第112話 二日目/狩間湖/反則じゃないけどそれはないと思う
お願いじゃないじゃん。
それが、今という現状を目の前にしたケントの正直な気持ちだった。
「第一回! 狩間湖のちょっと先にある島まで遠泳レェェェェェ――――スッ!」
「「「ウオオオオォォォォォォォォォ――――ッ!」」」
謎の開催宣言をするアキラと、揃って騒ぐキャンプ参加者一同(真理恵以外)。
「ルールは簡単! この先、大体250mくらいのところにある小島、見えるか? 見えるな? アレだ、アレ。アレに最初に着いた人が勝ち! 以上!」
遠くに見える小島を指さして、アキラが熱を込めて説明する。
非常に簡潔であり、明快であり、それがために『その説明いる?』レベルだった。
「では、一回戦第一試合優勝決定戦! ケントvsタマキィ~!」
「待て待て待て、一回戦の意味がねぇっすよね、それェ!?」
まさに文字通りの最初からクライマックスじゃねえか!
そんな風に脳細胞全部を使って勢いよく叫びながら、ケントはタマキを見る。
「何すか、お嬢。これ何すか!?」
「水泳ッ!」
「競技名は合ってますね! だがそういうことじゃねぇ!?」
ケントと同じ疑問を、真理恵も持ったようだった。
やや理解できていない様子で、騒いでいる他の参加者に問いを投げかける。
「あの、これは一体……?」
「ハハンッ、気にしなさんなよ、刑事さん。そこのケントが昨日からちょっと元気なさげだろ? だからいっちょ、強制的に体動かさせる状況に追い込んだだけさ!」
「それは気にしないワケにはいかないのですけど!?」
真理恵は驚くが、しかし、美沙子の説明はケントにはスッと理解できた。
ああ、そうだ。
昨日からどうにもモヤモヤしっぱなしだ。
わざわざ機会を用意してくれたというのならば、素直に乗っかってしまえばいい。
ケントはようやく前向きになれた気がして、顔に笑みを浮かべる。
「いいですよ、俺、やりますよ」
「賢人君、いいの?」
「今は、体動かしたいんですよ。何も考えられなくなるまで」
グッグッと屈伸運動しつつ、ケントは真理恵に笑いかけた。
タマキも「さすがケントしゃん!」とニコヤカに言い放つが、説明は求める。
「で、結局、お嬢から俺へのお願いってこれなんすか?」
「そっ、それはッ!」
何故どもる。
「それもあるけどッ、その、あの、えーっぴょ!」
何故噛む。
「オレが勝ったら、オレに、あの、むむむ……! やるな、ケントしゃん!?」
何故恐れ入る。こっちは何もしてないよ。
「その、この勝負でオレが勝ったら、んと、その、え~……」
「お嬢が勝ったら、何すか?」
「勝ったら、オレの言うコトを一つきけ! オレが負けたら、ケントしゃんが俺の言うことを一つきく権利をやる! ……さぁ、勝負だケントしゃんッ!」
それ、勝負する意味、どこにあるんだよォ――――ッ!?
「……ま、いいか。もう深く考えないようにしよ」
実際、体を動かしたい欲求は強かった。
だったら、その欲求に従えばいい。
タマキが頬を赤くしてるから、また映画に連れてけとでも言うつもりか。
それくらいなら、別にいい。
もう、それどころじゃない経験を、昨日一日で山ほどしてしまった。
そういう意味では、ケントも多少キモが据わったかもしれない。
「あ~、ちなみにハンデがあります」
何故か大会委員長っぽい役を担っているアキラが、そんなことを言い出した。
「ケントは中二とはいえ男子、タマキは高一とはいえ女子、とかそんな区分には一切意味がありません。この中で、タマキだけは住んでいる界隈が違います」
ジャンルって何。どういうこと?
そりゃ、お嬢が飛び抜けて強いとは聞いてるけど、そこまでなのか。
「で、ハンデとしてはケントはクロールあり。タマキはクロールなしで、ケントがスタートした一分後にスタート、という形にしようと思います。それでいいか?」
「オレは構わないぜ~!」
タマキはニカッと笑って胸を張る。揺れる。ケントの目が釘付けになる。
「賢人君……?」
「あっ、真理恵さん、違うんです! そういうんじゃないですから!」
「ちょっと、男子ィ~。いやらしいですよぅ~!」
ここぞとばかりに批判してくる颯々。やっぱりな~、とケントは思った。
やはり彼女は、自分には当たりが強いように感じられる。もう何でもいいけど。
「で、アキラ。本当にそんなハンデでいいのか? お嬢も?」
普段『団長』と呼んでいる相手を名前で呼ぶのは、なかなかすごい違和感だった。
真理恵がいるための配慮だが、普通に考えれば自然な呼び方はこっちだろう。
「オレは構わないって言ったぜ、ケントしゃん! 正々堂々真っ向勝負だ!」
ビシッと指を突きつけてくるタマキに、アキラもうなずく。
「ああ、別にいいんじゃねぇか。やってみろよ、ケント。勝てるならな」
「わかりました。やってやりますよ!」
そうまで言われては、あとには引けない。いや、引くつもりは最初からない。
タマキの実力を見たことはないが、言うだけはあるのだろう。
しかし、競走の手段に水泳を選んだのが運の尽き。
そのとき、ケントには確かな勝算があった。彼は肺活量がかなり高いのだ。
これは、父親に水責めとかされていた頃の――、詳細は省くが、高いのだ。
結局のところ、水泳で速度を競うならクロール一択。
そして、如何に呼吸の回数を減らして、無呼吸でクロールし続けられるか、だ。
呼吸をすると、どうしてもロスが発生する。
無呼吸であればロスは発生せず、速度も上げられるのだ。
「……勝負後についてはそのとき考える。とにかく、勝つ!」
フン、と気合を入れ、ケントはチラリとタマキをチラリと覗き見る。
座禅を組んでいた。何でだ。
「精神集中。精神統一。精神統制。精神統合。心頭滅却。我、真理を見たり」
「何か、変なこと言ってる……」
そのうち、空中を浮遊しそうな気配すらあるんだが。
「勝つ。オレは勝つ。ケントしゃんに勝つ。必ず勝つ。絶対勝つ。勝つ。勝つ!」
「おおお、震えている。タマキの気に、キャンプ場が震えている!」
アキラがもっともらしい実況をつけるが、別に震えてはいない。
ただ、タマキの気迫がただらぬ域に達していることは理解できた。なるほどな。
――これ、俺が負けたらとんでもないこと要求されるパターンだッッ!
彼は気づいた。
気づいてしまった。
この勝負が、自分にとって絶対に負けられない戦いであることに、今、気づいた。
勝たねばならない。勝って、そして勝者の権利を振りかざす以外にはない。
グッと両手の拳を握り、ケントは静かに呼吸を整えた。
勝たねばならない。負けてはいけない。――今回ばかりは。今回ばかりは!
「なぁ~、ケント」
気合を入れているところに、アキラが話しかけてくる。
「何です?」
「ちょっと力み過ぎてねぇか、おまえ。リラックスしろよ」
と、言われても、勝たなければならないのだ。そうそう力みはとれない。
そんなケントの背中を軽く叩き、アキラは近寄って小声で言ってくる。
「おまえ、自分が死んだときのこと、どれくらい覚えてる?」
「は、何すか、いきなり?」
本当に唐突すぎる質問に、ケントは眉間にしわを集めた。
アキラは無言で答えを待っているようだ。仕方なく、ケントは記憶を思い返す。
「あ~、いや、正直あんまり。とにかくあんたが狙われてるのに気づいて、それで必死になって走って、間に入って――、そこから先は全然っすね~」
「そうか、そのくらいか……」
「一体、何なんです?」
「ただの世間話だよ。多少は肩から力も抜けただろ?」
「む……」
言われてみれば、少し気分が落ち着いたかもしれない。
死んだときの話をしてくるのも、死ぬ気で頑張れということだろう、多分。
「よし、そろそろ準備いいか?」
「はい!」
真っすぐ、ゴールの小島を見据え、ケントはアキラの言葉にうなずく。
そして、真理恵や皆が見守る中、アキラがスッと右手を上げ、緊張感が高まる。
「GO!」
声。合図。弾ける緊張。飛び出すケント。
「――ッシャア!」
かけ声と共に、目の前の湖に飛び込んだ。
「わ~、ケント君、がんばれぇ~」
「いいですねー、熱い戦いは期待できます! ビールが美味しい~!」
「ホンット、シイナ姉はそればッかだよなぁ……」
声が聞こえる。
バーンズ家の兄弟達の声だ。ケントがあっちの世界で会ったことがない子達だ。
正直、はじめは違和感が強かった。
自分の中でのバーンズ家の子供といえばタマキと、若と、あとは次男だけ。
まぁ、結婚数年でそれだけこさえるアキラとミフユもおかしい気がするはするが。
だが幾度か接するうち、感じるようになった。
この子達もやっぱり、あのアキラ・バーンズの子供達なのだ、と。
根拠はなく、空気というか、雰囲気というか、そういうものが似通っていた。
――考えているうちに、浮かんだのはタマキの顔。
「いや、勝つ。今回は勝たせてもらいますよ、お嬢ォ!」
強く叫び、浮かんだ顔を振り払ってケントは泳ぐ。
バタ足は膝ではなく太ももの付け根から、腕の旋回を素早く抜くことを意識して。
泳ぎ方は中学の水泳部の顧問からバッチリ叩き込まれている。
こういうときだけ、あの時代錯誤な熱血教師には感謝だ。
この勝負、断然ケントが有利だった。
最初からそれはわかり切っていた。
ここは湖で、海のように波がないから非常に泳ぎやすい。
と、なればあとは速度だけがものをいう。
そこにタマキのクロール禁止と一分間のハンデタイム。非常に大きいハンデだ。
勝てる。この勝負、必ず勝てる。
そしてタマキの無茶なお願い勝利者の権利で二、三段階引き下げさせる!
「タマキ、GO!」
「でぇりゃああああああァァァァァァァ――――ッ!」
ケントが勝利への確信を深めていた頃、一分経過、タマキがスタートを切る。
その直後、
「「「えええええええええええええええええええええええええええ!?」」」
観客全員、驚愕の悲鳴。
一方ケントは、もうすぐゴールの小島という地点にまで来ていた。
あとちょっとだ。
あと少しでゴールだ。自分の勝ちだ。あと、ちょっとで――、
「おらっしゃあァァァァァァァァァ――――!」
バビュン!
と、泳ぐケントの横を何かが通り過ぎていった。
その何かが見えて、ケントが愕然となってクロールを中断してしまう。
そして見た先で、タマキが水の上を走っていた。
「えぇ……」
声を漏らす彼の視線の先で、今、タマキが小島の岸にゴール!
「よっしゃあああぁぁぁぁぁぁ~~~~! オレの勝ちィィィィィ!」
地面に膝をつき、諸手を挙げて勝利の快哉を叫ぶ。
だが、一番近くでそれを見ていたケントは、やたら冷静な面持ちで思った。
――泳げよ。