第152話 彼、タクマ・バーンズの話
9月に入って、蝉の声が少なくなったように思う。
「ッたりめ~だよな~、夏は終わッたんだからッよ」
夜の天月市郊外。
そこで自動車を止めて待機していたタクマが、誰にともなく呟く。
さっきまで、車の中にいた。
適当につけたラジオを聞き流して、ボーっとしていた。
今は、車の外にいる。
急に煙草を吸いたくなって、火をつけたところだ。
煙草をくわえて息を吸いこむと、胸いっぱいにジワジワと熱が広がるのを感じる。
ああ、身体に悪いことしちまってるなぁ、と、笑いだしたくなる。
煙草を指に挟んで、口から離す。
そして煙を盛大に吐き出すと、それだけで気分が楽になる。
何だか、体の中に溜まってる悪いモノも一緒に吐いてる気になって。
もちろん、そんなはずはない。
むしろ悪いモノを余計に溜め込んでいるだけだ。
シイナに知られたら、絶対に叱られる。確証はないが確信はあった。
「ッたく、いッつも言ッてくッかんな~、シイナ姉はッよ」
異世界での日々を思い出して、タクマはケラケラ笑う。
だが、それもほんの数秒。笑いを浮かべていたその顔は、すぐに曇ってしまう。
「ッべ、考えねッようにしてたッつ~のによ~」
ダメだ。
意識しないとすぐに彼女の顔を思い浮かべてしまう。
――バーンズ家四女シイナ・バーンズ。
生まれた順番としては、自分の一つ前。
異世界では、年の差はちょうど一歳だった。こちらではあっちが六つ年上だが。
「ハハッ、そういや二十六ッかよ、シイナ姉。アラサーッじゃん」
本人が耳にしたら激怒確実な言葉をのたまい、タクマはまた笑う。
そしてまた、すぐに表情を曇らせる。
「あ~……、これダメだわ、俺……」
タクマは夜空を見上げて、額をピシャリと手で打った。
目をつぶれば浮かぶのはシイナの顔。目を開けていても考えるのはシイナのこと。
ダメだ、完全に参ってる。
今さらにっちもさっちもいかなくなってるのを自覚し、タクマは深々と息をつく。
あの日、8月の終わりにシイナに泣かれてから、ずっとこうだ。
それでも毎日の仕事を何とかトチらずこなせているのは、異面体の働きが大きい。
本当に、自分の分身ながら妖精さん達には頭が上がらない。
「まるッきりヒモかぁ、俺ァ……」
自分とは独立した自我を持つ妖精さんに食わせてもらってるヒモ。
案外間違っていないその考えに、ありがたいやら泣きたいやら。
「はぁ……。煙草、まっじぃ……」
言いつつ、新しい煙草に火をつける。
シイナとのことがあってから、煙草と酒の量が一気に増えた。
見つかったら叱られる。
それが怖くもあるが、シイナがこっちを向くのならいっそ見つかってしまいたい。
そんな風に考える自分に、本当に危機感を覚える。
「大丈夫か、俺……」
「何がだよ?」
「うぉ~ッと、びッくりしたッわ~!?」
声のした方を向くと、アキラ・バーンズがいた。
右手には真っ黒い剣鉈。ある意味、彼の相棒とも呼べる魔剣のガルさんだ。
「戻ったぜ~」
「おう、おッけ~り、父ちゃん。ガルッさんもおつかれ!」
『おうよ、労い感謝だわい!』
タクマがずっと待っていたのは、この少年傭兵の帰還だった。
アキラは、タクマの仲介を受けて表には出せない裏仕事を遂行していた。
本日のターゲットは、とある企業の部長を務める男。
依頼人はその部下の女性で、この男に弱みを握られて、身体を貪られた。
その恨みを晴らすのが、今回の仕事だった。
「どッよ、首尾はッよ?」
「バァ~カ、俺がトチるワケねぇべ~。しっかりあの世にご案内だよ」
ま、そこはタクマも別に疑ってはいない。
何せ目の前の少年は、世界最悪の傭兵アキラ・バーンズなのだから。
「クックック、今回の依頼の報酬で、いよいよ俺もスマホデビューだぜぇ……!」
「父ちゃん、まッだスマホ持ッてなかッたン? 今、令和ッだぜ?」
「うるさいよ、おまえもミフユも、人を未開の部族みたいに言いやがって!」
今どき、未開の部族だってスマホを持っている時代だ。
とは、言い出せないタクマだった。目の前で歯軋りする父親を見ていると。
「さッて、車乗ッてくれや。送ッてくからよ」
「あいよ~」
『俺様はちょっと寝るぞ。何かあったら起こせ』
「へいへい、ガルさんお休みっと」
魔剣鉈のガルさんが、アキラの収納空間の中にシュポンと消える。
そして場にはアキラとタクマだけになって、二人は車に乗った。
「出ッすぜ~」
タクマが車を発進させる。
それからしばし、車内ではどちらも話さず、ラジオの音だけが垂れ流された。
今やっているのはニュースだ。
政治がどうこう、外国が云々と、タクマにはわからない話をしている。
「なッ、父ちゃん」
「ん~? どした~?」
宙色市に向かいながら、タクマがかねてより言おうと思っていた話を切り出す。
「もしかしたらッよ、これッから依頼、増えッかも」
「へぇ」
助手席に座るアキラが、口元に軽い笑みを浮かべる。
「そりゃこっちもありがてぇが、何かあったかい?」
「あッたッて~か、今ッまであッたモンがなくなッたッつ~話でよ」
「何だそりゃ?」
「芦井組、消えたッしょ」
「ん? ああ」
その名を告げると、アキラが軽く眉を上げる。
芦井組は、古くから宙色市一帯をナワバリとしていた暴力団組織だ。
だが、アキラとケントが関わった一件で、急速に力を失い、少し前に解散した。
「芦井はッよ、宙色市を見張ッてた番犬でもあッたんよ。それがなくなッちまッて、今、外からヤッベェ連中が色々ッと入り込んでるッてワケよ」
「うわ~、笑うわ。完全に俺とケントのせいじゃん」
語るタクマに、アキラは本当に笑って言う。
だが、現状を招いたことに罪悪感など覚えるような父親ではない。
状況の変化。環境の変遷。
その程度にしか考えないだろう。
そしてそれは事実だ。アキラに責任があるワケではない。
ただ、この変化により宙色市が騒がしくなるかもしれない。というだけだ。
「なるほどね。ま、いいさ。仕事の斡旋に関しちゃ、タクマに任せるぜ。俺だと、そういう話に関われる機会がほとんどないからな。まだ小学生なモンでして!」
「クッソウケるッしょ!」
そして親子はひとしきり笑って、再び車中に沈黙の時間が訪れる。
次に口を開いたのは、アキラの方だった。
「――で?」
「んッ? 何ッよ?」
「おまえ、何に悩んでるんだ」
「…………」
ザクッと切り込まれて、タクマは思わず押し黙ってしまった。
「悩んでるよッに、見えッちまうか?」
「おまえは隠すの上手いけどな。今は何となくわかったわ」
ニヒヒと笑うアキラ。
そんな父親の横顔を見て、タクマの胸に込み上げてくるものがあった。
全てを、彼に話してしまいたい。そんな衝動に駆られる。
だが、シイナとのことは家族には秘密にする。
それは、異世界で生涯守り続けた彼女との約束だった。破るわけには、いかない。
「……ワリッしょ、父ちゃん」
「そっか、俺達には話せないことか」
フロントガラスの向こうを見据え、タクマは声もなくうなずいた。
謂れのない罪悪感が疼く。だが、シイナとの約束を破ることだけは、したくない。
「話せる相手は、いるのか……?」
アキラに、そう尋ねられた。
タクマはそれに、無言を返すことしかできない。
「いないのかよ。おまえ、抱え込みすぎるなよ? マリクじゃあるまいし」
「ハハ、マリク兄は抱えッすぎて爆発するッしょ。俺ッちはンなことできねぇッて」
「ま、そっか。おまえ、喧嘩できないモンな」
「なッさけねぇ男ッしょ?」
「バカ。人間なんてな、最低限、必要なときだけ戦えりゃいいんだよ」
必要なときだけ、か。
タクマは内心自嘲する。それすらも、自分には叶うかどうか。
戦うのは苦手だ。
自分のせいで誰かが傷つくかと思うと、胸が詰まって息ができなくなる。
人を殴ることなんて、怖すぎて自分にできるとは到底思えない。
それでも、必要に迫られたら自分は戦えるのだろうか。
わからない。そればっかりは、わからない。
「父ちゃんはッさ」
「ん、何よ?」
「誰が相手ンなッても、戦えるんッか?」
「さぁな?」
意外なことに、アキラはうなずかなかった。てっきり即答すると思っていたのに。
「相手が誰かにもよるさ。例えばミフユが相手なら、俺の負け。はい、負け負け」
「まッ、そらそーなるッしょ」
なるほど、確かに『相手による』。
「でも、俺や俺達をナメたヤツには、仕返し確定だな。ブチ殺すわ」
「俺らッを……」
アキラは、自分や家族の敵を許さない。それは非常に単純明快な答えだった。
そして何より、アキラらしい返答でもあった。
「家族……」
タクマは呟いて、思い浮かんだのは、やっぱりというべきか、シイナの顔。
「おまえにもいただろ、家族がよ」
「えッ、ぅ、ぅえッ!?」
見透かされた、と思って、変な声が出てしまった。
しかし、アキラが口に出したのは、シイナとは別の名前だった。
「ほら、一時期とはいえおまえは家族だったろ――、マヤとさ」
「……ああ、マヤ、か」
マヤ。
マヤ・ピヴェル。
異世界で、一時期とはいえタクマと夫婦だった女性だ。
だが、その婚姻関係は十年を待たずに破局し、最終的には離婚することとなった。
「別に、マヤ本人を探せって言うつもりはねぇけどよ、タクマ。おまえも一応は社長やってるなら、自分の家族になってくれる相手を探すのもありなんじゃねぇか?」
「ん、そッかもな」
と、うなずきはするが、それを考えても出てくるのはシイナなのである。
どうしようもなく参ってるなぁ、と、改めて自覚する。これ、少しヤバいのでは?
ちょっと思考を改めねば、と思うと、浮かんだのはかつての妻の顔。
マヤを思い出したのは、かなり久しぶりだった。自分でも薄情だとは思うが。
「今、なッにやッてんだろな、マヤのヤツッさ」
「案外、すぐ近くにいたりしてな~」
「やめッろよ、父ちゃん。普通にありえるんだからッさ」
「笑うわ」
そしてまた、車中に小さな笑いが起きる。
あるいは、これは予兆だったのかもしれない。
彼と、彼女と、彼女と彼を巻き込んだ、決別と決着の物語の始まり。
それの訪れを知らせる、風の便りだったのかもしれない。
――再会は、もうすぐ先のことだった。