第187.5話 夫婦の危機はここから始まる
家族と話しているうち、スダレはいてもたってもいられなくなった。
夫に会いたい。その一念が、心の中に激しく燃え上がる。
スダレ・バーンズこと八重垣簾はズボラである。
家事も、やればできるクセに、自分の探偵事務所は最低限しか片付いていない。
自分はそれで構わないし、客ももうほとんど気にしていない。
スダレの事務所に来る客は、家族を含めほとんどが知己だ。
彼女は、探偵としては国内どころか世界でも随一の実力を持つ。
しかし致命的に宣伝が下手なため、その実力を知る者は非常に少ない。
知る人ぞ知るの極致。
それが、女探偵八重垣簾の現状であった。
さて、そんなスダレが健康ランドを出たのは夕方頃の話であった。
そして彼女はそのまま駅に向かい、着の身着のまま、電車に飛び乗った。
――ジュン君に会いたい!
胸の中に燃え盛るその想いが、彼女を考えなしの行動に駆り立てた。
なお、夫にはまだ連絡していない。わざわざ仕事の邪魔をするつもりはなかった。
邪魔をするつもりはないが、それはそれとして会いたいのだ。
こういうときのスダレの突発的な行動力は、アキラすら目を瞠るほどだ。
電車に揺られて、県内でも有数の大きな駅へ。
そこから新幹線に乗り換えて、一路東京を目指す。
「お土産はァ~、ウチ~、なんちゃってぇ~」
この新妻、ウッキウキである。
そう、スダレはまだ時期的には新妻と呼んで差し支えない。
何せ、結婚してまだ二年も経っていない。
スダレがこちらの世界に『出戻り』したのは去年の二月のこと。
日本に『出戻り』する者の常として、スダレは一度『非業の死』を遂げている。
しかもそれは、彼女の家族関係に非常に密接にリンクしている。
ありていにいえば、スダレは殺された。
しかも、自らの家族である父親に。犯されかけ、抵抗し、殺された。
彼女の父親は割と早い時期からスダレを『女』として見ていた。
仕事はできるのだが、女関係にだらしなく、浮気を繰り返すような男だった。
そして、母親はそんな彼に愛想をつかし、自分も浮気をして出ていった。
スダレが高校に入る前のことだ。彼女は母親に捨てられた。
この時点で、スダレはすでに十分に『女』としての色香を手に入れていた。
女好きの父親が、それを見過ごすはずがない。
高校入学辺りから、スダレは常に父親のいやらしい視線に晒されてきた。
しかし『出戻り』前のスダレは内気で、人と話すのが苦手だった。
それも全て、父親への恐怖を原因とする軽い対人恐怖症によるものだった。
実の父親。
それは、八重垣簾――、旧姓、牧村簾の人生に常に暗い影を落とした。
母親に捨てられ、他に兄弟もなく、祖父と祖母は父親の味方。
その性格から友達と呼べる存在もなく、スダレは一人で父親の視線に耐え続けた。
着替えているところに部屋に入られる。
風呂に入っているところを堂々と覗かれる。
そんなことはしょっちゅうだ。
どれだけ我慢を重ねたか。どれほどストレスを抱えたか。
死にたいと思っても、それを実行できる勇気もなく、彼女は日々を過ごした。
転機が訪れたのは、スダレの就職が内定したことだった。
父親と離れたいがため、わざわざ遠く離れた場所にある企業を選んだ。
元より成績がよかったスダレは、事務職としてその企業から内定をもらえた。
これで父親と離れられる。
そう思って準備を進め、大学卒業を目前に控えた二月、彼女は父親に襲われた。
夜、寝ているところに父親が覆いかぶさってきた。
そして男の形をしたけだものは、安い愛の言葉を囁き、スダレを犯そうとした。
もう、限界だった。スダレはそのとき、初めて父親に抵抗した。
激しくもがき、暴れるスダレに、父親は逆上した。
そして彼女を殴った。言うことをきかせようと何度も殴りつけた。
だがそれでもスダレは諦めなかった。
もうイヤだった。もうこれ以上、この男に支配され続けるのは、イヤだった。
そして、父親に首を絞められた。
ギリギリと、男の強い力に細い首を締め上げられて、スダレは死んだ。
意識が闇に落ちる直前、スダレが最後に見たのは、父親の怒りに歪んだ顔だった。
――こうして、牧村簾は『出戻り』し、スダレ・バーンズになった。
目を覚ましたとき、そこに父親はいなかった。
スダレは早速、己の異面体を使って事情を調べ、父親の逃走を知った。
追おうとは思わなかった。
というか、興味すらなかった。彼女はアキラとは違い、仕返しに固執しない。
それからスダレは荷物をまとめて家を出た。
父親に関わるのも面倒くさかったので、企業の内定もばっくれた。
それよりも、情報だ。知りたいことが山ほどある。
異世界での人生を経て、スダレは情報フェチ化していた。
元より、彼女は強い好奇心を持っていたが、それを父親に抑圧されていた。
一度死を迎え、異世界に転生した際、それが強く発露して今の彼女になった。
すでに成人していたスダレは元々住んでいた場所から二つ隣の宙色市に移った。
そしてそこで登録を終えて、探偵事務所を開設した。去年の三月のことだ。
夫である八重垣淳ことジュン・ライプニッツとの出会いも、まさにその頃のこと。
彼は、探偵事務所にやってきた最初の客だった。
仕事の内容は、趣味の歴史探索に関するちょっとした調査だった。
それって探偵に頼むことかな。
と、思いながらも、知らないことを知れるので、スダレは喜んで引き受けた。
そこからちょくちょく、ジュンは依頼をしてくるようになった。
ぶっちゃけ、事務所開設から半年はジュンからの依頼しかなかった。
事実上、この時点でスダレはジュンに養ってもらっていたようなものだ。
そんな二人の仲が具体的に進展したのは、出会って半年が過ぎてからのこと。
いつものように事務所に依頼に来た彼をスダレは出迎えようとした。
その日のジュンは、どういうわけかカチコチに固くなっていた。
そして依頼の話を終えて、スダレがそれを引き受けたところで彼は言った。
「ごめんなさい、好きです!」
インドア派でちょっとコミュ障なジュンの、一世一代の告白であった。
スダレが、彼のことを好きだと自覚したのは、まさにその瞬間のことである。
「ウチも好きみたいぃ~、だから結婚しよっかぁ~」
まさかの逆プロポーズ。
これにはジュンも驚いたが、それではいけないと、今度はジュンからプロポーズ。
「好きです、簾さん。結婚してください!」
「はぁ~い。する~」
付き合うための告白が、一日経たずに結婚まで行ってしまった奇妙な事例である。
スダレの方に、男性への恐怖心がなかったワケではない。
やはり『出戻り』してもなお、心の奥底には父親に刻まれた傷が残り続けている。
そんなスダレがジュンの告白を受け入れたのは、結婚前の半年間があったからだ。
探偵と客という関係で過ごした半年で、スダレはジュンの人となりを知った。
趣味が合った。
波長が合った。
だから、スダレはジュンに好印象を抱いていた。
だが何より決め手となったのは、ジュンが『人を大事にできる人』だったことだ。
彼は、人づきあいがあまり上手ではなく、軽くコミュ障だ。
それはスダレも同じだが、彼女と違ってジュンは人との関係性を大切にする。
ただの探偵と客という関係でしかないスダレのことも、大事に扱ってくれたのだ。
スダレはそこに、異世界で共に過ごしたかつての夫の姿を見た。
あの人もまた『人を大事にできる人』だった。
つまりは当初、スダレはジュンにかつての夫を重ねていたということだ。
それが、ジュン自身に興味を持つようになったのは、いつのことだったのか。
さすがにスダレも、そこまでは自覚していない。
ともあれ、スダレとジュンは結婚し、今へと至る。
途中、互いに『出戻り』であることを知ったり、ジュンの単身赴任が決まったり。
順風満帆と呼ぶには山あり谷ありだったが、二人の仲は良好だ。そして、
『東京~~、東京~~』
スダレ・バーンズ、東京に到着。
さらに東京駅で乗り換えて、ジュンのマンションがある最寄り駅へ向かう。
ジュンは技術者で、現在は会社名義で借りてるマンションに一人で暮らしている。
スダレはそこに月に一度訪れているワケだが、突発で来るのは今日が初めてだ。
それだけ、姉妹の惚気にあてられてしまっていた。
ジュンに会いたくて会いたくて、どうしようもなくなっていた。
バーンズ家では変わり種に属するスダレだが、やはり彼女もまたアキラの娘。
愛する人には一直線。
その愛情は激しく、重く、大きく、鋭く、そして輝かしい。
「えへぇ~、来ちゃったぁ~、ジュン君驚くかなぁ~?」
時計を見れば、夜の九時過ぎ。
いつもなら、ジュンもマンションに帰っている時間帯である。
マンションは結構古く、オートロックなどの設備はこれからとのこと。
合い鍵はもらっているので、本当にジュンに黙って部屋に入ることもできる。
自分ではめったにしないスニーキングミッションに、スダレもドキドキだ。
彼女はマンションのエレベーターに乗って、ジュンの部屋がある階へと向かう。
エレベーターがついた。
それを知らせる、古めかしい『チーン』という音にスダレの心臓が高鳴る。
「ジュン君、何してるかなぁ~? ちゃんとご飯食べてるかなぁ~?」
何せ、スダレとよく似た夫のジュンだ。
趣味に没頭すると、寝食を忘れてしまうことがよくある。
スダレ自身はそれをあまり気にしていなかったが、伴侶ができると少し変わった。
やはり、他人のふり見て我がふり直せ、というのは真理なのだろう。
ジュンが趣味に没入する姿を見て、心配になってしまった。
それからは、一人のときはともかく二人のときは食事も睡眠もちゃんとしている。
今日も、もし彼がご飯を食べ忘れていたらちゃんと作ってあげないと。
ここは、新妻にして主婦である八重垣簾の腕の見せ所だ。
そして夫に褒めてもらうところを想像し、いつも以上にフニャッとなってしまう。
「ついた~!」
ジュンの部屋のドアの前まで来た。
中から小さく音が聞こえる。ジュンがいるらしい。
もう、無理だった。
心の全てが『ジュンに会いたい』で満たされてしまう。
「やっほぉ~、ジュンく~ん、来ちゃったぁ~!」
鍵を開けて中へ。
そして、ジュンがいるであろうリビングに突撃する。すると――、
「……え?」
そこには、女性と抱きしめ合っている愛する夫ジュンの姿があった。




