第137話 ケント・ラガルクとタマキ・バーンズの場合
8月30日、早朝。
郷塚家のすぐ近くにある公園のグラウンドにて。
『――ラジオたいそ~、第一!』
テ~ンテテテレレレッテテ~ンテテ~ンテテ~ン!
青く晴れ渡る空の下、鳴り響く声、音楽。
そして、溌溂と手足を動かして朝からいい汗をかく、子供とおじさんおばさん達。
その中に、トレーニングウェア姿のケントとタマキの姿もあった。
実は二人、キャンプ以外では毎日ラジオ体操に顔を出しているガチ勢であった。
「今日も体操したー!」
ラジオ体操を終えて、タマキが元気に腕を振り上げる。
周りが汗だくの中、彼女は汗一つかいていない。ケントはそれが信じられない。
「ラジオ体操って、そこそこ運動強度高いはずなんだけどなぁ……」
「こんなの、準備運動にならないぜ! あ、おじちゃ~ん、スタンプくれ~!」
タマキが、スタンプの行列へと走っていく。
ケントは最後でいいやと思いながら、空を見上げた。
セミが鳴いている。
空は明るく、朝日が眩しいくらいだ。
しかし、そこまでの暑さではないとも思う。
今日はもう30日。明日で、夏休みは終わってしまう。
そんなタイミングで、何故タマキがこんな朝からケントの家の近くにいるのか。
「ケントしゃ~ん、スタンプもらってきた~!」
「お帰りなさい、おじょ……、何です、そのポケットいっぱいの飴とかお菓子」
「一緒に体操してたおじさんとかおばさんにもらった!」
「あんた、変にその辺の年代にウケがいいっすよね……。何でだ?」
「何でだろ? それより帰るのか~?」
「俺もスタンプもらってきます。そしたら帰ってやりましょう。宿題」
――そう、夏休みの課題のためであった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
マガコー、ヤベェ。
それが、タマキに出されている課題を見たケントの率直な感想だった。
ラジオ体操を終えたのち、二人は郷塚の屋敷に戻っていた。
そして今は、屋敷の中にある畳敷きの部屋に二人でいる。
そこでケントは、タマキから夏休みの課題を見せてもらったのだが――、
「……こんなひどい課題、見たことないっすね」
「だろ~? どれもこれもスッゲェ難しくてさ~! あそこの学校ひどいよー!」
「いや、お嬢。逆です、逆」
「ぴ?」
「何で高校生の課題に、小学生用の算数ドリルが出てるんすか!?」
他の教科についても概ね同じような感じで、
現国――、漢字書き取り帳(小学生用)。
英語――、ローマ字練習帳(小学生用)。
社会――、夏休みの絵日記(小学生用)。
などなど。
その豊富なラインナップに、ケントは軽く眩暈を覚えた。
これが――、これが仮にも高等と名のつく学校の夏休みの課題だというのか!?
「あの~、お嬢、マガコーって高等学校ですよね、確か……?」
「そーに決まってるだろ? 何言ってんだ、ケントしゃん」
と、タマキに首を傾げられてしまった。
そのキョトンとした様子は可愛いのだが、反応について納得がいかない。
「あのね、お嬢」
「な~に~?」
「この計算ドリルとか、小学生用なんですよ」
デカイ木製のテーブルの上に置かれたドリルを、ケントが指でトントンする。
それを見て、聞いて、タマキの顔に驚きが浮かぶ。
「え……ッ!?」
「わかりますよね? マガコーの高校の課題のおかしいところ」
「そう、だな……」
そこで、何故かゴクリと息を飲むタマキ。
「すごいな、最近の小学生。高校の勉強もしちゃうのか……!」
「違う。そうじゃない。そっちじゃない!」
どうして、発想がそっちに行くのか。逆。解釈の方向性が、完全に逆!
「…………まぁ、いいや」
そしてケントは、この部分についてはタマキに理解させることを諦めた。
何せ、ドリルも漢字書き取り帳もほぼ真っ白である。
時間がない。あまりにも時間がない。
今日は、ケントがタマキを家に呼んだのだ。彼女に課題をやらせるために。
なお、ケントの方の課題はとっくに終わっている。
彼は成績は悪くはない。中の上くらいだが、課題などは早々に終わらせた。
なので、本日はタマキの教師役である。
中二の彼が、高一のタマキの。
そこに不安を感じていたケントではあったが――、
「……この人は小学生だ。勉強についてはそう思って接しよう」
その固い決意を胸に秘め、彼は心を鬼にしてタマキに課題をさせることにする。
だが、それこそがケント・ラガルクの苦難の始まりであった。例えば、
「何で、2×2が10000越えるんですか!?」
数学上におけるどのような理論を使っても出るワケねぇ答えである。
「え、だって2と2が激しくぶつかて互いを高めて合っていったらそれくらいは行きそうじゃね? 10000じゃ低いかも! 1000000は行くって、絶対!」
「算数にバトル漫画のインフレを持ち込むんじゃない!」
叫んだのちに、ふと気になって、別の問題を指さしてみる。
「こっちの、1×10は?」
「多分、1の方が限界突破を繰り返して、10の方も限界突破するから10000000×100000000000くらいになるんじゃねぇかな……」
「答えを言えよ! 何で丸々別の問題に置き換わってるんすか!?」
「ひどいよケントしゃん! 1だって10だって、無限の可能性を秘めてるんだぞ! あ、そっか、わかったぞ! この問題、答えは∞×∞だァ!」
「どれだけ数が膨張しても問題のままなのやめろッ! 答えろって言ってんだよ!」
これはひどい。
開始十分、ケントは早くも心が折れかける。
ダメだ、これはあかん。
タマキの中では、算数ドリルが一大バトルスペクタクルロマンへと姿を変える。
こんなの、分数や少数が登場した途端、どんな新展開が繰り広げられるのか。
「わかりました、お嬢。まずは漢字の書き取りを――」
できることからやっていこう。
ケントは堅実にそう考え、算数ではなく国語から攻めることにした。
そこに、部屋の外から穏やかな女性の声が聞こえてくる。
「お坊ちゃん、お邪魔いたしますよ」
「ああ、吉岡さん。どうぞー」
戸を開けて入ってきたのは、使用人をしている壮年の女性、吉岡澄子だった。
冷たい麦茶とお茶請けのお菓子が載せられた木製のお盆を持っている。
「はい、どうぞ。十時のおやつですよ」
「ありがと~! のどかわいてたんだ~!」
タマキがのん気に言って、麦茶を受け取る。
「ありがとうございます、吉岡さん」
ケントも、礼儀正しくお礼を言った。
現在、この家の使用人は吉岡ただ一人だ。他の使用人は、暇を出された。
かつて、まだケントが『出戻り』をする前、家で唯一の味方出たのが彼女だ。
吉岡だけは、彼を人間として扱ってくれた。
ケントが人として堕落しきらずに成長できたのも、吉岡がいたからこそといえる。
そんな彼女が、空になったお盆を持ったまま、しばし二人のことを眺めた。
気づいたケントが「どうしました?」と尋ねると、吉岡は上品にクスリと笑って、
「いえ、まさかお坊ちゃんが彼女さんを連れてくるなんて思っていなくて」
そう言われて、ケントはハッとした。
そうだ、タマキがここにいるという状況。このシチュエーションは……!
――自分の彼女を、初めて自分の家にご招待しているシチュッ!?
「むぐッ……!?」
ケントが衝撃を受けると同時、タマキもまた食べていたお菓子を詰まらせた。
吉岡の一言によって、二人はそこに意識を及ぼしてしまった。
「それでは失礼しますね。何かあったら呼んでくださいね」
去り際も穏やかに、吉岡が部屋を出ていく。
そして残された二人の間に、これまでとは全く違う空気が漂い始める。
「…………」
「…………」
互いに俯いて何も言わない中、それでも、沈黙とは言い切れない気配が盛れる。
チラリと瞳を動かせば、そのタイミングもバッチリ一緒で、視線がぶつかる。
「…………ッ」
「…………ッ」
体を震わすのも同時、目を逸らすのも同時、ため息も同時、相手のため息に驚くのも同時。第三者がこの場にいれば、絶対に示し合わせたと疑われること請け合いだ。
それがわかってしまうだけに、余計に意識してしまう。
「……彼女、か」
「ひぐゥ……ッ!?」
思わず出たケントの呟きに、タマキがビクゥと身を震わす。
彼女は、背筋をきっちり伸ばして、とてもいい姿勢で正座をしていた。
「ここ、ケントしゃんの家、なんだよな……」
そして、そんな今さらなことを言い出す。
今さらなことだが、しかし彼女も気づいてしまったようだ。
ケントの家=彼氏の家。という衝撃的な事実に。
「ふぇぇ……」
頬は赤みを増して、漏れ出る声も弱くなる。さっきまでの元気さが嘘のようだ。
そんな、委縮しきったタマキの姿を見て、ケントはまたときめいてしまう。
――メチャクチャ可愛い。え、アレ、俺の彼女?
信じがたい事実だ。
まさか、高校に上がる前に自分に彼女ができてしまうなんて。
しかもあの子、見ての通り可愛いし、スゲェ強いんです。バカなところもお茶目。
そこまで考えて再びハッとする。今のは誰に対しての自慢なのか。
だけど自慢もしたくなる。だって本当に、心の底からタマキが可愛いんだから。
「…………」
「…………」
だが続く沈黙。重なる静寂。ケントはそこに危険性を見出す。
いかん、このまま沈黙が続くと、どんどん空想が妄想へと発展していってしまう。
そうするとどうなる。悶々となる。
悶々となるとどうなる。妄想の方向性が、マズイ方に舵を切る!
頭の中に思い起こされる、キャンプ場での記憶。
夜の洞窟で告白して、告白されて、抱きしめ合って、互いの熱を感じて、キ――、
「…………ッ!」
「ぴぇ!?」
いきなり自分の頬を平手打ちしたケントに、タマキが驚きの声をあげる。
だが、奇行に走ったケントだが、内心は平手の痛みで幾分冷静さを取り戻せた。
これ以上、あのときの記憶を思い返すと、いよいよヤバイ。
具体的には、絶叫しそうになる。照れと気恥ずかしさと、タマキの可愛さで。
「ケ、ケントしゃん、だいじょぶ?」
「え? あ、ああ、はい。大丈夫っすよ、お嬢」
心配そうにこっちを覗き込んでくるタマキに、ケントはそう返す。
そして思いつくのだった。
「「あ、呼び方」」
声は、完全に揃ってしまった。
「「あ」」
また揃った。
「「えっと……」」
またまた揃った。
「「…………」」
二人はまた声をなくし、互いに見つめ合う。
そして、噴き出したのもまた、同時。本当に仲がいい。
「何だよ、これ。マジ面白ェんですけど」
「アハハハハ、オレも~、今の面白かった~!」
凝り固まっていた空気が、それによってようやく柔らかみを増す。
二人は互いに笑いながら姿勢を崩して、楽な体勢を取る。
そして、話題は自然と、お互いの呼び方に関するものへと移っていった。
「さん付けはやめてほしいっすね~」
「ええ、そ、そう?」
「何か、さん付けって他人行儀じゃないですか?」
「む、それを言うならケントしゃんだってオレのこと、名前で呼んでくれない!」
見事に言い返されてしまう。確かにその通りだ。
しかし、二つの世界にまたがって『お嬢』呼びを続けてきたケントである。
もはやそれが普通になっているので、名前呼びの方がかえって違和感が生じる。
「あのときは、名前で呼んでくれたのに……」
タマキが不満げに唇をツンと尖らせる。しかし、ケントには心当たりがなかった。
「え、あのとき、って?」
「覚えてないのかよー! ドラゥルのとき、信じてくれてありがとな、ってさぁ!」
「あ」
言われて、思い出した。
そうだ。言った。
自分は目の前の少女に対して確かに言った。この子の名前を呼び捨てにした。
「ああああああああああああああああああああああ!」
瞬間、ケントは土下座する。
「すんません、お嬢! あれはチョーシに乗り過ぎました! マジですんません!」
「な、何で土下座するんだよ!? 違うから、そういうのじゃなくてさぁ!」
「そういうのじゃ、なく……?」
声を荒げて言うタマキに、ケントはそっと面を上げて問い返す。
すると、彼女はまた顔を真っ赤にして、彼からやや視線を外して弱い声で、
「……名前で呼んでもらえて、オレ、すげぇ、嬉しかった」
ズキューンッ!
と、恋の矢がケントの心臓を撃ち抜く音が確かに聞こえた。あかんこれ。
「え、えっと、じゃあ……」
ケントは改めて正座になって、タマキと向き合う。
「じゃあ、これから、名前で呼んで、いいですか……?」
「う、ぅ、うん……」
しどろもどろながらも言うケントに、しどろもどろながらもうなずくタマキ。
だが、ケントはここで彼女に交換条件を突きつける。
「その代わり、そっちも俺のこと、さん付けはやめてください」
「……ぅ、ど、努力する」
ほんの小さなタマキの首肯。そしてそこから、またしばしの沈黙。
今度のそれは、続けば続くほど加速度的に空気が重さを増すたぐいのものだった。
意を決し、ケントが口を開く。
「…………。……タ、タマちゃん」
ビクッ、と、タマキが震える。そして彼女も、重々しい雰囲気の中、返す。
「な、何だよ。…………。……ケ、ケ、ケン、きゅん」
うわああああああああああああァ――――ッ!
うわッ!
うわあああああああああああああああああああああああああああああああああッ!
ケント・ラガルクの脳内、現在、ビックバンにつき宇宙開闢中。
タマキ・バーンズも、もう耳まで真っ赤で、完全にのぼせ上ってしまっている。
「タマ、ちゃん」
「ケ、ケンきゅん」
「……タマちゃん」
「……ケンきゅん」
「タ~マちゃん……」
「ケ~ンきゅん……」
そんな調子で、二人はしばらくの間、相手の名前を呼ぶBotと化したのだった。
タマキの夏休みの課題? そんなの終わるワケないだろ!




