第234話 冷たい夜、ただそれだけは温かく
夜中の、何時頃だろうか。
風見宅でひとしきり話したその夜、俺とお袋はアパートに戻って寝ていた。
多分、もう日付は変わっている。
普段ならとっくに寝ている時間だが、どうにも妙な感じがして寝付けずにいた。
俺が目を閉じて力を抜いて体を布団に横たえていると、
「まだ、起きてるのかい?」
「お袋こそ」
お袋が起きていた。
気配は完全に寝ていたのに、この人、ずっと起きてたな。
「体、どうかしたかい?」
「どうもしねぇよ」
あ~、鋭い鋭い。本当に、この人には隠し事できませんねぇ。
ま、それはこっちもなんですけどねぇ~。
「……外にいるだろ、あいつ」
「そうみたい、だねぇ」
俺もお袋も、とっくに気づいている。
さっきからアパートの周りを歩いている気配がある。歩き方からシンラとわかる。
挙動不審、というよりは散歩っぽい感じの歩き方だと思われる。
今日、誰より色々あったのはあいつだ。寝るに寝られないんだろうな。
「途端にソワソワし出すんじゃねぇよ。笑うわ」
「仕方がないだろ。前の『あたし』と違って、アタシはそういう方面は疎いんだよ」
お袋がね、外にいるのがシンラってわかった途端に、気配変わってんの。
さっきまでは女傭兵『竜にして獅子』だったのに、今はただの恋する乙女ですよ。
もぉ~、何なんですかね、この母親は。
息子に『この人何なの、可愛いなの?』って思わせてどうするつもりなんです~?
「行けばいいじゃん」
「迷惑に、思われないかねぇ……」
「それを本気で言ってるなら捧腹絶倒通り越して七転八倒ですことよ、お母様」
「うるさいねぇ、アンタは。……怖いんだよ、アタシは」
あ、素直に本音ブチまけた。
「何か変な感じさね。アタシだってそれなりに『経験』はあるはずなんだけどねぇ」
「色々考えちまうのはわかるけど、だったら会ってきなよ。全部、消し飛ぶさ」
「アンタも、そうだったのかい?」
「さて、何のことやら……」
やっと笑ったお袋に、俺は逆に気恥ずかしくなって体を転がして背中を向ける。
「これだけは言っておくぜ」
「何だい?」
聞き返され、振り返らずに僕は言う。
「幸せになってね、ママ」
「……うん。ありがとう、アキラ」
そして、お袋は布団を出て、そのまま外に向かっていった。
一人残った俺は、何となく満ち足りた気分になりながら、再び目を閉じた。
――しかし、何か、ダルいな。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ヒナタが寝たのを確認したあとで、シンラは一人、家を出ていた。
寝ようにも、寝られるはずがなかった。どうにも気持ちが高ぶっている。
さしものシンラといえど、今日という特別な日に、落ち着いてなどいられない。
ここまでの興奮は、それこそ建国した当日以外にはなかったかもしれない。
「……まるで寒いと思わぬ」
十一月半ば、夜気は相当に冷たく、吐く息もほのかに白く変わる。
なのに、寒くない。熱が体を巡るのがわかる。血の流れが早まってすらいる。
理由は、わかり切っていた。
自分は今日という日に、生まれ変わることができたのだ。
生まれたばかりの赤ん坊が産声をあげるように、体中が再誕の喜びに沸いている。
別に戦ってなどいないのに、血沸き肉躍る感覚がシンラの身を駆け巡っている。
こんな状態で、寝てなどいられるはずがない。
「本当に、不思議なものだ」
ただ、体が歓喜に沸く一方、シンラ自身は己の変化を他人事のように捉えていた。
神よりひなたの『死期』を告げられるまで、自分は『ひなたの父親』だった。
その事実は変わらないし、そうであったときの記憶も明確に残っている。
自分にとって、ひなたは全てであるはずだった。
それは、いつかの日に美沙子から厳しい指摘を受けた、まさにその通りだ。
彼の判断基準は、全て、ひなただった。
ひなたのためになるかどうか。それだけがシンラの中の基準だった。
以前、美沙子にそれを突かれて、ぐうの音も出なかったことも覚えている。
そして、美沙子を自分に惚れさせるべく、色々と画策し、実行してきた。
様々な場面でエスコートし、夏のキャンプだって自分が立案した。
甲斐性を見せるべくいつでも率先して動いて、美沙子からも一定の評価を得た。
――でもそれも、ひなたのためだった。
表面上は美沙子のためを装いながら、根っこの部分では何も変わってなかった。
結局は美沙子という『最高の母親候補』を手に入れるため。
美沙子に対して行なってきた全てが、そのための行動に過ぎなかった。
それをやったのは『役割』に囚われていた風見慎良、とはいうまい。
自分はシンラであり、慎良であった。それ自体は今も何も変わっていない。
慎良の側に責任は押し付けられない。
あの時点での自分の行ないは、自分にこそ責任がある。それを彼は理解している。
だが、生まれ変わった今は、過去の自分の行ないについて、こう思っている。
「……救いようがない」
美沙子に己の醜さを突きつけられながら、何も変わっていなかった。
その事実が、結果的に美沙子をどれだけ傷つけたか。本当に、救いようがない。
さらに救いようがないのは、もう全て終わってしまっていることだ。
自分の中にあった『役割』という呪縛は排除され、シンラは生まれ変わった。
それも実感として、今まさに体に感じている。
なのに、心は次から次へと湧いてくる後悔に沈み切っていた。
自分にはもっと、他にやりようがあったんじゃないか。
外に出てからずっと、彼が考えているのはそのことばかりだった。
美沙子に一度バッサリと切り捨てられたあの日から、今日にいたるまでの間。
きっと自分にはもっと、やりようがあった。方法があった。
自分自身と向き合う機会が、数えきれないくらいあった。
それなのに結局は――、という考えが、どんどんと心に溢れてくるのだ。
美沙子は自分を許してくれた。受け入れてくれた。
だが、自分が自分を許せていない。受け入れきれていない。悔いを、噛み締める。
そして、同時に思うことがある。
自分を許せていないのと同じくらい、いや、それ以上に――、
「会いたい」
口から、そんな呟きが漏れた。
シンラ・バーンズから『役割』を取り払ったのち、残ったのは様々な想い。
娘であり妹でもあるヒナタへの愛情もある。
父親であるアキラへの感謝だって、当然あるに決まっている。
ミフユへの想い、家族への想い、それだってある。
けれど、今の彼の中で最も激しく滾り、輝いているのは、あの人への想い。
会いたかった。
どうしようもなく、美沙子に会いたかった。
ヒナタの母親がどうのという話は、今の彼の頭の中には一片たりともなかった。
ただただ、美沙子に会いたいという想いだけが、そこに募り続けた。
「……美沙子さん」
突きを見上げて、ほぅとため息が出る。
名を呼んだところで、本人が現れるワケでもなし、きっと今頃は寝ているはず、
「はい、何ですか、シンラさん」
寝ている、はず……、
「…………美沙子、さん?」
声がして振り返ったら、そこに、美沙子が立っていた。
自分に向かって、微笑みを見せてくれている。
「ま、幻か……?」
「はい? いえいえ、アタシはここにいますよ。本物ですって」
呆けるシンラがおかしかったのか、美沙子はクスクス笑っている。
深まる笑みを見た瞬間に、彼の体は動いていた。
「――――ぁ」
シンラは、美沙子を抱きしめていた。
強く、強く、そして熱く、想いを込めて、抱きしめていた。
「……シンラ、さん?」
「すみません。すみません。美沙子さん、すみません。余は、俺は……ッ」
突然の言葉に、美沙子は混乱するだろう。するに違いない。
でも、これ以上は何も言えない。許してくださいなどと、言えるはずがない。
だからシンラは黙って、ただ抱きしめるしかなくて……。
「全く、大きな子供みたいですね」
だが美沙子は彼の耳元でそう言って、抱きしめ返してくれる
そして、彼女は優しく告げてくる。
「許します、シンラさんのこと」
「…………ッ!」
衝撃が、シンラの全身を走り抜けた。
彼は顔を引いて、驚きのままに美沙子を見つめる。
「な、何故……?」
「同じだからです。アタシも」
「同じ、とは?」
「ちょうどアタシも、後悔してるところでした。あのコロシアムで、アタシはもっと他のやり方が、いいやり方があったんじゃないか、って……」
「いや、それは……」
「後悔って、他人がどうこう言って、収まるものですか?」
慰めようとしたら、笑顔で先手を打たれてしまった。
もちろん、収まるはずがない。それで収まるのなら最初から後悔などしていない。
「だから自分で決着をつけるしかないんですよ、こればっかりは」
「それは、そうかもしれませんね……」
「でも、決着をつける手伝いはできます。だからアタシは、シンラさんを許します」
星空の下、美沙子に告げられたその言葉は、シンラの胸にすっと入り込んでくる。
きっとこういうのを『腑に落ちる』というのだろう。
それまで、シンラを苛んでいたズキズキとした痛みが、和らぐのを感じる。
「ふふ、本当に全部、消し飛んじゃったねぇ」
言葉を告げられずにいると、美沙子がそう言って目を細める。
何のことかとも思ったが、それより先に、彼は何よりの最優先事項を思い出す。
「美沙子さん」
「何ですか、シンラさん」
そこは、真夜中のアパート前。
誰もいない、静かで少しだけ寒い、だけど冴え冴えとした夜空の下。
白く変じる吐息が、ずっと二人の間を流れて消えていく。
「俺はまず、あなたに、これを言っておかなきゃいけなかった」
「はい、何でしょうか?」
きっと、美沙子は彼が次に言うことを知っている。
すでに二人は結ばれたも同然の身。
けれども、だからこそ、初めの一歩目をここに踏み出す。意を決して。
「俺は、あなたが好きです」
静かな、とても静かな一言だった。
そしてそれに対して、美沙子が返す言葉もまた、小さく一言。
「はい、知ってます」
そう言う割に、彼女の瞳は潤み、頬は紅潮している。
夜の色がそれを覆い隠しているが、シンラには彼女の胸の高鳴りが伝わっている。
「アタシも、シンラさんが好きですよ」
「はい、知ってます」
同じ言葉を受けて、同じ返事をして、そしてまた二人は抱きしめ合う。
飾りはいらない。シンプルに、ただ想いを告げた。それだけでいい。それでいい。
「ガサツな女ですけど、末永く、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、察しの悪い男ですが、末永く、よろしくお願いします」
「「ふふふ」」
言葉を交わし、同時に笑って、そして二人は見つめ合う。
夜、月の光を受けて、伸びた影は男が一つ、女が一つ、それが寄り添い重なって、
「――あったかい」
冬も近いその夜に、重ねた唇だけは、温かかった。