第138話 シンラ・バーンズと金鐘崎美沙子の場合
8月30日、夕方。
その日、風見慎良ことシンラ・バーンズは、強い緊張をもって会社を出た。
夏の終わりも近く、日が暮れる時間も徐々に早くなっている。
そんな中、シンラは最近買った新車に乗って、一路目的の場所へと急ぐ。
本来であれば、ひなたをお迎えに行く時間。
会社が育児に理解のあるので、自分は毎日ほぼ定時で帰らせてもらっている。
これでも管理職だが、上司も部下も彼によくしてくれている。
勤め先に恵まれた。それが本当にありがたい。
ただ、今向かっている先はひなたを預けている保育園ではない。
今日は、ひなたはアキラとミフユにお願いしてある。
あの二人ならば、何ら不安なくひなたを預けることができる。
何なら、あの二人もひなたの『親』であるワケだし――、
「……む、いかんな」
運転しながら、軽くかぶりを振る。
アキラがひなたの『親』というところに考えが及び、ちょっと妬みの感情が……。
異世界ではともかく、こちらでは自分こそがひなたの唯一の親なのだ。
その自負が、今のシンラに異世界ではあり得なかった感情を抱かせる。
それも『出戻り』という存在の特殊性なのかもしれないが、で、妬んでどうなる?
もちろん、どうにもならない。
むしろマイナスしかない。自分にとっても、ひなたにとっても。
しかし、アキラはその辺り、気にならないのだろうか。
そんな風な考えも浮かぶ。
彼にとっても、ひなたは『娘』であるはずで、自分に対して思うことはないのか。
「……いや、あり得ぬか。父上であるがゆえ」
長男として、タマキと共に他の兄弟より長い時間をアキラと過ごしてきた。
その上での認識だが、アキラは、父親として理想的だ。
子供のことを愛しながら、だが、しっかりと距離感を考えてくれる。
家族を深く愛し、家族のために動くことができ、家族の判断を尊重してくれる。
アキラ・バーンズは傭兵で、契約は絶対だ。
彼は、家族よりも契約を優先する。でもそれでも、家族をないがしろにはしない。
どんなときでも、彼は自分達と対等に接してくれる。
そして契約の名のもと、自分の感情よりも家族を優先することもある。
風見祥子のときのように。
アキラは、家族のありのままを認めてくれる父親だ。
それもあり、シンラはひそかに彼に対し、憧憬とちょっとした妬みを感じていた。
同じく、愛する子を持つ父親になったからこそ初めて感じ得るものだった。
ただ、ありのままを認めすぎるのもどうなんだろう、とは思う。
例えば息子の自分が母親である美沙子と付き合うことに、アキラは何を思うのか。
「……何も思っておらぬのであろうな」
それは、確信を持って断言できる。
二人のことは二人のこと。
きっとアキラは、そう言うはずだ。そしてそれは本音だ。
あの傭兵の父親は、心底からそう思っている。
無関心でも放任でもなく、自分と美沙子への確かな信頼から。
あ、前の『美沙子』に対してだけは無関心だったかもしれない。過ぎたことだが。
考えているうちに、目的地に着いた。
そこは駅だ。そして、駅近くに待ち合わせている人物が立っているのが見える。
「遅れてしまい、申し訳ございませぬ」
「ハハンッ、なぁに、アタシも今着いたところさ。むしろいいタイミングさ」
「――で、あれば重畳にて」
待ち合わせた相手は、美沙子だった。
薄い白地の半袖のブラウスに、紺のひざ下までのキュロットという出で立ち。
シンプルだが、彼女が着ると特別にセンス良く感じられてしまう。
シンラは一度車を降りて、自らドアを開けて美沙子を中に乗りこませた。
その所作は洗練されているが、内心「これで正しいだろうか」とドキドキである。
「ありがとね、色男」
「本日の服装も、よく似合っておいでですぞ、美沙子殿」
「そうかい? 褒められると、やっぱり嬉しいもんだねぇ」
だが、美沙子が乗ったのは助手席ではなく、後部座席。
二人の今の距離がここに現れているといってもいいだろう。いつかは助手席に。
「仕事帰りかい?」
「然様にてございまする」
「いいね、仕事を終えた直後ってのは、そのときにしか見られない色が出るモンさ」
「そ、そうなのですか……」
それはもしかして、体臭とかそういうモノだろうか。
さすがに、ケアはしている。仕事終了直後、汗を拭き、香水はふり直したのだが。
「焦るこたないさ。別に悪い意味で言ってるんじゃないよ」
「それは、わかりまするが……」
「ハハンッ、イイね。その、アタシの前で少しでもイイ自分であろうとする姿勢」
ミラーの向こう側で、美沙子がニヤリと笑う。
値踏みされている。常に。それが、シンラの心を一層引き締めさせる。
「それで、今日はこれからアタシをどこにエスコートしてくれるんだい?」
美沙子を誘ったシンラだが、どこに行くかまでは伝えていなかった。
どんなサプライズをくれるんだろうね、と、美沙子も期待している様子だ。
「行き先は、到着次第わかりましょうぞ」
「焦らすねぇ。ま、楽しみにしておくさね」
二人は世間話に興じつつ、車は目的地へと向かっていく。
やがて、その場所が近づくと、美沙子が怪訝そうな表情を見せ始める。
車が走っているのは繁華街や都市部ではなく、どう見ても住宅地だ。
「シンラさん、ここは?」
「美沙子殿には見覚えがありましょう。天都原区にてございます」
そして、シンラは車を止める。目的地に到着したのだ。
二人は車を降りる。そして、そこにある景色を前にして、美沙子がつぶやく。
「シンラさん、こりゃどういうことだい?」
「詳しくは、中でお話いたしまする」
二人が前にしているのは、宙船坂家。
つまり、美沙子の前夫である宙船坂集の住んでいる家だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
チャイムを押すと、すぐに集が出てくる。
「やぁ、シンラさん。いらっしゃい、お待ち――、あれ、美沙子?」
出てきた集は、美沙子がそこにいるのを見て軽く驚く。
シンラは、集にはあらかじめ連絡を入れていたが、美沙子のことは話していない。
「お二人におかれましては、騙し討ちの如き所業、誠に申し訳なく存ずる。されど、此度は非常に重要な話でありますゆえ、是非とも同席していただきたく……」
シンラは、戸惑う二人に真っすぐ深々頭を下げて謝罪する。
美沙子と集は互いに顔を見合わせ、美沙子の方が軽く息をついた。
「いいさ、別に。アンタがそこまで言うなら、本当に重要な話なんだろうさ。それもアタシだけじゃなくて、元ダーリンも関わらざるを得ないような、ね。違うかい?」
「いえ、違いませぬ」
「そうですか。そういうことなら……。あと、頭上げてください、シンラさん」
集に言われ、シンラはようやく頭をあげる。
そして三人は家の中へ。集の案内で、彼と美沙子は居間に通された。
「アタシは、初めて来るね。ここは」
「そうだなぁ。君は美沙子だけど、美沙子じゃないんだよなぁ……」
「フフフ、そんなに不思議かい。元ダーリン」
「不思議というか……、そうだな、う~ん。複雑、かな」
「アッハッハッハ、なるほどねぇ!」
そこに交わされる元夫婦の会話を、シンラは無言で聞いていた。
そして、シンラと美沙子が座布団の上に座り、集が麦茶を出してくれる。
「これは、かたじけなく存ずる」
「いえいえ、市販のもので恐縮だけど」
そして一、二分、麦茶を飲んで息を落ち着かせて、シンラが切り出す。
「それでは、そろそろお話を……」
「はい。一体、どういうご用件なんですかね?」
居住まいを正す集と、シンラの様子を観察している美沙子。
シンラが仕事用のカバンから取り出したのは、何枚かの資料らしき紙束であった。
「お二人にこちらを」
「こりゃ、一体何だい?」
美沙子が目を落とすと、そこにはこう書かれていた。
『風見慎良と金鐘崎美沙子の今後の交際における日程スケジュール詳細案1』
最後に『1』がついている辺りが、何か趣深い。
「……シンラさん、これは?」
「はい。こちらは今後、余と美沙子殿との間で交際を進めるに辺り、周りになるべく影響を与えないよう考えた上でのスケジュール案と相成ります。周り、という部分につきましては、例えばひなたのお迎え、父上達の食事の都合などにございます」
シンラが説明している間に集と美沙子は、受け取った書類の中身を確認する。
そこにはシンラの生活スケジュール他、様々なデータが事細かに記載されていた。
ひなたの保育園の時間帯。
アキラとミフユの学校が終わる時間。
また、月の平均外食回数や、出かける頻度などもグラフ付きで載っている。
「ああ、そうかい。やたらこの辺りのことをきいてくるから何かと思ったら、アンタ、こんなモンを作ってたのかい。……頑張ったんだねぇ」
「これは、すごいですね。プライバシーの侵害に当たらないギリギリを攻めているというか、問われれば誰でも答える範囲のことでも、データが集まると壮観だなぁ」
舌を巻いている二人にシンラはお辞儀をして、その顔つきを仕事モードに変える。
「それでは、これより余と美沙子殿の交際スケジュールに関する提案と、その詳細についてのプレゼンを行なわせていただきまする。しばし、お時間を頂戴いたします」
「「プレゼン……」」
若干ヒキ気味の二人に対して、シンラは真剣な顔で告げる。
「まずは、2ページ目のグラフその2をご覧くださいませ――」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
シンラのプレゼンは、非常にわかりやすく、また、説得力があった。
提案内容について、どうしてそうなるのかも含めて、とにかく説明が上手い。
あとは、美沙子達が受け取った資料の書類も、内容がよくまとまっている。
グラフ一つをとっても、いちいちシンラの説明を補強し、説得力を増させている。
美沙子が幾つか質問をする。
集も同じように、疑問を覚えたところについて尋ねる。
それらにも、返ってくるのは納得するしかない返答。
疑問は消えて、理解は深まり、少なくないデータがすっかり頭に入り込む。
その上で、シンラは結論を述べた。
「――週に一度、二時間の確保。これが最善であると考えておりまする」
週に一度、二時間程度。
それがシンラと美沙子が交際を進める上で必要な二人きりの時間、ということだ。
「余と美沙子殿はご近所さんであり、また父上などの存在もあり、日常的に接する機会は非常に多いのですが、代わりに『二人きりで過ごす特別な時間』は現状、ほぼ存在致しませぬ。これは、交際を進める上では大きな弊害となりましょう。ゆえに、余と美沙子殿、双方にとって負担にならぬ程度を考えた結果、これくらいが妥当かと」
「よくもまぁ、ここまで考え抜いたモンだねぇ、アンタも……」
全ての説明を受け終えて、美沙子が感嘆のため息を漏らす。
テーブル越しに向かい側に座る集は、声もない様子だ。
「ひなたは未だ小さく、また父上も『出戻り』ではございまするが、小学二年生の身。我らは共に子を持つ親として、子を第一に考えねばなりませぬ。されど、子を全てとはいたしませぬ。今の余は、美沙子殿とのコトを真剣に考えておりまする」
「まぁ、それはよくわかったんですけど……」
と、ここで集がおずおずと手を挙げる。
「それを、僕にまで聞かせる理由は何ですか? お二人の付き合いに、僕は関わらないと思うんですけど。……すいません、ちょっと理由が見なくて」
「集殿におかれましては、今後、父上と会うこともございましょう。その際、余が提案するスケジュールと被らぬよう、今のうちに話を通すのが筋かと思いまして」
それを聞けば、集も「なるほど」と納得できた。
確かに彼は、今後もアキラと会うだろう。
そのときには、シンラと美沙子の都合も関わってくるかもしれない。
「僕にまで配慮してくれてるってことですか、ありがたいです」
「ハハンッ、そんなの気にせず、いつ会いに来ていいんだけどね、元ダーリン?」
「本当は夏のうちに行きたかったんだよ……。仕事が立て込みさえしなければ」
本当に残念そうに、集はため息をつく。
それを豪快に笑い飛ばし、美沙子はその肩をポンと叩いた。
「――本当は」
と、二人の様子を眺めていたシンラが、急に口を開く。
「本当は、集殿を巻き込むつもりは毛頭ございませなんだ。……されど、この資料を作るうちに、どうにも余の胸のうちに不安が膨れ上がっていったのでございます」
「不安、ですか……?」
不思議そうに首をかしげる集に、シンラは一秒弱逡巡し、告げた。
「集殿に、美沙子殿を奪われるやもしれぬ、という不安です」
「え……」
「そりゃ、また……」
このシンラの告白に、集も美沙子も、さすがに意外そうな顔をして驚く。
「頭では、わかっているのです。父上という繋がりこそあれど、お二人はすでに離別し、それぞれの道を歩んでおられる。その道は、もはや交わることはない、と」
「そう、ですね……」
集が、チラリと美沙子の方を流し見る。
「美沙子は『出戻り』して変わったけれど、それでも、僕達がまた元の関係に戻ることはないでしょう。きっと、二度とないです。美沙子もわかってるでしょうけど」
「……そうさねぇ。人はやり直しがきくとはいうけど、そうもいかないことだってあるモンさ。アタシと集さんの関係がまさにそれだよ。戻れないさ、もう」
「わかってはおりまする。……わかっては、いるのです」
血を吐くような声で、シンラはそう繰り返した。
うなだれさせた顔をなかなか上げられない。彼はきつく目をつむる。
「されども、どうにも不安を拭えずにいるのです。お二人のこなれたやり取りを聞くだけでも、その不安は大きさを増し、余を苛みます。だからこそ、余は――」
「僕をこの話に巻き込んで、僕に対して牽制をしたかった、ということですね?」
集の言う通りであった。そう、自分は集を警戒しているのだ。どうしようもなく。
そんな自分が汚く、そして小さく感じられて、シンラはますます恐縮する。
「どうぞ、お笑いくださいませ。余は皇帝となり『天にして地』などと称されながらも、その実態は斯様に器の小さき卑怯な男なのでございます」
「笑えるわけないじゃないですか、そんなの」
だが、集はきっぱりと即答する。
そう言われるとは思っていなかったシンラが、驚きに顔をあげた。
そこには、自分を真っすぐに見る、美沙子の元夫のまなざしがあった。
「何が卑怯なものですか。あなたは牽制だというけど、ちゃんと真面目に美沙子とアキラのことを考えてくれていて、しかもキチンと僕に対しても筋を通そうとしてくれてるじゃないですか。それの何を笑えというんですか、シンラさんは」
「あ、いや、しかし……」
シンラが言いかけるも、だが、美沙子が先んじて頭を下げてくる。
「悪かったよ、シンラさん」
「え、美沙子殿。一体何を……!?」
「これは、アタシの失態さ。アンタにはもっとしっかり、アタシと集さんが元には戻れないってこと、言っておくべきだったよ。アンタを不安にさせたのはアタシさ。だったら謝るさ。アンタはこんなにも、アタシ達のことを考えてくれてるのに」
美沙子は、シンラが作成した資料を手に取って示す。
そして彼女は、いつもは力強いその目つきを、優しいものに変える。
「これ、すごい嬉しかったよ。本当に、どこまでも配慮してくれててさ」
「……実を言いますと、その資料を作るに辺り、参考にしたのは父上でございます」
言うつもりはなかったことだが、つい、口から出てしまった。
「アキラを、かい?」
「お二人は御存じなきことでありましょうが、あちらの世界での父上は、実によき父にありました。その資料も、父上が同じ立場にあったならばどうするか、ということを念頭に置いて作成しました。あの方は、余にとって父親としての理想なのです」
そう、理想。あるべき父親の姿。
だから妬みもするし、いちいち意識もしてしまう。そして――、
「その父上を育てられたお二人もまた、余にとっては尊敬すべきお方……、だというのに余は、集殿に要らぬ警戒をしてしまったこと、ああ、何とお詫びすれば――!」
「いや、いいです。いいです。そういうのはいいですから」
肩を落とすシンラに、集は苦笑する。それから告げる。
「もし、それを悪いと思うなら、美沙子をよろしくお願いします。僕は今の彼女の友人にはなれても、夫にはなれないんです。こはシンラさんにお任せします」
「集殿……」
「あと、今度飲みに行きましょう。あっちの世界でのアキラの話、聞きたいです」
「それはやめた方がよろしいかと」
「あれぇ!? 何ですか、その鮮やかな手のひら返しッ!」
騒ぐ大の男二人を前にして、美沙子が明るく笑っている。
シンラと美沙子。
この二人の関係性は、その日、また少しだけ前に進んだのかもしれない。