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第227.5話 冷たい雨が降る夜に

 11月も半ばに差し掛かると、さすがに降る雨にも冷たさを感じる。

 その夜は、パラパラと粒の小さな雨が霧のように降っていた。


 宙色の繁華街を歩く人々は、濡れてはかなわないと、皆、傘をさしている。

 そんな中、一人だけ傘を差さずに歩いている背の高い男がいる。


 濃いブラウンの中折れ帽子を被った、老齢ながらも背の高い男である。

 夜なのに目にはサングラスをかけている。

 体には高級そうなスーツを着て、その上にコートを羽織っていた。


 背が高いだけでなく、体格も大きく、背筋も真っすぐ伸びている。

 見るからに威厳と風格を感じさせるその風格は、まるでマフィアのドンのようだ。


 百人中百人が『マフィア映画に出てくるゴッドファーザー』と答えるだろう。

 そんな、現実感の薄い外見をしているのが、彼だった。


 霧雨が降って、景色がけぶる中、一人、傘もささずに歩く男。

 非常に絵になる光景だ。

 彼に気づいてその姿を目にした者がいれば、必ずや見惚れてしまう。


 それほどにサマになっている。

 もちろん、歩いている本人にそんなつもりはないのだが。


「……そろそろ、冬が近いか」


 ふと足を止めて、空を見上げる。

 そこには白いもやがかかった街並みしか見えない。


 最近はすっかり気温も低くなって、降る雨も明確に冷たさを増している。

 それを、傘もなしに浴びて、彼の体も冷え切っている。

 もしかしたら《《彼女》》には『年寄りの冷や水』なんて言われてしまうだろうか。


 考えてみると、それだけで少しおかしく感じられてしまう。

 まぁ、実際に年寄りの冷や水であるのに違いはない。


 自分の年齢は、とうに70を過ぎている。

 この年齢で、自分は若い、などという戯れ言は口が裂けても言えやしない。

 それこそボケの始まりを自分で疑うような所業だ。


「でも、感じることは重要だ。常に感じ続け、情報を更新し続けなければならない」


 彼は今、日課の散歩中だった。

 朝と昼と夜、常にこうして、どんな天気でも外に出て街を巡っている。


 感覚というものは、自分でも気が付かないうちに錆びて衰えていく。

 一度錆びたら、また磨くまでまで時間がかかってしまう。


 だからこうして常に街を巡り、自分が生きてる場所について、認識を新たにする。

 それを彼は『情報を更新する』と呼び方をして、ずっと続けていた。


 慣れることは生き物にとって武器だが、何事も慣れすぎると感覚がマヒし、鈍る。

 鈍ることは武器ではなく、それはただの退化だ。悪化とも呼べるだろう。


 特に日本はそうした『慣れすぎゆえの鈍り』に冒されやすい環境にあるといえる。

 何せ、蛇口をひねれば安全に使える水が出る。その時点で、すでにおかしい。


 日本では普通のことだろう。

 しかし、日本以外ではそんなことはなかなかあることではない。


 地域によっては、水を求めて戦争が起きることだってある。

 そうした『水戦争』は、昔の日本でも起きていた。

 このことからも水という資源の大切さ、重要さが感じとれるというものだ。


 だが、それを実感できる日本人が、果たして百人中何人いるものか。

 それこそ、彼が考える『慣れすぎゆえの鈍り』の典型例であるといえるだろう。


 そう、人は何に対してだって慣れるし、鈍る。

 生きることにも。死ぬことにも。愛することにも。害することにも。

 そういう面で見れば、人が持つ知恵なんて、大したものではないのかもしれない。


「――おっと」


 思索に耽りながら歩いているうちに、人にぶつかりそうになった。

 いけない、少し考えることに没入していたか。


「ふむ、少し振りが強くなってきたかな?」


 気温もかなり下がってきているように感じる。

 これはさすがに、そろそろ帰った方がよさそうだろうか。


「……おや?」


 そう考えていたところに、見覚えのある一台の車が彼の前に停まる。


「こちらにいらっしゃいましたか」


 車の窓が開いて、運転席から一人の女性が顔を出す。

 長く艶やかな黒髪が美しい、二十代半ば~後半の赤い唇が特徴的な女性だった。


「やぁ、(さち)。迎えに来てくれたのかな?」

「ええ、どうせこのお天気でもお散歩に出ているんだろうと思いまして」

「いやぁ、見抜かれてるなぁ」


 幸と自分が呼んだ女性に、彼は軽く苦笑を向ける。

 しかし、彼女の方はニコリともせず、


「乗ってください」

「いいさ、歩いて帰るよ。このくらいなら、まだ……」

「年寄りの冷や水も程々になさいませ」


 ああ、言われてしまった。やっぱり自分は年寄りなのかと、少し悲しくなる。

 しかし、これ以上口答えしても彼女には絶対勝てない。彼は大人しく車に乗った。


「出します」

「ああ、お願いするよ」


 言うと、かすかな音と共に車が走り出す。

 エンジン音はほとんど聞こえない。


「この車は」

「欧州の提携先から送られてきたものです。ガソリンも電気も使っていません」


「なるほど、どおりで静かなわけだ。使っているのは固形エーテルかな」

「はい。燃料としての有用性は実証済みですから」


 固形エーテルは異世界ではポピュラーだった『空気から作り出せる燃料』だ。

 多少の魔力があれば大量に生み出せる点から、広く普及していた。


「提携先は、何と?」


 揺れもなく、最高の乗り心地を感じながら、彼は隣の幸にそれを確認する。


「是非、研究させてほしい、と。そのための人員も送ってほしいとのことです」

「ハハハハ、研究熱心なのか、欲の皮が突っ張っているのか」


 まぁ、いいだろう。

 そんなに研究したのならば存分に研究するといい。


 だが結果はわかり切っている。

 魔力を解さない現代科学でどれだけ調べても、固形エーテルは再現できない。

 それが欲しければ、自分達に尻尾を振る以外にないのだ。


 だが、そうした事実を認めたがらない人間もまた多いのも確か。

 だから自分達は、そういった人々に技術や道具を提供し、格差を見せつけていく。

 科学などでは到達しえない、夢のような領域が確かにあるのだ、と。


「しかし、よかったのですか?」


 幸の方から、彼に話しかけてくる。


「何のことかな?」

「千人のパトロンの消失の件です」

「ああ」


 千人のパトロンの消失。

 それは、つい先日起きた出来事だった。


 自分達に出資してくれていた二千人のパトロンのうち、半分が消息を絶ったのだ。

 しかも、それが誰なのかがまるでわからない。誰も、顔を覚えていなかった。


 彼も、幸も、そのうち何人かとは面識があるはずなのに。

 それでも記憶に残っていない。ただ、千人消えたという事実だけがそこにある。


「いいも何もないよ。どうしようもない」

「ですが……」

「何があったのかすらさだかでないのに、どう対処しろと?」


 それは、彼の言う通りだった。幸も無言で肯定を返すしかない。


「何かあったのだろうけどね。この世界から、千人もの人間が記憶ごと消滅するような、恐るべき何かが。……踏んではいけない虎の尾でも、踏んでしまったかな」


 推測でしかなかったが、彼の言ったそれはほぼ的を射ていた。

 隔離された『絶界』で開催された転生者の殺し合いトーナメントイベント。


 その結末として、主催者オード・ラーツと千人の視聴者は、この世から消滅した。

 アキラ・バーンズという最悪の存在から、最大級の恨みを買ってしまったのだ。


「これから、どうされるのですか?」

「別に。これまで通りさ。我々は時を待つだけだ。今のところ、その一件以外は順調にことが運んでいるしね。消えた千人のパトロンといっても大体が小口出資者達だろう? 大口の出資者は無事なんだから、大勢に影響はないよ。このまま行こう」


「随分と、冷静なんですね」

「逆境に慣れているだけだよ。鈍らない程度にね」


 彼はそう言って、口角を少しだけ上げる。


「これでも私は『最悪にして災厄なる一家』の一員だ。荒事は日常茶飯事だったよ」

「知っていますよ、もちろん。私もそのうちの一人だったんですから」

「そうだね。幸……、いや、サティ。『深緑にして新緑』サティアーナ・ミュルレ」


 助手席にいる彼にその名で呼ばれて、幸は――、サティはクスッと笑う。


「懐かしい名前ですね。今の私は、綾村幸(あやむら さち)ですけれど」

「どっちの名も好きだよ、私は。呼び慣れているのは、サティの方だけどね」


「ええ、そうでしょうね。――キリオ様」

「様付けはいらないんだけどなぁ、君は私の妻だろうに」


 濡れたサングラスを外して、彼は己の顔を露わにする。

 老齢に至り、無数のしわが刻み込まれたその顔は、だが、キリオによく似ていた。


「帰ったらどうしようか」

「もちろん、お風呂でしょう、キリオ様。風邪をひきますよ」


「私はそんなヤワなつもりはないんだねぇ……」

「年寄りの冷や水……」

「わかった。わかったよ。私の負けだ。全く、我が妻のなんと厳しいことか」


 老キリオは、軽く両手を挙げて降参のポーズを示す。


「ご自分の年齢をお考えください」

「国を統べる者とすれば、まだまだ現役だろう。72など」

「またそうやって自分基準でモノを語るんですから、あなたは……」


 それは、まるっきり気心の知れた仲が見せるやり取りだった。

 共に明るく声を弾ませ、心から会話を楽しんでいる。


「それにしても、国、ですか……」

「何だね、サティ。何か言いたいことでのあるのかい?」


「この国を奪う、というのは本気なのですね?」

「ああ、それかい。もちろんだよ。やり方は変えるけど、ね。私は学ぶ人間だ」


「たった四時間の皇位簒奪、ですものね」

「言わないでくれ。それについては反省もした。後悔もした。夫をいじめるなよ」


 老キリオは、目をきつく閉じてかぶりを振る。

 サティはおかしそうにクスクスと笑って、


「本当に国を乗っ取る気なのですね」

「そうだ。そのための『Em』――、『Empire(私の帝国)』だからね」


 そして彼は、老キリオは顔に笑みを浮かべる。

 そこに刻まれた笑みは、野心と、そして決心に満ち満ちていた。


「今度こそ私は『私が守るべきもの』を守ってみせるよ。今度こそ、今度こそ――」


 呪詛のように繰り返されるその言葉を、妻であるサティは無言で聞き続けた。

 サティ――、サティアーナ・ミュルレ。

 それは、バーンズ家四男キリオ・バーンズの、最初の妻の名前だった。

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