまくらと化している。
これが『剣士』の末路。
世界中の戦場で『マスターサムライ』と称された、最強の傭兵のなれの果て。
――タイジュ・レフィードは、百十四歳にして、今、死を迎える。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
人は死に際し、今までの記憶を意識の果てに見るという。
それがいわゆる、走馬燈。
今、老いと病に屈し、死にゆこうとするタイジュも、その例に漏れない。
思い出すのは、あの日のこと。
自分の運命を変えて、今に繋がる人生を決定づけた、あの白い大地での出来事。
名も覚えていない、かつて自分が『女将さん』と呼んだ女。
その女に、タイジュは自分の本心を暴かれた。
己でも気づいていなかった、心の奥底に潜んでいた『剣士』としての本心だった。
そして、それを暴かれた結果、ラララが壊れた。
ラララ――、ラララ・バーンズ。
その名前だけははっきりと覚えている。自分が愛した少女。自分が壊した少女。
自分の本音を知って絶叫し、そしてその瞳に何も映さなくなった、彼女。
その場にいた皆が、ラララの方に意識を移した。
そこに、一瞬の隙ができた。
やはり名は覚えていない。自分が『お師さん』と呼んだ女が動いた。
白い空間を作っていた誰かを、その『お師さん』が斬り伏せた。
そして次の瞬間、世界は元に戻って自分は『お師さん』に強引に拉致されたのだ。
そのまま、自分と『お師さん』は外に出た。
自分達がいた場所の外、ではなく、日本の外にだ。
あの『お師さん』には協力者がいた。
それを、自分に対して『お師さん』は得意げに語っていた。内容は忘れた。
覚えているのは、自分が『お師さん』と共に日本の外に出たこと。
そして、それから『傭兵剣士』として、世界各地の戦場を渡り歩いたことだ。
怖かったのだ。
いつ、自分が壊したあの少女の家族が報復に来るかと、気が気でなかった。
だから自分は決してひとっところには留まらなかった。
自分が追われている恐怖を紛らわせるために、ひたすら戦場で刀を振るった。
その間だけ、タイジュは追われている恐怖から目を逸らすことができた。
自分は『剣士』だからと、積極的に人に雇われ、剣を振るい、命を奪い続けた。
勝つことが楽しかった。
斬っていいのが嬉しかった。
だが、いつの間にか『お師さん』がいなくなっていた。
自分のもとを去ったか、それとも自分が斬ったのか、それも覚えていない。
覚えていない以上、自分にとって『お師さん』はその程度の存在だったのだろう。
それからはタイジュ一人で戦場を巡り歩いた。
人は争う生き物だ。
この世界にあっても、戦場はどこにだってあった。自分への需要は尽きなかった。
不死身の『剣士』。
誰も止められない最強の『傭兵』。
いつしかそうした噂が流布して、タイジュは『マスターサムライ』と呼ばれた。
そして、誰も彼には寄り付かなくなった。タイジュは、独りになった。
鋭すぎる刃は、触れる者全てを切り裂かずにはいられない。
剣を握り戦場を駆けまわるタイジュこそ、まさにその『鋭すぎる刃』そのもの。
だけど、別にそれで構わなかった。
自分以外の他人など、邪魔なだけだ。
周りに人がいれば、重石になるかもしれない。邪魔だ。いるな。消えてしまえ。
タイジュは、剣さえ振るえれば満足だった。
ということにして、ひたすら、ただひたすら自分を偽り続けた。
彼が人を遠ざけたのは、いつまでも耳の奥に残り続ける、あの悲鳴が原因だった。
自分が壊してしまったあの少女の声。最後に聞いた、好きだった女の子の絶叫。
それが、タイジュ・レフィードに人間関係を諦めさせた。
自分は剣なくして人とは関わってはいけない『剣士』なのだと、自覚させた。
そして二十年が経ち、三十年が経って、彼はようやく追われる恐怖から逃れた。
さらに五十年が経ち、七十年が経って、若き日に関わった人間の顔も全て忘れた。
九十年が経ち、百年が経って、今、こうして自分は死のうとしている。
人生の走馬燈が行き過ぎて、彼は味わっているのは、絶望と同義の空しさだった。
ああ、何もない人生だった。
剣を振ってばかりの、誤魔化しばかりの日々だった。
今や、世界各地で伝説の存在にまでなった最強の傭兵『マスターサムライ』。
だがその実情は、この姿。
誰にも看取られることなく、廃墟の部屋で寂しく死んでいく哀れな老人だ。
剣を振っている間は楽しかった。
でもその楽しさに没頭できたことなど、一秒たりともあったろうか。
ただ、自分の背を這う恐怖と罪悪感から逃げるために、剣を振り続けただけだ。
これが『剣士』の末路なのか。
死合に敗れるのでもなく、勝利の栄光を握ったまま逝くのでもなく――、こんな。
空しい。
虚しい。
むなしい。むなしい。むなしい。むなしい。むなしい。むなしい。むなしい。
何もない。空虚だ。本当に何もない。
百十四年も生きたのに、自分の中には何もない。空っぽだ。何も、何も……。
「……ラララ」
寿命が尽きるまであと五分というところで、彼の唇はその名を紡ぐ。
そして、遠くなって何も聞こえないはずのその耳に、己の呟きは届いて、
「あぁ、ラララ……」
乾ききった体であるにもかかわらず、濁った瞳から涙が溢れた。
ああ、ラララ。自分が愛し、自分が壊してしまった少女。自分の罪の象徴よ。
会いたい。
君に会いたい。
こんな願いを抱くこと自体が、すでに罪。百回殺されても足りぬほどの、大罪。
それを自分で理解しながら、だが、求めずにいられない。請わずにはいられない。
会いたい。
会いたい。
ラララに会いたい。一目でいいから、彼女に、最後に一度だけ――、
『一度でいいから、あなたに褒めてほしかった……』
――――ッッッッ!
愛した少女に思いを馳せ、そこから連なって浮かんだ記憶が彼の中に爆ぜる。
ああ、そうか。そうだったのか。それでは、自分がしたことは――、
「……愚かしい」
そう、愚かしい。余りにも愚かしい。
自分がラララにしたことも、それに今になって気づいたことも、全て、愚かしい。
同じなのだ。今の自分が抱く願望と、あの少女は願い続けたこと。
ただ一度、それが叶えば全てが満たされる。だけども叶えたい、切なる願い。
タイジュは、少女のそれを踏みにじり続けてきた。
異世界にいた頃から、あの日に『お師さん』に拉致されるまで、ずっと。
そしてそれに、今、気づいた。
これを愚かといわずして、何を愚かといえばいいのか。
最低で、最悪で、あまりにも恥知らずな外道。
老境に至り、死に瀕して、タイジュはやっと己の本性を実感した。
だが、もう死ぬ。
あと三分もかからず彼は死ぬ。罪深き外道の最期に相応しいつまらない死に様だ。
しかしそんなものは所詮、自己満足でしかないのだろう。
自分が死ぬから、一体何だというのか。
こんなのうのうとベッドの上で、罰も受けずに死ぬなど、と……。
今から悔いて、泣いて、それでどうなる。どうにもならないだろうに。
「いや……」
違う。このままのうのうと死ぬワケではない。
今から自分がラララにできることなど何もない。そんなことはわかっている。
だからせめて、心から認めて死のう。
例え、自己満足と変わりなくとも、自分だけはそれを思って、地獄に落ちよう。
――そうだ、ラララの剣は、自分よりも優れていた。
心からそれを認めて、自分は地獄に落ちていこう。
そう思って、タイジュ・レフィードはベッドの上で目を閉じようとする。
「…………」
だが、彼は目を開けた。
そして、ゆっくりと手を震わせて伸ばそうとする。
虚空から現れたのは、銀色の長方形の板――、金属符。
取り出そうとしたそれは、震える手で掴むことができずに、床に転がり落ちる。
だが、金属符はそのまま床に張り付いて、彼のいる部屋を『異階化』させる。
「まだだ……」
しわがれた声、目からは涙が溢れ、彼は、緩慢な動きでベッドから出ようとする。
「まだ、死ねない……ッ」
そうは言うが、寿命の限界は確実に近づきつつある。あと、一分少々。
朽ちかけた老醜そのものの身で、タイジュはベッドから這い出た。
いや、出たというよりは落ちたという方が正しい。
かつての最強傭兵は、もはや体もうまく動かせないみじめな老人となっていた。
それでも立ち上がろうとする彼の右手には、錆び切った一振りの刀。
――タイジュ・レフィードの異面体である『羽々斬』だ。
誰もいない部屋で、今さらそんなものを取り出して、彼は何をしようというのか。
決まっている。剣を振るのだ。
彼にむなしさしか残さなかった、忌々しいばかりの剣を、これから振るのだ。
タイジュは、悟っていた。
そこは、百年を戦い続けたがゆえの感覚が働いたのだろう。
寿命を三十秒残し、やっと立ち上がったタイジュがハバキリを構えようとする。
その足元から、見えない力が立ちのぼり、大きく渦を巻き始めた。
「死ねない、まだ、死ねない……ッ」
このまま死ぬわけにはいかない。何故なら、できることが増えたのだから。
逃れ得ぬ『本物の死』に直面した今このとき、彼は己の『真念』に到達していた。
そして知った。
死を待つだけの今の自分でも、まだ、できることはあるのだ、と。
「……ラララ、待っていてくれ、ラララッ」
渦巻く力は高まって、彼が振り上げるハバキリへと集束していく。
だが寿命も差し迫って、タイジュが死ぬまで、あと十秒。
「異能態……、『夢葬羽々斬』」
そこに現れたのは、彼の『真念』を示すかのような、透き通った無色の刃。
だが、タイジュの命の灯火が、ここでついに尽きようとする。
来たるべきそのときまで、五――、四――、三――、二――、一……!
「ラララ、今、行く」
タイジュ・レフィードの最期の一閃は、愛する少女へと捧げられた。