第188話 事件発生、そのとき妻は
まるで、時が止まったかのようだった。
「……え?」
全てが止まった中で、スダレの呟きだけが動きを伴って空間に溶けていく。
彼女の瞳は確かに捉えていた。
部屋のリビング、その真ん中辺りで、確かに男女が抱きしめ合っている。
男の方は背を向けているが、背格好と髪型からわかる。
夫だった。夫の、八重垣淳。
女の方にしっかりと腕を回して、抱き寄せ、抱きしめている。
そして女の方も、彼に腕を回して確かに抱き返していた。
女の方は、中背の、スーツ姿の女だった。
最初はまとめていただろう髪の毛は今は降ろされている。背中に届く程の長さだ。
顔は、よく見えない。
夫の背中越しに顔の一部が垣間見えている。切れ長の、怜悧な印象の瞳。
「……ぇ、え? ……何で?」
心の中に渦巻く疑問が、つい、口に出てしまった。
愛する夫。自分を愛してくれている夫。自分を、愛してくれているはずの夫。
それがどうして、別の女と抱擁をしているのか。
理由を考えようとして、だが、意識がそれを拒む。理由なんて知りたくない。
とても、信じられなかった。
そして、信じたくなかった。
だけど、信じるしかなかった。
自分の夫が、知らない女と抱きしめ合っている。
目の前にある、変えようのないその光景こそが全て。あるべき事実なのだ。
それを理解したとき、止まっていたスダレの体が震え出した。
周りに誰もいない、雪と氷の大地に独り投げ出されたかのように震えた。
奥歯は噛み合わずにカチカチなり、唇も色を失った。
何で、どうして、どうしてこんな――、ゆっくりとかぶりを振る。
すると、夫と抱きしめ合っている女が少しだけ顔をこっちに見せて目を細めた。
それはまぎれもなく、自分こそが勝者だという優越の笑みだ。
叩きつけられた。差を。
見せつけられた。仲を。
そしてここで初めて、女は今さら気づいたように口を開く。
絶対の勝利を確信した声で、
「……あら、どなた?」
スダレは思い知った。
今、この場では、自分こそが異邦人。異物。いらない存在なのだ、と。
そして彼女はそのまま力なく、部屋を出ていった。
――などということは、特にありませんでしたッッッッ!
上記の『などということ』の範囲は、この話の一行目からここまで全部である。
いや、抱きしめ合っているのだ。
確かにジュンと女は、互いをしっかりと抱きしめてはいる。
それを見て、スダレとて平静でいられるはずもない。
驚いたし、様々な想いがその身と心を駆け巡った。しかし――、
「とりあえず撮るねぇ~」
最初にやったのは、スマホを使っての写真と動画の撮影だった。
彼女は探偵。情報を扱うことを生業としている。
その彼女が先入観に囚われて安直な判断をすることなど、ありえないのである。
「え~っとぉ、時間は夜の九時三十六分でぇ~す。場所は東京都――」
映像を証拠として残すべく住所を言い出すスダレに、女は奇声を発した。
「ちょっ、ちょちょ、ちょっとォ!? ま、待ちなさいよ、あなた!」
「記録者はスダレちゃんでぇ~す。以上、録音終了~。で、何か呼んだぁ~?」
住所を録音し終えて、動画撮影をやめたスダレに、女が大きな声でがなり立てる。
「何を冷静な……、今、私と彼が何をしてるか、わかってるの!?」
「わかってるよぉ~、既成事実を作ろうとしてる真っ最中だったんだよねぇ~」
とんでもないことを言いながら、スダレはヘニャリと笑う。
「ジュン君は~、気が小さいのでぇ~、近くで大声を出されるとすごくビックリするんだよ~。でも、今は全然反応してないよねぇ~。……お酒、飲ませたでしょ~?」
スダレの指摘に、女がピクリと身じろぎする。
ジュンはいわゆる『下戸』だった。極端に酒に弱く、すぐ潰れてしまう。
毎度毎度、東京に行った際に飲み会に関する愚痴を聞くのがスダレの仕事だった。
そんなスダレは、逆にザルとかうわばみとか呼ばれるたぐいだったりするが。
「ふぅ~ん、そっかぁ~。ジュン君を飲ませて、酔わせて、ここに連れ込んで、色んなことしちゃう気だったんだねぇ~。わぁ~、ズルいこと考えるなぁ~」
「ま、待ちなさい。それは勘違いよ。私は、彼をここに連れて帰ってきただけ。そうしたら、淳さんが抱きついてきたのよ。……別にいいでしょう、夫婦なんだから」
……おや、何か変なことを言い出したぞ、この女。
「えぇ~、あなたってぇ、ジュン君の奥さんなのぉ~」
「そうですよ。あなたは夫のお知り合いなのかしら。それだったら、ちょっと非常識なんじゃないですか、こんな時間に勝手に人の家に上がり込むなんて……」
ジュンに抱きしめられたまま、女は憤りをあらわにする。
しかし、スダレはあくまで己のペースを崩さない。
「わかったぁ~、じゃあ、明日ジュン君の戸籍謄本、取り寄せるねぇ~」
「…………は?」
目が点になる女。
スダレはフニャフニャしながら続ける。
「あなたが奥さんだなんて、ウチ~、信じられないからぁ~。戸籍確認しようねぇ~、あなたもちゃんとついてきてねぇ~。本当に奥さんならぁ、できるよねぇ~?」
「な、ま、ま、待ちなさいよォ!」
「やだぁ~、待たないぃ~、だって――」
スダレが手を伸ばし、ジュンを強引に引っ張って自分の方へと寄せる。
「ジュン君はウチの旦那さん。他の女が女房面するなんて、許せるはずないし?」
「な、淳が、あなたの……!?」
「そうよぉ~。だからあなたの嘘、一発でわかっちゃったぁ~、総務の百合岡さん」
スダレが告げた名に、百合岡と呼ばれた女は目を大きく見開く。
「な、何で……!?」
「ジュン君が勤めてる会社のぉ、総務の、百合岡涼香さん、だよねぇ~? ジュン君が見せてくれた結婚前の社員旅行の写真見て、覚えてたぁ~」
「写真、って……」
涼香は絶句するしかなかった。
口から出まかせをするにも相手が悪すぎる。スダレは、情報分野における怪物だ。
「へぇ、ウチが遠くにいるのをいいことに、ジュン君に悪いことしようとしたんだぁ~? それで、ジュン君の気弱さにつけこんで強引に付き合おうとしたんだねぇ~」
「な、何をそんな、言いがかりよ! 彼が酔い潰れたから、連れてきただけよ!」
涼香が、これまでの主張を捨てて、そんなことを言い出した。
しかしスダレは目を細めて笑みを深める。その顔は、涼香には不気味に映った。
「あのね~、おスズちゃんさぁ~」
言って、スダレは自分のスマホを涼香に示した。
「ウチがここまでの会話、録音してないと思ったぁ~?」
「は……?」
「さっき動画撮影したときぃ~、録音用のアプリも起動しておいたんだぁ~。おスズちゃんのこれまでの発言もバッチリ録音済みだよぉ~」
涼香の顔色が、みるみるうちに青ざめていく。
それを見て、スダレは表情を変えないが、ジュンをまたグイと引っ張った。
「あ……ッ!」
不意を衝かれた涼香の腕から、淳が完全に引き離される。
そして彼はスダレの腕の中に。見ると、顔が真っ赤になって目を回している。
「あ~ぁ、ひどいんだぁ~。え~い、『全快全癒』~」
「…………ふぇ?」
スダレの完全回復魔法により、潰れていたジュンの顔から赤みが消える。
「あ、あれ……? あれ、スダレ? あれ? 何でここに?」
「会いたくなっちゃってぇ~、来ちゃったのぉ~」
「え、そうなんだ! 嬉しいなぁ! 僕も会いたかったよ~!」
そこで、改めて熱い抱擁を交わす八重垣夫妻。
そしてそれを眼前で見せつけられる、肉食系女子の百合岡さん。
「淳!」
当然、そんなモノを見せられれば、キレてしまうワケで。
「あれ、百合岡、さん……?」
そこでジュンは初めて涼香に気づいたように、目をパチクリさせる。
「おスズちゃんがぁ~、よっぱっぱになっちゃったジュン君を部屋に運んできてくれたんだよぉ~、優しい人だよねぇ~。ほらほらぁ、お礼しなきゃ~」
「あ、うん。そうだね。ありがとうございます、百合岡さん」
お礼を言ったのち、ジュンは首を傾げた。
スダレの耳に「お酒なんて飲んだっけ……」という彼の呟きが聞こえてくる。
「……八重垣さんの奥様、お名前をお伺いしても?」
頬を引きつらせ、涼香がスダレに尋ねる。
いつも通りの脱力しきった顔で、彼女は朗らかに答えた。
「ウチは八重垣簾だよぉ~。よろしくねぇ~」
「すだれ、簾……、そう、あんたが……」
そして涼香は、スダレのことをキツく睨みつけてくる。
「――諦めないわ」
最後にそう言い残して、涼香は部屋を去っていった。
そうして二人きりになったあとで、スダレはジュンに向かって切り出す。
「ねぇ、ジュン君」
「何、スダレ。どうかした?」
「今日から何日かぁ~、こっちにいてもいいかなぁ~?」
「え、仕事は?」
「開店休業という名の実質閉店~」
驚くジュンに、スダレは近づいてそっとしなだれかかる。
「一緒にいたいの……、ダメ?」
「いいに決まってるだろ!」
「わぁ~い。ジュン君大好きィ~」
「でも、平日の仕事中は相手できないよ。ごめんね?」
「いいよぉ~。押しかけたのはウチだも~ん。都内観光でもする~」
そう答えるスダレの脳裏には、さっき出ていった涼香の顔がくっきり残っていた。
女の勘、もしくは探偵の直感が告げている。
あの百合岡涼香という女には、きっと何かがある。
それを確かめるまでは、スダレは宙色市に戻るわけにはいかなかった。
「あ、そうだ、これからお風呂入れるけど、どうする。一緒に入る?」
「わぁ~、入るぅ~~~~!」
刹那、涼香のことなど頭から消し去って、スダレはパンと手を打った。
八重垣夫妻は新婚夫婦。
まだまだ、ラブラブな時期なのであった。




