フィニィの魔法3
夜が去り、朝がくる。
そしてまた、夕闇に一番星が灯る。
昼の陽が沈みゆき、夜の陽がのんびりと空へ上がる頃、灰黒色の城の片隅に小さな子供が現れた。
ほとんど何もない牢獄のような部屋の中。窓際のベッドに横たわっている人がいる。
フィニィは夜色の外套を脱ぎ、その傍へ寄っていった。
眠る男の冷たい額をなでてやる。
するとわずかに瞼が開いて、赤い色が見えた。
鉄の王はフィニィの姿を認めるや、ゆるやかに笑んだ。
「・・・お前は、人の死期がわかるのか? それとも、お前が死を運んでくるのか」
声はかすかで、口元まで耳を近づけなければ聞こえないほどである。
フィニィが最初に出会った時も、再会した今もグウェトは一人で死にかけていた。
以前は顔の右半分まで鉄に変化していたが、近頃その呪いが少しずつ解けてきて、鉄の体はまだらに元の血肉に戻りつつある。ただしスタラナの魔法に溶かされた右半身は、後から鉄を義手や義足として繋いだだけのためそのままだ。
心臓まで鉄に変じれば死ぬという呪いは、逆に言えばそうならぬうちは死ねないという呪いでもあった。
それゆえに、解呪が進むにつれグウェトは日々衰弱していく。
やがて夕陽の残光が消え、控えめな夜の陽がベッドに差し込んだ。
その金色の光がゆるやかに、鉄の体をか弱い人のものに戻していった。
「望みどおりの世界になったか?」
彼の傍にいるのは世界の在り方を変えたきっかけの子供。
この子のために国が滅び、この子の願いで陽が再生した。
そんな子供が何も言わず男の左手を握る。
哲学ネズミもフィニィの肩から下りて、男の親指を小さな足でぺたぺた触る。
ひとりぼっちの彼を子供とネズミだけが見守っていた。
「・・・そんなにも、お前は寂しいのか」
グウェトが手を握り返す。もうほとんど指も動かせず、以前のように痣が残るほど強く握ることはできない。
フィニィはグウェトに利用されても、裏切られても、彼の死ぬことが寂しかった。
眠いのだろうか。グウェトは一回の瞬きが長い。
何度目かに、もう目を開ける気がないのかと思うと、またわずかに開いた。
「・・・若人の王に伝えてくれ。咎人は、私だけだ」
それきり眠ってしまった。
フィニィは、しばらくじっと見ていた。
やがて夜の陽が動きベッドが影に隠れる頃、ようやく手を離し、哲学ネズミをフードにいれて夜色の外套を上に羽織った。
そのまま闇に向かって歩き出すと途端に周囲の物が消え、フィニィは夜を渡って今度は五色の宮殿の影の中に現れた。
ここも夜だ。
だが宮殿の王の間には明かりが灯っており、顔にヒビの入った少年王が玉座にあった。
「フィニィ」
二、三人の家臣と話していたのに、エンシオはすぐ部屋の隅に現れた子供に気づいた。歓迎の笑みを浮かべる。
フィニィは脱いだ外套を片手に引きずりながらエンシオの傍へいき、グウェトのことを話した。
「・・・そうか」
エンシオは驚かなかった。
額に当てた指先はまだ皮膚が剥がれたままで、螺鈿のような煌めきが揺らいでいる。
周囲にいる家臣たちも、目が一つ多かったり、尻尾があったり、体のどこかが以前と異なる。
世界が夜にすっかり呑まれた日からまだ何年も経過したわけではなく、夜の子になりかけた人々がどこにでもいた。
今はフィニィの魔法でつくられた陽によって、少しずつ夜の魔法を取り除かれ、元の彼らに戻る途中なのだ。
だが中には完全に夜の子となり、自分を失ったまま二度と戻れずにいる者もあった。
「――あの男は、善い者ではなかった。それでも、初めて私に気休めでない希望を与えてくれた人だった」
救われてほしかったと、エンシオは声なく漏らした。
彼は相変わらず昼は閉め切った部屋に閉じこもり、夜にこうして王の仕事をするしかないが、もう己の家族や民たちを妬ましく思わない。彼のためにつくられた夜の陽が新しい景色を見せてくれた。
できることなら鉄の王もそうであればよかったと思う。
エンシオは本音を零してしまった後で、フィニィを気遣った。
「知らせてくれてありがとう。私はまだこれからが仕事だが、お前は休んでいくといい。宮殿のどこでも好きに使ってくれ」
そして夜明けの前には庭で遊ぼうと誘った。
フィニィは頷き、しかし今は眠くないので、エンシオの仕事が終わるまで他の場所を回ることにする。
また外套をまとい、夜を渡った。
この外套は夜の王の髪を材料にして、最近魔法でつくったものだ。これをまとって歩けば、夜の中を好きな場所へ瞬時に移動することができる。
「うわ、びっくりした」
移動した先で、突然カウンターの下に現れたフィニィにレトが声を上げた。
そこで何やら作業をしていたらしい。
ランプが一つあれば十分な狭い小屋の中に、様々な魔法の材料が棚や机の上に所狭しと並べられ、真ん中の大釜が存分に場所を取り、寝床などは隅に寝袋がある程度。
ここは蹄の国に新しくできたレトの工房であった。
「いらっしゃいフィニィ」
カウンターの下から子供を引っ張り出し、レトは椅子の上の物を床によけてフィニィを座らせてやった。
「散らかっててごめんね。忙しくて整理してる暇がなくてさー。今日はどうしたの?」
フィニィは特に用があるわけではなかった。
近頃ようやく決心してアクウェイルの家から巣立ったレトの様子が気になっただけである。
他にも、魔法の国を出たのは彼だけではない。
薄い小屋の壁の外から賑やかな話し声がし、いきなり扉を開けて武装した男たちが入ってきた。
「ん。きてたのか」
扉を開けたのはゼノで、他にも魔法の国の兵士だった者たちが二、三人後ろにいた。それほど久しぶりというわけではないのだが、皆フィニィを見ると故郷の家族に会ったような顔をする。
「飯は食ったのか? フィニィ。あんまほっつき歩くなよ」
「お父ちゃん」
「黙れ」
ヤギ足の同僚にからかわれながら、ゼノも変わらずにいる。
フィニィの相手はそこそこに、カウンターへ液体の入った大きな革袋を置いた。袋の口からぷんと血の匂いがする。
「怯える者だったか? 言われたとおり血を採ってきた」
「あ、ほんとに出たんですね。ありがとうございます。ちょっと待ってください? 財布、財布は、と・・・」
レトは床に置いた鞄を漁り始めた。
昼と夜の狭間の呪われた兵士がいなくなったため、魔法の国の兵士たちはその役目を終えて今ではこの蹄の国で、夜の子相手の傭兵になっている。
もともと夜の森にいたものや、新たに増えた夜の子が世界中のどこにでもよく現れるため、どの昼の国でも夜の子と戦う力のある傭兵や探集者、そして魔法使いを強く求めるようになったのだ。
昼の人々は、新たな夜の子がかつて誰かの家族であったことを知っている。そのため夜の子はなるべく殺さずに追い返す。その際に、ゼノたちは魔法の材料となる夜の子らの一部を採取し、レトのような魔法使いへ提供し、魔法使いは夜の子を退散させる便利な魔法薬をつくる。
そんなふうに今の社会は循環していた。
やり手のディングのドグウォン商会や、野心家ミルカのアクルタ商会などは拠点を魔法の国に残しつつもこの時勢に乗ってますます商売の手を広げている。
だが魔法の国を離れ、本来の自分の故郷や新たな場所に根付いても、魔法の国の民たちのフィニィに対する認識はそのままだ。
決してひとりぼっちにしない。悲しませない。心の片隅で王の子を想う。
間もなく、レトは苦労して財布を見つけ出した。
「はいこれ、どうぞ。次は銀蝶の鱗粉を持ってきてくれると嬉しいです。前に見かけたって言ってたじゃないですか?」
報酬を受け取ったゼノたちは、しかし首を傾げた。
「近くの森のほうに飛んでったのを見たきりだ。少し飛び方がおかしかった。今頃死んでんじゃねえか」
「腹が膨れて重そうだったんだよ。俺は卵持ってんのかと思った。そういえば、少し前からその森の様子が変でさ」
「変って?」
ヤギ足の青年は神妙そうな顔を作った。
「昼間でもやたら暗いんだよ。まるで夜の森みたいな。なんとなく夜の子もそこに集まってきてる気がする。レトくん魔法使いでしょ? なんか思い当たることないの?」
「えぇ? いや~・・・」
レトの視線は自然に傍の子供のつむじに向かった。
夜の子のことは誰よりもフィニィが詳しいだろう。
フィニィはひょいと椅子を飛び降りた。
外に出て、ゼノらに件の森のある方角を教えてもらった。
「一人でいくの? ゼノさんたちに付いていってもらったら?」
心配そうなレトに大丈夫だとフィニィは答える。陽ができたとはいえ、昼の子らに夜はまだまだ暗い。森の中となればなおさらだ。
「危ねえ時はすぐ逃げてこいよ」
ゼノにも手を振って、フィニィは外套を翻し森へ飛んだ。
確かにそこは夜の森を思い出すような暗さだった。
ユピほど枝葉が密に絡んでいるわけではないのに、陽の光を一切通さない。闇が森の一部を深く包み込んで、何かから隠しているようだ。
フィニィは闇の濃いほうへ歩いていく。
そこで、銀色の翅のひしゃげた蝶を見つけた。
銀蝶は体が人の赤子ほどもあり、翅を広げれば倍以上に大きくなる。
だがその蝶の翅は伸びきらないくしゃくしゃの形のまま。蝶の傍の岩壁には透明で穴のあいた卵がたくさんくっついていた。
銀蝶は卵から蝶の形で生まれる。そして翅を伸ばしてすぐに飛び立つ。しかし、この蝶一匹だけがうまく孵化できなかったようだ。
ふわふわの綿毛のようなものが生えた六本脚を地に張って、背中の翅をどうにか動かそうとしているが、何もどうにもならない。
大きな複眼からまるで人のように、透明な涙が滲んでいた。
「どうしよう、フィニィ」
背後に夜の王が現れた。
銀蝶の傍へしゃがみ込んだフィニィの真上から見下ろす。
「この子は飛びたいと願っている。だがこの翅では無理なのだ。どうしてやればよい。死ぬまでこうして私の中に匿ってやればよいか? 願いは叶わないが怖いものからは守ってやれる。それでよいのか? また私はまちがえているか?」
憔悴した顔でフィニィに詰め寄った。
フィニィは手を伸ばして、夜の王の頬をぺたぺた触り落ち着かせる。ひとりで思い悩んでいたらしい。
この辺りが夜の森のように暗かったのは、飛べない蝶を守ろうとしている彼のせいだった。
フィニィが陽をつくった時から、夜の王は自分の大き過ぎる力をいくらか制御できるようになった。夜の国はなくなったわけではなく、昼の世界と融合したままであるが、夜の王が自らを抑えている限りは再び永遠の夜に閉じ込められてしまうことはない。
命を変質させてしまう夜の魔法も陽の魔法でどうにか相殺されている。
フィニィに触れられ、少し安心した夜の王はめそめそ泣き出した。
ここに魔女がいれば嫌な顔をしただろう。
「どうすればいい? フィニィ」
銀蝶は長い触覚でフィニィをなぞる。
小刻みな振動から、兄弟たちに置いていかれた寂しい気持ちが流れてきた。
触覚が鼻をかすめて哲学ネズミが小さくくしゃみした。
フィニィは銀蝶を抱き上げた。とても軽く、ふわふわのぬいぐるみを抱くような心地だ。ただ虫らしい硬い感触も毛の下にある。しきりに動く触覚が首筋をなでてくすぐったかった。
そのままフィニィは王を連れて夜を渡った。
降りたのは魔法使いの調合室。
大釜をかき回していたアクウェイルは、部屋の中が突如真闇になり驚いた。
そしてすぐさま舌打ちする。
「中に入るな。入るなら力を抑えろ。夜の王」
すると闇が引く。
夜の王は小さなフィニィの後ろに隠れ、アクウェイルを上目遣いに見やった。
「フィニィ、アクウェイルに頼るのか? この子はエリトゥーラに似て苦手だよ」
「用がないなら出ていけ」
作業の手は止まらず背後を見向きもしない。
フィニィはアクウェイルの傍にいくが、夜の王は隅に縮こまった。
そこへさらに追い討ちがやってきた。
「ピピー侵入者ぁ! 発・見っ!!」
羽虫のように勢いよく飛んできたスタラナが出窓に張り付いた。
魔法の国も外は夜である。守り人が一度は世界から魔法の国を仕切ったが、夜の力が抑えられたことでまた元に戻った。
しかし警戒は怠らない。すべてを見張る守り人を通じてより濃い夜の出現を知った裁定人――に憑りつかれている大臣たちと、処刑人が瞬時に駆けつけ、夜の王を囲んだ。
「ようこそ夜の王。お茶でも飲むかい?」
ルジェクはにこやかに言うが、背後の裁定人は目を見開いている。たまたまヴィーレムだけは外遊中で不在であったが、それでも二人の裁定人と大臣、大鎌を持つ処刑人に詰め寄られる威圧感は変わらなかった。
「フィニィフィニィっ、手を握っておくれ。エリトゥーラの分身たちが私を嫌うっ」
「嫌いじゃないってば。でもあなたはすーぐ自分見失ってシャレにならんことおっぱじめるじゃん? スタラナちゃんたちは気ぃ抜けないわけよ。しゃーないね」
「とりあえず話は聞くよ。どんな悲しいことがあったのさ」
夜の魔法の影響を受けない大臣たちは、傍で怯える王をなだめた。
ユピの中を出てから夜の王はフィニィを介して、魔法の国の人々と少しずつ生身の交流が増えている。
夜の中で嘆く者の声に王の心が耐えられなくなる前に、魔法使いたちで知恵を寄せ合い彼の悩みを解いてやるのだ。
「で、その銀蝶は孵化に失敗したのか?」
アクウェイルはフィニィの抱いている蝶を指す。
飛びたいのに飛べなくて泣いているのだと話すと、魔法使いは長身を折り、しわくちゃの翅をひらけるところまで広げて検分し始めた。
「管がないな。骨組みもなく翅を広げることはできん」
縮んだ翅は毛布のようにふやふやしていた。
風を受ける帆を張るためには支柱が必要なのだ。
「逆にスタラナちゃんは骨しかないのに飛べるぜ? 気合でいけね?」
「君、気合で飛んでたの? まあ、翅は翅の形をしていなければ飛行の魔法が使えないんじゃないか。たぶん」
スタラナとルジェクも寄ってきて同じく蝶を観察する。
フィニィはどうしたらいいか魔法使いたちに尋ねた。
それにアクウェイルは至極単純に答えた。
「翅を作り直してやればいい。材料は、夜泳龍のヒゲ十本、ツタの卵を二つといったところか」
「念のため小金鳥の羽根もいれといたら? 軽さと飛行の魔法が足される」
「悪くない」
「極彩珠もいれよーよ。きらっきらにデコっちゃお?」
「いらん。重くなる」
「浮き薬塗っておけばいけるいけるっ。覚悟しろよ泣き虫め。お前を世界一の美蝶にしてやんよ!」
材料はフィニィの鞄や魔法の国内にストックがあった。
すぐさまアクウェイル邸に集められ、魔法づくりが始まる。その頃には夜の王も部屋の隅から出てきて、踏み台に上ったフィニィの横で大釜の縁に取りついた。そのさらに横には処刑人が見張りに付く。
「本当に、この子の願いを叶えられるのか?」
「黙って見ていろ」
悪いことばかり考えて不安になってしまう夜の王を尻目に、アクウェイルは手際よく材料を大釜へ放り込んでいく。
ほとんど真黒な水の中にあらゆる魔法が溶けて、混ざる。
「蝶をいれろ」
アクウェイルの指示のもと、フィニィは抱いたままの蝶を釜の中にいれようとしたが、蝶は六本の脚でしがみついて離れない。
「恐れている」
夜の王が銀蝶の心を代弁した。
釜に放り込まれることが単純に怖いだけではない。
生まれたばかり夜の子は、兄弟たちに置いていかれている現状を恐れつつ、しかしここから変わってしまうことも恐ろしいのだ。
だからずっと怖くて泣いている。
涙は綿毛の生えたような体から、フィニィの水を吸わない上着を伝って床に流れ続けていた。
フィニィは蝶を抱きしめてやる。しきりに動く触覚に哲学ネズミが鼻を擦りつける。
「・・・恐れは尽きない。何度でも、何度でも、私を殺してゆくだろう。だが――蝶のささやかな羽ばたきが、針の細さほどの光が、いつか救いになる」
恐れるなとは誰も言えない。光のもとにいようが闇に隠れようが、怖いものは記憶の向こうから不意に襲ってくる。
だからフィニィは恐れる者の傍にいる。悲しむ者に寄り添う。いるだけで何もしてやれない時がほとんどかもしれないが、ひとりぼっちの寂しさだけはいくらか紛れるだろう。
何かが変わってもフィニィだけは変わらない。
触覚を伝ってそう励ましてやると、銀蝶はわずかに脚を開いた。
フィニィは釜の中に身を乗り出し、付け根まで翅を水に浸した。そのフィニィが落ちないようにアクウェイルが襟首を掴んでやった。
「そこでいいからフィニィ、核を吹き込め」
フィニィは軽く息を吸う。
「ねがいをひとさじ」
多くの色彩を持つ光が渦巻く水面に落ちて、銀蝶の翅にまとわりついた。
そこを目がけて集まった魔法が白い光を放ち、一瞬膨れて弾けると、雪のように辺りに舞った。
フィニィは蝶を引き上げる。
すると体の何倍もある大きな白銀色の翅が、床から天井まで広がった。
薄暗い部屋の中で翅はきらきらと輝いていた。
蝶の兄弟たちのものよりも眩しい。銀色の陽のようだった。それの振りまく鱗粉が部屋中のものを同じく輝かせた。
ルジェクらに窓を開けてもらい、フィニィは夜空へ蝶を放った。
蝶はもう泣いていない。一度だけフィニィを振り返って、夜の陽に向かい飛んでいった。
まるで星を振りまきながら、どこまでも高く、遠く。
「――これでよかったのか」
夜の王がぽつりと零す。
フィニィはいつまでも蝶を見送っていた。
夜の底で、ただ静かに。
終




