第165話 邇郎のハートブレイク:前
通常、空間的に隔離されている『異階』は現実に影響を与えない。
しかし、数ある『異面体』の中には、幾つかの例外が存在する。
例えば、シイナ・バーンズ。
彼女の異面体である『流賽瞳』は未来の可能性を知る力を持つ。
その出力は強大で、本体であるシイナにまで影響を与えている。
例えば、タクマ・バーンズ。
彼の異面体である『千甚使』は戦闘以外で万能の働きをこなす。
そしてその仕事の結果を、現実に反映することができる。
それらと同じように、ジルー・ガットランの異面体もまた、現実に影響を及ぼす。
彼の異面体の名は――、『楽来壕』。
隔離された『異階』を染め上げ造り上げられた、彼の研究施設そのものである。
そして、そこで造られた薬物もまた、厳密には彼の異面体の一部である。
ジルーは、その薬物の服用者に自らの五感を同調させることができる。
それが、彼が異面体の中にいながらにして、現実の様子を知れるカラクリだ。
ついさっき、アキラ・バーンズに見破られたが。
「く、来るのか……? バーンズ家が、ここに……」
全六階からなる研究施設ガクライゴウの一階、自身の生活用個室にて。
ジルー・ガットランは、椅子に座りながら色々と考えこんでいた。
普段であれば、このガクライゴウの中にいるだけで彼はニコニコしている。
ここは、錬金術師ジルー・ガットランの城である。
外からは決して入ることのできない、彼だけの空間。彼だけの領域。
収納空間を介して持ち込んだ器具や設備が、多数存在し、まさに理想の自宅だ。
食料も、収納空間を使えば幾らでも持ち込める。
外になど出る必要もない。
その気になれば、一年でも二年でも、ジルーはここで過ごすことができる。
大好きな薬品と、素材と、愛する実験体達。
それさえあれば彼は満足だった。
ガクライゴウの中にいる限り、彼の幸福は約束されていた。……はずだった。
「来るのか、来る? ここに? ど、どうやって……!?」
だが今、ガクライゴウの中にいながら、彼はその幸福を享受できずにいた。
アキラ・バーンズから宣告された。おまえを逃がさない、と。
ジルーは、アキラの恐ろしさを知っている。
異世界では絶対に出くわしたくない相手の筆頭格だった男だ。
かつてアキラは、ジルーのパトロンだった大商人を手にかけたことがある。
バルボ・クレヴォス。
千人の異名持ち傭兵を率いた、大陸西部の雄たる傭兵商人。
ジルーにとっては研究費を湯水のように使わせてくれた、いいパトロンだった。
バルボから依頼された魅了薬は、未だに最高傑作と呼ぶに相応しい自信作だ。
そのバルボが、アキラに関わって、自分が治める街ごと滅ぼされた。
バルボが殺され、娘のラーミュも殺され、そこに住んでいた二万人も全て死んだ。
この話を耳にした時点で、ジルーは決してアキラには手を出すまいと思った。
そう思っていたのに、見事に敵対してしまった。そして、先の宣告である。
アキラには何もしていないのに。
狙ったのはマヤで、その近くにいたタクマを追い詰めただけなのに。
どうして自分がアキラに狙われなければならないのか。理不尽。あまりに理不尽。
一度は、ガクライゴウの外に出て逃亡しようとも思った。
しかし一度現実空間に出れば、そのどこかにはアキラがいる。
それを思ったら、もうダメ。耐えられなかった。
結局、ジルーはガクライゴウの中に引きこもり続けることを選択した。
そもそも『異階』に入れる手段自体が、ごくごく限られている。
そこがまず、大きな壁として立ちはだかるはずだ。これが第一の安心要素。
さらに、もし仮に、まかり間違ってガクライゴウに入れたとしても、まだ甘い。
このガクライゴウの内部は全六階。いわば六層からなる意思を持った迷宮。
入り口は必ず六階、最上階から。
そしてジルー本人と、彼の最も大事な研究設備があるのが最下層の一階。
一階までの二~六階は、全てが外敵を排除するための機能を有している。
それこそ、ジルーの抱える病的なまでの『警戒心』が形をなしたものだった。
――金城鉄壁なる錬金要塞ガクライゴウの内部は、以下の通りだ。
まず、入り口がある六階。
異面体であるガクライゴウに入り口があるのは、もちろん、備えのためだ。
ジルーの度を越した『警戒心』が、この無敵の備えを構築した。
六階にあるのは、様々なデストラップがひしめくトラップゾーンだ。
ホテルのワンフロアを模した内部に、これでもかという数の罠が設置してある。
いずれも、引っかかれば即死必至の文字通りのデストラップ。
しかも、この罠は解くことができない。
異面体なのだから、通常の罠であるはずがない。
これらの罠は全て、生きている。そして、生えてくる。
ひとたび敵の侵入を感知したならば、その場に罠が『発生』する、理不尽設定。
まさに、必殺と呼ぶに相応しいだろう。
だがもし仮に、何かの手違いで侵入者が六階をクリアしたら、次は五階。
罠をくぐり抜けた先に待っているのは、無限に続く雪原地帯である。
空間的に閉ざされた無限領域内の全てが雪に覆われ、吹雪が吹き荒れている。
しかも、場所によっては落差100m超のクレパスもある、純白なる地獄。
四階に続く出入り口はあるにはあるが、それを発見するのはまさに至難。
ひとたび入れば、もはや死ぬ以外にはないであろう、おそるべき雪の牢獄だ。
この時点ですでに侵入者が辿る末路は決まったも同然だ。
だが、しかし、奇跡的な幸運をもって、この五階を抜けたとしたら、次は四階。
四階は、無限海底牢獄。
全てが海水に覆われた超水圧の領域。
上にも下にも左右にも、どこに行っても決して果てに辿り着くことのない空間。
そこにかかる圧力は、マリアナ海溝の底に等しい1平方インチ辺り約8トン。
人体など、即座に潰れて死ぬしかない。
単純。それゆえに難攻不落。
ジルー自身、思い出すだけで震えが来る極限の環境だ。
侵入者がここを破れるはずがない。絶対にない。
しかし、億が一にも等しい確率を打ち抜き、四階を攻略したなら、次は三階だ。
「ククク……」
三階のことを思い返して、ジルーは自然と笑った。
それほどまでに自信がある。三階だけは、何者であろうとも攻略は不可能だ。
何故なら、三階は太陽だからだ。
正確に記すならば、太陽の中心温度に等しい気温の、灼熱領域。
生物どころか、森羅万象あらゆるものが焼き尽くされるであろう、熱き死の世界。
ああ、何と恐ろしい。ダメだ。想像するだけで汗が流れる。
どれだけの能力、どれだけの準備、どれだけの装備をもってしても攻略は不可能。
死ぬ。絶対に死ぬ。跡形もなく焼き尽くされて死ぬ。死ぬ以外の選択肢はない。
ああ、侵入者達の何と哀れなことか。
錬金術師を捕まえに来たら、太陽の光に浄化される羽目になるのだから。
一応、それでも二階に続く出入り口はある。
あるにはあるが、これが何と大きさにして1ミクロンの空間の揺らぎでしかない。
探したところで見つかるはずがないし、見つけたところで通れない。
もはや、侵入者には死あるのみ。
三階こそは最悪にして最凶のデッドゾーンなのは間違いない。
しかしジルーにとっては、そこから続く二階が一番愛着がある階層だった。
そこは広いだけの空間だが、中にはジルーの実験体達が放し飼いになっている。
様々な実験の結果、人の領域をはるかに超えた能力を身に着けたいとし子達。
特に『再誕の赤』の実験に使った子達は、恐るべき能力を備えている。
中でも、やはり最高傑作は弓削清晴だった実験体だろう。
あれは凄まじい。異世界に存在した数多のモンスターを凌駕する能力を備えた。
人の頃から突出して凶暴だったが『魔血』を与えてからの変化がすごかった。
適合とは、まさにアレのことを指すのだろう。
あるいは今の清晴ならば、三階に放しても耐えてしまうかもしれない。
それほどの超生物と化してしまった。
これも『魔血』の性質あってのことだが、嬉しい誤算ではあった。
今や、清晴はこのガクライゴウを守る最後にして最強の守護者。
彼がいる限り、何人が来ようとも自分の安全は確保されたも同然だ。
そう結論づけて、ジルーは笑った。
何だ、アキラ・バーンズなど恐れるに足らずではないか、と。
彼は改めて、今の自分がどれだけ安全かを自覚する。
そうだ、このガクライゴウこそが、最も安全な場所。完全無欠の無敵要塞だ。
ここにいる限り、自分を脅かす者は決して現れない。
自分はここで薬物を調合し、外にバラまき、そして実験を続けるのだ。
「フフフ、クフフフフフフ……!」
大きな安心感が、ほどなく漲る自信へと変わって彼を笑わせる。
「フハハハハハハハハハ! アーッハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
勝利だ。
完全なる勝利。そして、完全なる安全。
「クハハハハハハハハハハハハハハハハ! 来れるものなら来てみろ、バーンズ家! フハハハハハハハ! ハァーッハハハハハハハハハハハハハハハハ――――ッ!」
ドゴーンッ!
とんでもない轟音と共に、ジルーの部屋の天井に大穴が空いた。
「…………ハ?」
途中で止まるバカ笑い。固まるジルー。
そして彼が見ている前で、穴から次々に人が飛び降りてくる。
「おっす。俺、金鐘崎アキラ!」
「おっす。わたし、佐村美芙柚!」
「おっす。オレ、グレイス・環・ガルシアだぜー!」
「おっす。俺、郷塚賢人だけど。え、この挨拶、何すか?」
と、いった調子で、降りてきた面々は次々に名乗りを上げていった。
それは言うまでもなく、バーンズ家の方々であった。
「ぁ、え……? ……え?」
固まるジルーを前に、アキラはガルさんを手に、ニコリと笑って言った。
「よぉ、錬金術師ジルー・ガットラン。俺が、仕返しに来たぜ」
その笑顔は、とびっきり邪悪であった。