不死鳥の卵2
そこは確かに夜の森である。
しかし、ユピの木の配置がフィニィの覚えているものとどうも違う。辺りの匂いもどことなく違和感がある。
夜の森は夜の森だが、フィニィたちの住む森ではない。
「夜の森は地上のあらゆる場所に根を広げている。夜の国を通れば、森から森へ移動することができる。遠くにある材料はこうやって取りに行け」
つまり、ここはフィニィが生まれた国とは別の、外国にある夜の森だった。
フィニィはまさか自分が国を出ることがあるなど、想像もしていなかった。どころか、男があの夜に火を放たなければ、主人の館から一生離れられないのだと思っていた。
住処以外の森でも魔女は勝手知ったる様子で進んで行く。
やがて、二人は夜の森を出た。
フィニィにとっては久しぶりとなる昼の世界。
空には薄紫の雲が浮かび、まだ夜明けの色をしている中に星々が瞬いている。
少し前まで見慣れていたはずの光景。しかし、フィニィはこんなに美しいものだっただろうかと思った。
星々の輝きはいつも冷たく、明日は誰にいたぶられるのか怯えて眠るフィニィを、無情に見下ろすだけであったのに。
今、見上げる星空はどこか優しい。
フィニィは胸いっぱいに朝の空気を吸い込んだ。
「フィニィ」
先で待つ魔女のもとへ走る。その足取りに危ういところはもうない。しっかりと地を蹴る力がついていた。
夜の森を出たところには、頂の高い岩山がそびえていた。
朝日はその山の後ろに隠れており、フィニィらのいるところは影になっている。それでも夜の森の中よりはずっと明るい。
二人は麓の岩場を探し、ちょうど良い具合に窪みになっている箇所に、草や小枝を集めて作られた鳥の巣を見つけた。
「む」
と魔女が唸ったのは、鳥の巣に鳥の姿がなく、かわりに一抱えほどもある大きな石が居座っていたため。
見事な正円の、灰色の石である。
「こいつも寿命だったか」
遅れて岩場を這い上ってきたフィニィに、魔女は石を示した。
「不死鳥も夜の王と同じだ。老いと若返りを繰り返す。不死鳥の場合はいったん卵に戻るんだ。この石のような卵を孵さないと羽が手に入らない。というわけでフィニィ、できるか?」
何が、と言えば、卵を孵せるかということだろう。
鶏のように温めればいいのかとフィニィが訊き返すと、「そのようなものだ」と魔女は適当に答えた。そして、「私にはできない」のだという。
ならばフィニィが卵の世話を請け負うしかない。
しかし石の卵はずっしりと重い。これではフィニィは持って帰れなかった。
「【浮き薬】を塗ってみろ。ただし塗り過ぎるなよ。空まで浮いてしまうからな。ひと塗りでいい」
魔女に持たされた魔法の薬のうち、二枚貝の容器に入った緑白色の軟膏をフィニィは人差し指で掬い、石の卵のてっぺんに塗りつけた。
するとわずかに石が浮き上がる。ついでにフィニィも風船のように地面を蹴るたびふわふわ浮いた。
そこで荷物を持たない魔女はフィニィがうっかり浮き過ぎた時に、引っ張り戻す係となる。
帰り道にも二人は岩山で鉱物をいくつか採取してから、また夜の国を通って自分たちの森へ戻った。
「――では卵を頼む。孵るまでは他に何もしなくていい」
洞窟に戻るや、魔女はベッドにフィニィと卵を置いた。
これからしばらく採取には行かなくて良く、卵を抱えひたすら寝ていればいいと言うのだ。
何もしないでいるというのは、働き詰めだったフィニィとしては非常に落ち着かない。
だが他にしようがないので、卵を抱いて横になる。哲学ネズミは枕元に寝かせておいた。
今日はずいぶん遠くまで歩いたせいか、横になると少し体がだるかった。
目を閉じれば夜の国で見た不思議な景色と、森の外の星空が瞼の裏を流れていく。
フィニィはいつになくゆったりとした心地の中、眠りの淵に落ちていった。
☾
異変は、寝ている間にフィニィの体を蝕んでいた。
ふと目が覚めると、たっぷり寝たはずが全身にだるさがあった。むしろ寝る前より増した気さえする。
泥のような睡魔が脳にまとわりついているのだが、なぜか目を閉じて再び寝入れない。そのせいで休みながら疲れてしまう。
ずっと抱いている卵はわずかに熱をはらんできているものの、まだ孵化には至らない。
「フィニィ。食べられるか」
食事は魔女が意識して定期的に麦粥を与えている。
はじめは自分でスプーンを持ち食べていたフィニィだが、疲労が増すにつれ億劫になってきた。
寝たまま顔を背け、食べなくて良いと態度で示す。しかし魔女は問答無用で粥を流し込んだ。
そこまでされても、食事量は日々減っていく。
椀の半分も平らげられなくなる頃には、フィニィはほとんど起き上がれない状態に陥っていた。
あちこちの関節が痛くて立ち上がれない。
一人では動けないから、糞尿もベッドの上で垂れ流しになる。
気づけば卵を抱く手に深い皺が刻まれていた。全身の筋肉が衰えたことで皮膚が垂れ下がり、顔など骸骨の形が浮き彫りになっている。
体の大きさは子供のまま、フィニィは急速に老いてしまった。
「灯が消える・・・情熱が、私を通り過ぎてゆく・・・あぁ――」
哲学ネズミがフィニィの抜け落ちた白髪を敷き布団にし、枕元でうわごとをぼやき続けている。
フィニィはもう、自分が何をしていたのかも思い出せない。ここがどこなのか、傍で頭をなでてくれている人が誰なのか、白濁した眼球では確認できなかった。
「フィニィ。口を開けろ。これなら食べられるか」
黒い人影が何か言っているのはわかるが、内容までは聞き取れない。
小さな銀色の影が頭の周りを飛んでいる気がする。そちらの声は高すぎて音としてすら認識できない。
麦粥のかわりに口に入れられた小さな実を条件反射で噛んだ時、歯がぼろりと取れた。歯茎が痩せ過ぎたのだ。
それに気づいた黒い影のほうが、窒息しないよう急いで歯と実を掻き出した。
――やがて、安らかな時がやってきた。
ある瞬間に突然痛みが遠のいた。
すべての感覚が曖昧になる中で、意識だけが浮き彫りになり、フィニィは忘れていたこれまでのことを思い出す。
同時に、終わりを自覚した。
腕に抱いた卵がひび割れる。
硬い殻を打ち破らんとする力強い振動が骨に伝わる。終わりゆくフィニィにかわり、それは鮮やかに蘇る。
石の卵から金色の鳥が生まれた。
優雅なカーブを描く長い首。金色の羽の先が紅をつけたようにほのかに赤い。豪奢な尾羽と冠羽には目玉に似た模様が入っていた。
地上でたった一羽の、不死の名を冠した鳥。
ほとんど目の見えないフィニィにもその輝きは感じられた。
できればもう少し眺めていたかったが、世界は容赦なく閉じていく。
すると、鳥が今静かに息を引き取ろうとしている小さな老人へ首を伸ばし、その身の内から生まれた光を口渡しした。
それがフィニィの腹の底まで届くと、朽ちかけていた命が蘇る。
『――エリトゥーラはどうしてフィニィを拾ったの?』
「別に。使いの者がいれば便利かと思っただけだ」
しばらくして意識が戻った時、聞こえたのは誰かと誰かの会話だった。
一人は、魔女だ。すぐにわかる。しかしもう一人は聞き慣れない。透き通った少女の声だが、彼女が喋るたびになぜか金属を叩くような奇妙な音が背後に聞こえる。
『母親が恋しいのかと思った。フィニィはユピに似てる気がする』
「人の顔の区別なんかつかないくせに」
『つくわ。アンテはエリトゥーラのお姉さんだもん。エリトゥーラの気づかないことにも気づけるの』
「言っていろ。――ん、起きたか」
ベッドに腰かけていた魔女が、あくびをするフィニィの額を優しくなでる。そこには先ほどまであった皺もシミもありはしない。
小さな老人となってしまっていたフィニィは、目覚めると元の六歳のフィニィに戻っていた。
髪は黒く歯も生えている。
目も見える。耳も聞こえる。やたらに関節や筋が痛んだりもしない。せいぜい、寝過ぎて手足が窮屈な感じがするだけだ。
「どこか痛むところはあるか? 体は洗っておいたぞ。臭かったからな」
そう言われても、フィニィは自分の身に起きたことがいまいちわかっていない。
ただそれよりもあることが真っ先に気になった。
「・・・えりとぅーら?」
魔女を指して尋ねると、大小の姉妹が同じ色の瞳をそろって瞬く。
「私の名だ。アンテの声が聞こえるようになったか」
その時、洞窟の入り口のほうから金色の鳥が飛来した。
羽を広げた雄鶏よりもやや大きいくらい。それが膝の上に留まったものだから、フィニィはいささか焦った。
石の卵から無事に孵った不死鳥は、上を向いて喉を小刻みに振動させたかと思うと、フィニィの手にネズミを吐き出す。
枕元に置いていたはずの哲学ネズミだ。彼はボロ雑巾のようになりながらどうにか生きていた。
『不死鳥はフィニィに感謝してる。ネズミはプレゼント、だって』
アンテが鳥の心を代弁する。
とりあえずフィニィはまた哲学ネズミを食べられないよう、上着の中にそっと隠した。
「不死鳥の卵は生き物から一定量の若さを吸収しないと孵らない。もしお前の若さが足りなければ死ぬところだったが、ぎりぎり間に合ったな。不死鳥は対象の状態を過去に戻す魔法を持っていて、孵った後には相手に若さを戻す。律義な奴なんだ」
すべてが済んだ後で魔女がやっと説明した。
またしても知らぬ間に死にかけていたフィニィだ。途轍もなく恐ろしい体験が全身に記憶され、今は元に戻れたことにただただ安堵している。
金色の不死鳥はフィニィの隣で羽を休めた。しばらく出て行くつもりはないらしい。
魔女がさっそくその尾羽を一本切り取ろうが、特に気にもしていない。
フィニィはアンテと後で不死鳥を棲みかまで一緒に戻しに行こうと約束し、まずはからっぽの胃に冷めた麦粥を流し込んだ。