第195話 真意一到、あなたの心に口づけを
メールは出してある。
あの二人は、もう、その内容に従うしかない。
指定した場所は、宙色市内のとある公園。
その公園は郊外にあるので、ひとけはなくて非常に都合がいい。
スダレがアキラとミフユを伴って向かうと、そこにはすでに三人の姿があった。
スズリカ・ライプニッツと、ソウジ・ヴェルカント。
そして、ジュン・ライプニッツ。
「ちょっと、パパ、そのパンをこっちに寄越しなさいよ! ふざけないで!」
「ふざけているのはそっちだ、スズリカ。これは私のだ、おまえになどやらん!」
異世界で父娘だった二人は、無反応のジュンの前で醜い諍いを起こしてた。
その元凶は、ソウジが手にしている食べかけの総菜パン。
ソウジは、現金が尽きていたはずだ。
ということは、あれはどこかから盗んできた品か。一日にして落ちぶれたものだ。
「うわぁ、笑うわ」
「う~ん、笑えないわねぇ」
窃品のパンを巡って骨肉の争い(笑)を繰り広げる父娘を見て、アキラとミフユ。
二人には、ここに来るまでにザッとではあるが、ことの経緯は説明してある。
「あの男の方が、おまえのこっちでの父親、なんだな」
「うん」
異世界での父に問われ、スダレはうなずく。
アキラとミフユがそばにいてくれても、仕返しをしても、やはり怖いと感じる。
あの男の姿を見ただけで、心がザワつき、不快感が肌をなめる。
自分の心の根っこの部分にまで、あのソウジの恐怖は染みわたっている。
それを改めて実感し、軽く膝が震えた。吐き気も込み上げてくる。
だけど、スダレの手をミフユが握ってくれた。その温かさに、気持ちが落ち着く。
「行くね」
短く告げて、スダレは右手のリングを発動させ、公園を『異階化』させる。
それによって、争い続けていたソウジとスズリカが、彼女に気づいた。
「簾……」
「あ、あんた。あんた……ッ!」
スダレを見るなりソウジは粘ついた笑みを浮かべ、スズリカは顔を赤くする。
だが、スダレは二人を見ていない。彼女が見ているのは、自分の夫だ。
「来たよ、ジュン君」
「…………」
スダレが話しかけても、ジュンは一切反応しなかった。
彼はそこに立っているのに、まるで木か石かといわんばかりの無反応っぷりだ。
「『レイレーテの矢』の効果、か……」
「また、厄介な古代遺物を使われたモンねぇ~」
「何だ簾、そこにいるガキ共は」
盗品の総菜パンをかじりながら、ソウジがアキラとミフユをねめつける。
だが、答えたのはスダレではなく当の本人達。
「父だ!」
「母よ!」
アキラは腕組みをして胸を張り、ミフユは腰に手を当てて、やはり胸を張った。
「…………クッ!」
一瞬ポカンとなったのち、ソウジが破顔して盛大に笑い出す。
「クハッハハ! ァハハハハハハ! そうか、簾。追い詰められて自分の異世界での家族に頼ったのか! だが何だ、その貧相なガキは! そんな連中に頼ったのか!」
「え、自己紹介ですか~? 貧相なおじさ~ん!」
「そうみたいだわ! 何てこと、さすがは大人ね。自分が貧相で見すぼらしくて社会不適合者まっしぐらだっていう事実を自覚してらっしゃるんだわ! すご~い!」
「……ッ、ガキ共ッ!?」
嘲笑を響かせたまではよかったが、笑った相手から即カウンターをくらうソウジ。
笑顔はすぐに怒りの表情に切り替わった。アキラが笑う。
「オイオイ、この程度でキレちゃうの? 余裕がないねぇ、おじさん。笑うわ」
「いや~、笑えないわねぇ。大人は心の余裕を失ったら終わりよ、終わり」
「実際ぃ~、見すぼらしいモンねぇ~」
口々に言い合うアキラとミフユに、ついでにスダレも加わった。
事実、今のソウジの外見は相当にくたびれて見えた。
ブランドモノのスーツは薄汚れているし、髪型もクシャクシャに乱れている。
「簾、おまえがしたことだろう?」
「そうよ、お父さん。ウチからのささやかな報復、気に入ってくれた?」
「ささやか……、ささやかか。人を社会的に抹殺することを、ささやかと言うのか」
「うん、ささやかぁ~。だって、お父さんはまだ全然ピンピンしてるしぃ~?」
肩をすくめるスダレに、ソウジは額に青筋をくっきり浮かべる。
だが、彼は深く息をついて、いつかのような紳士的な笑みを浮かべて、
「娘の癇癪を許してやるのも親の度量だ、すだ――」
「ブッフ! ギャハハハハハハハハハハハハハハハ! スゲー! 今の聞きました、ミフユさん! 親の、ですって! オヤノ! ウオオオオォォォォォォ、娘のこと性の捌け口にしか見てないヤツが、スゲェコト言ってるんですけどォ! これはヤバいよ、令和のギャグ界にセンセーションが巻き起こるよ! アハハハハハハハ!」
「もぉ~、あんたが先に笑ったから、こっちは笑いどき逃したじゃないのよぉ~!」
言いかけるソウジの声も、アキラの爆笑に掻き消される。ミフユは不満そうだ。
二人のリアクションに、牧村宗次はもう、顔を真っ赤にするしかなかった。
「さ、三百年前の亡霊如きが、この私をバカにするなァ!」
「バカにされることしかしてねぇからバカにされるんだ、気づけよ、バカ。笑うわ」
クックッ、と笑うアキラに向かって、スダレが「おパパ」と声をかける。
「わかってるさ。手は出さない。それに、今のおまえの相手はそこの社会不適合者でも、その娘の社会不適合者でもなく――、だろ。スダレ?」
「うん」
ソウジのことはあとに置いておく。それよりも、何よりも。
「おスズちゃん、ウチにジュン君を返して」
「はぁ、何言ってるの、あんた?」
もの言わぬジュンの隣に立って、スズリカが勝ち誇った笑みを浮かべる。
スダレの反撃に社会的にほぼ抹殺されたが、それでもまだ優っているのは彼女だ。
何せ、ジュンが隣にいる。
それは、スダレに対する絶対的なアドバンテージだ。
「あんたは彼に選ばれなかったのよ、スダレ・バーンズ! ジュンはね、私を選んだのよ。あんたじゃなくて、私を愛してくれてるの。ねぇ、そうでしょ、ジュン!」
「……ああ、僕はスズリカを愛しているよ」
と、ジュンは言うが、声はひたすら抑揚がなく、感情など微塵も含まれていない。
「う~ん、この、無理矢理操って言わせてる感!」
「そりゃあ『レイレーテの矢』の効果は完全隷属だもの。そうなるわよねー」
「うるさいのよ、ガキ共! 何と言われようが、ジュンは私のものなのよッ!」
喚き散らすスズリカだが、それはまさしく、彼女の言う通りであった。
ジュンは彼女の支配下にある。それは厳然たる事実で、スダレも認めるしかない。
しかし彼女は、心失っているジュンを前にして、笑いかけるのだ。
「あのね、ジュン君」
「…………」
「あのとき、矢を射られたとき、ジュン君はウチに言ったよね」
「…………」
「『僕を信じて』、って」
「…………」
「うん、ウチは信じてるよ」
「…………」
「ジュン君は絶対に、ウチのことを放ったりしない。ウチは、ジュン君がウチのところに帰ってきてくれるって。信じてるよ。信じるに決まってる。だから――」
「…………」
健気に笑うスダレの瞳から、一筋の涙が零れる。
「早く、帰ってきて。ウチ、やっぱりジュン君がいないと、寂しいよぅ……ッ」
「…………」
ジュンに、反応はない。しかし、
「あああああああああああああああああああああああ! ふざけんじゃないわよォ! ジュンは私のモノだって言ってるでしょうが! もう、死になさいよ、あんた!」
彼を従え、圧倒的に有利なはずのスズリカが、スダレの涙に激昂する。
「ジュン! 私への愛を示して、その女を殺して、私への愛を証明してッ!」
「わかったよ、スズリカ」
スズリカの命令に従って、ジュンが左手にダガーを取り出す。
スダレは、泣き笑いのままジュンの前に立っていた。防具などなく、無防備だ。
「スダレ――」
「うん、ジュン君」
何もせずにいるスダレに、ジュンは逆手に持ったダガーを振り上げる。
その様子を、スズリカは優越感に満ちた笑いをもって眺め、アキラ達も見守る。
「殺せ、殺すのよ! その首筋にダガーを突き立てて、その女を殺すのよぉ!」
スズリカのだみ声が公園中に響く。
だが、スダレとジュンは見つめ合ったまま、どちらも動こうとはしない。
やがて痺れを切らし、スズリカがまた怒鳴り始める。
「何やってる、ジュン! さっさとその女を殺して、私への愛を証明しなさいよ!」
「…………僕は」
ジュンが、何事かを口にする。
その声にスズリカは敏感に反応した。その瞳が、驚愕に見開かれる。
「な、ぃ、今の声……ッ!?」
そして彼女が、アキラ達が見ている前で、ジュンは身を震わせ始める。
「僕は、許せない……」
その声は、これまでの平坦なモノとは違って、確かな意思を伴っていた。
「……スズリカが、許せない。……ソウジ・ヴェルカントが、許せない」
「う、嘘、嘘よ、そんなの。私は『レイレーテの矢』を使ったのよォ……!?」
あり得ない事態にスズリカは動揺し、顔を青ざめさせてかぶりを振る。
だがジュンは、確かに己の意志で言葉を発し、顔を歪める。
「でも、一番許せないのは、君を泣かしてしまった僕自身だ……ッ!」
「ジュン君……」
「だから、スダレ――」
ジュンは、スダレに向かって笑い返す。それから、
「僕は君に、捧げるよ」
自分の胸の下辺りに、思い切り左手のダガーを突き立てた。
噴き出た血が、己とスダレとを赤く染め上げる。
「ジ、ジュン……ッ!?」
スズリカが驚きに固まるが、彼の動きは、それで終わらなかった。
「グゥッ、オオオオオォォォォォォォォォォォオ……ッ!」
ジュンは何と、自分が突き刺して開けた傷口に、自分の右手を突っ込んだのだ。
それを目の当たりにして、スズリカだけでなくアキラ達まで驚く。
「オイオイ、マジかよ」
「何てことするのよ、あの子……」
体を激しく痙攣させて、食い縛った歯の間からも血を流し、ジュンは、彼は、
「ゥゥゥゥゥゥゥゥゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォッ!」
自分の心臓を右手でもぎ取って、傷口から引きずり出した。
胸に空いた大穴から再び血が噴き出して、足元に大きな血だまりを作っていく。
「ぁ、ぁあ……」
その光景の凄惨さに、スズリカは堪えきれずにその場にへたり込む。
だが、彼女の居場所など、もう、どこにもない。これはジュンとスダレの物語だ。
「スダレ……」
今もドクンドクンと脈打ち続ける心臓を、ジュンはスダレに差し出した。
「僕は君に、僕の心を捧げるよ」
「ジュン君――」
「そして誓うよ。僕はもう、喜び以外の感情で、君を泣かしたりしない。二度と」
そしてスダレは、彼が捧げてくれた心臓を、両手を伸ばして受け取った。
温かい、命の熱に満ちている。それはまさに彼の心そのもの。
手に挟んだ彼の心に顔を寄せ、スダレは静かに優しくキスをする。命の味がした。
「うん。今回だけは、許してあげるよ」
「ありがとう、スダレ」
ニッコリと、お互いに笑い合う妻と夫。
そして呪縛から解き放たれた夫が、笑顔のままその場に倒れ伏した。
「ジュン君、少しだけ待っててね」
まだ温かい夫の心臓を心からいとおしげに抱きしめて、スダレは深く身を丸める。
そして、その周囲に、見えない力が渦を巻き始める。
「ああ、おまえらはもう、終わりだよ」
何が起きるかを悟り、アキラは笑った。
「しかしすげぇな、ジュンのヤツ。あそこまでできちまうとはな」
「バカねぇ、ジュンさんはスダレが選んだ旦那さんよ。あれくらいはやるわよ」
「そうか、そうだな」
ミフユの言葉に、アキラも笑う。
一方で、ジュンを失ったスズリカは、それどころではない。
「何で、どうしてよジュン。何で、何で……!? それに何、これは何なのよ!?」
赤い風が吹きすさぶ。
スズリカと、そしてソウジが見ている前で、血風が渦を巻いている。
「こ、これは……ッ!」
圧倒的に強大な存在感に震え上がりながら、二人は見た。
その右手に赤い光を宿した宝玉を掴む、いと高く尊き彼女の姿を。
今、スダレ・バーンズは己の『真念』に到達した。
「異能態――、『摩訶毘盧遮那』」
禍々しくも神々しき、鮮血の色をした女神が、ここに顕現を果たした。