第221話 さようなら、おとうさん:後
そこにある光景を前にして、風見慎良は己の目を疑った。
「な――」
自分の娘である風見ひなたが、震えながら両手でダガーを握っている。
しかもその切っ先を、自分に向かってかざしているのだ。
「何をしているんだ、ひなた……」
さすがに、これは慎良も怯まざるを得ない。
大人ならまだしも、彼自身、今は小学生低学年くらいの姿になってしまっている。
「……こ、こわい。こないで」
ひなたは、泣きそうな顔になりながら、ダガーを向けてくる。
子供の姿である慎良の目で見てもわかる。磨き抜かれたその刃は、よく切れそうだ。
「ひなた、どうして……」
「おとうさんじゃない」
また、ひなたはそれを慎良に告げる。しかも今度は、さっきよりもきっぱりと。
「何を言ってる。僕は、君にお父さんだ。僕だけが、君の……」
「ちがうよ」
声を震わせて言いかける慎良だが、みたび、ひなたに否定される。
「だって、おとうさんは、そんなこわい顔、しない」
「それは君が悪い子だからだろう! 悪い子は、叱るのが当然だろう!」
大声で怒鳴る慎良に、しかし、ひなたは身を震わせながらも、返した。
「おとうさんは、こわくないもん」
風見慎良は知らない。
同じ名を持つ、シンラ・バーンズでもある男が、どれだけ娘を溺愛したかを。
今も、分厚い壁の向こうで叫び続ける彼が、どれほど娘に優しく接したかを。
シンラ・バーンズは、己もまた娘に愛情などないと思い込んでいる。
でも、そんなことはない。そんなことは絶対にないのだ。何故なら―――、
「おとうさんは、もっとあったかいもん!」
ほかならぬひなた本人が、父から注がれる愛情をしっかりと感じとっていたから。
「ひなたのおとうさんはポカポカしてるもん、あったかいんだもん!」
それもまた『役割』といえばそうなのかもしれない。
しかし、それだけでは説明できないものがある。
本物の愛情とは、人の心からにじみ出す、優しくて温かいものだ。
それは『役割』に徹するだけの人間には決して生み出せない。だからこそ、尊い。
風見ひなたは、自分の父親が大好きだ。
それこそまさに、シンラが彼女に本物の愛情を注いだ何よりの証ではないか。
「……ひなた」
しかし、風見慎良にとっては、そんなものはどうでもよかった。
目の前の子供が、自分が担うべき『役割』を否定した。その事実があるだけだ。
つまり慎良は、その存在を根底から全否定されたのである。
真っ白になっていた頭が、それを自覚した瞬間、血の赤に染まり、死の黒に変わる。
このガキを殺してやる。
そういう、単純明快で最低最悪の結論に、慎良は至った。
非常に短絡的といわざるを得ない。
しかし、己の存在を否定された彼が抱く感情としては、至極真っ当ではあろう。
風見慎良は、面と向かって『死ね』と言われたに等しいのだ。
「ひなた、お父さんはもう、君を許せなくなったよ……」
顔から表情を消して、瞳は大きく見開いて、慎良は近くのハンマーを拾い上げる。
ダガーは、依然として彼につきつけられているが、それが何だというのか。
所詮、相手は4歳の幼女。
走って、捕まえて、押し倒して、このハンマーで殴ってやる。
もう、普通に殴るだけでは済まさない。
たっぷりと、たっぷりと、自分を否定したことへの罰を与えて殺してやる。
泣き叫んでも許さない。
許しを乞うても、許さない。許さない。許さない。
「……こ、こないで」
ひなたが、泣きそうな顔になりながら言ってくるが、聞くか、バカ。
そんな震えた切っ先で、人を刺せるはずがないんだよ、バカ。死ねよ、バカ。
風見慎良は完全に逆上し、冷静さを失っていた。
自分がひなたを殺せばどうなるか、そのことが頭からすこんと抜け落ちていた。
一歩ずつ、ゆっくりゆっくり、慎良はひなたに迫る。
距離が縮まるたび。ひなたの顔に浮かぶ恐怖が色を増していく。ああ、悦楽。快感。
もっと怖がれ。もっと、自分のことを強く想え。
自分こそが、ひなたを征服する。ひなたを支配する。ひなたを蹂躙する。
風見慎良にはその権利がある。
だって自分は『ひなたの父親』なのだから。
親は子供に、何をしてもいい。
そういう権利がある。そうに決まってる。
だから自分は、ひなたを殺す。
風見慎良が、風見ひなたを殺してやる。これから起きるのはそういう出来事――、
「…………ぇ」
小さく漏れる、ひなたの声。
その顔に浮かんでいた恐怖が消えて、幼女の顔に表れたのは、驚き。
その表情の意味を、慎良は理解できない。
自分がこれから殺す彼女は、死を目前にして一体何を見たのか。
「おとう、さん……?」
次にひなたが呟いたのは、今さらすぎる、その単語。
何が『おとうさん』だ。と、慎良は思う。
誰でもないひなたが『ひなたの父親』である自分を否定したクセに、何がッ!
新たに沸いた怒りが、慎良の脳髄をさらに過熱し、抱く殺意を激しくする。
許せるものか。許せるものか。
このガキは、徹底的にグチャグチャにして殺し尽くしてやる。
憎悪を醜く滾らせて、風見慎良はまた一歩、足を前に踏み出そうとする。
しかし、そう思っただけで、彼の足は動かなかった。
「な、何……?」
そしてまた、ひなたが呟く。
「そこに、いるの? おとうさん」
言う彼女の瞳には、ジワリと涙が浮かんでいる。
それは、どう見ても恐怖による涙ではない。真逆。それは喜びの涙だった。
――醜い。
「え……」
そして慎良の耳に、自分ではなくひなたでもない誰かの声が聞こえる。
――己の醜さを、こうもまざまざと見せつけられようとは。
「おとうさん!」
聞こえる声。ひなたの反応。まさか、この声は、ひなたが呼ぶ『おとうさん』とは!
――ひなた、すまない。余は――、僕は、本当に情けない父親だ。
「う、嘘だ。嘘だ! 何でこの声が聞こえるんだ、嘘だッ!」
もはや間違いなかった。この声の主は、一人しかいない。
今、風見慎良の肉体から切り離されているはずの、シンラ・バーンズ!
何で、何で、何で!?
風見慎良は混乱する。聞こえるはずのない声だ。ここにはいないはずの人間だ。
それなのに何で、どうして――ッ!
「何でおまえがここにいるんだ、シンラ・バーンズッ!」
――わからないか、風見慎良。僕の影。僕の負の面。僕の愚かさよ。
「うるさい、出てくるな! この体は僕のものだ! ひなたの父親は、僕だァ!」
風見慎良は激しく取り乱した。
記憶と時間を失い、その肉体に残ったまっさらな自分。
それを失うかもしれない恐怖が、彼に悲鳴じみた絶叫をあげさせる。
「出てくるな! 消えろ! ひなたの父親なら、僕がいるだろォ!」
――それを決めるのはおまえじゃない。僕でもない。ひなただよ。
「おとうさん……」
慎良が絶叫し、ハンマーを振り回すのをよそに、ひなたとシンラは向かい合う。
「あのね、聞いて、おとうさん」
――何だい、ひなた。何でも言ってごらん。
「やめろ、二人だけで話すな! ひなたの父親は僕だ! その僕を無視するなよぉ!」
慎良が絶叫を迸らせる。
でも、その声はひなたにもシンラにも届かない。親子は構わず、話を続ける。
「わたし、おとうさんと一緒がいいの」
――そうなんだ。
「うん。アキラおにいちゃんと一緒がいいの」
――そうなんだね。
「うん。みさちゃんとも一緒がいいの。ミフユおねえちゃんとも一緒がいいの」
――そうだったんだね。
「やめろ、僕を無視するな。父親は僕だ、僕なんだぞ、僕なのに……ッ! やめろやめろやめろやめろ、僕を無視して、親子の会話をするなよォォォォォォォォ!?」
頭を掻きむしり、ハンマーで床を叩く慎良を、もう二人は見ていない。
ひなたとシンラは、まるで家でそうするようにして、親子の会話を交わしている。
「だからね、だからね、おとうさん」
――ああ、何だい、ひなた。
「わたし、いいかな。みんなと一緒になっても、いいかな?」
そう言って、ひなたは笑って、両手に持ったダガーの刃を自分の首に押し当てる。
その光景を目の当たりにした風見慎良は、間抜けにも「え?」を声を漏らした。
「な、何やってるんだ、ひなた……? オイ、じ、冗談だろ……?」
少し前まで、自分こそがひなたを殺そうとしていたとは思えない反応。
だがそれも仕方がない。
さっきまでの慎良は、さすがに頭に血が上りすぎていた。
しかしシンラが現れたことで、殺意も怒りもサッと引いてしまった。
今の風見慎良は、ひなたが死ねば自分がどうなるか、きちんと理解できている。
一方で、シンラ・バーンズは言う。
はっきりと、自分から娘の意志を確認しようとする。
――ひなたが、そうしたいんだね?
「うん。そうだよ、おとうさん。ダメ?」
再度問うひなたに、真っ先に答えたのは風見慎良の方だった。
「やめろ、ひなた。やめるんだ。それは、それだけは、やめるんだ……ッ!」
そして、シンラ・バーンズもまた、答える。
――ひなたが考えて決めたことなら、仕方がないな。
「はぁ……!?」
信じがたいその言葉に、風見慎良は目を剥いた。すっとんきょうな声をあげた。
「な、何でだよ、何でそんな風に答えられるんだよ、シンラ・バーンズ! バカか。ひなたが死んだら、僕はどうなる! 『ひなたの父親』の僕は、一体どうなるんだ!?」
結局、慎良が最後にこだわるのはそこだった。自分の行く末だった。
しかし、ひなたは答えない。シンラも答えない。
二人の間に、風見慎良はもう存在していない。彼はただの、野次を叫ぶ部外者だ。
――ひなた。
「なぁに、おとうさん」
――大きくなったんだね、ひなた。
「うん」
――気づかないうちに、ひなたはこんなにも大きくなってたんだ。
「そうだよ、わたし、もうおねえさんだもん」
――ああ、そうだね。ちゃんと自分の言いたいことをはっきり言える、お姉さんだ。
続く会話。それは親子の最後の会話。そして、最期の会話。
「あの子が、みんなに会いたいって言ってるの。だから、おとうさん」
――わかってる。大丈夫だよ、ひなた。
慈愛に溢れたその声に、ひなたは嬉しそうに笑った。
そして、首筋に当てられたダガーが、その柔らかな肌に押し込まれようとする。
風見慎良が、腹の底から悲鳴を迸らせた。
「うあああああああああああああああああああああああああああああッ! やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおォォォォォォォォォォォォォォ――――ッッ!」
それでも、慎良の足は、動かなかった。
「さようなら、おとうさん」
――さようなら、ひなた。また、あとで。
そして風見ひなたは、手にしたダガーで、自分の首を切り裂いた。
小さな体の細い首から真っ赤な鮮血が大量に噴いて、4歳の彼女は血だまりに沈む。
そして、声がした。
「全快全癒」




