フィニィの魔法1
星も陽もない闇の中、夜の子の蠢くたくさんの音が聞こえた。
辺りは目印となるものがないばかりか、一度右を向いてから左を向いただけでそこはもう別の場所。
知っている道でも昼と夜では違うものに見えることがある。それが夜の国では実際に別の空間に突如繋がってしまうのだ。
ユピの根が張っていた頃よりも世界の形は不安定で、大地がまるで川のように子供を連れ去ってしまう。
金色の鎖に守られた魔法の国はいつの間にか遥か遠く、フィニィの後ろでろうそくの灯のように朧げにある。だがどれだけ離れてもピアに繋がる夕陽の糸をまとっている限り、帰り道は失われない。
フィニィは目を閉じた。
様々な声が聞こえる。
呻き、嘆き、悲しみ、喜び。闇を深く吸い、吐きを繰り返しているうちに、フィニィはそれらが自分の中に入り込んでくる感覚を覚えた。
からっぽの体の中で誰かが泣いている。泣きやまない声を聞き続けるうち、一緒に悲しくなってくる。
目を開けた。
泣き声は前方から聞こえてくる。
ユピのいない夜の国では花人が先導した。彼女の転がった後に落ちる花が、黒い大地に根を張って空間を仮に縫い留めた。フィニィはその上を歩き、処刑人が宙を滑るように付いていく。
真っ赤な蝶の大群が目の前を横切った。
さらに頭上の湖から緑青の魚の群れが飛び出し、空を泳いで蝶を追う。
飛沫が雨のように降り注いでフィニィは慌ててフードをかぶった。中で寝ていた哲学ネズミが肩に落ちて唸る。
花人は水に喜んで高く跳ね、無反応の処刑人は仮面の顔を彼方へ向けていた。
やがて、フィニィは泣き声のもとの一つを見つけた。
それはうずくまる子供だった。
周辺には皮膚の破片が散らばっており、虹色に発光する両腕で自身を抱きしめていた。
顔を伏せているため、花人が彼を中心に一周してもまだ気づかない。
フィニィは傍にしゃがみ、震える頭をなでてあげた。
「だ、れ・・・?」
子供が顔を上げた。
あどけない少年だ。頬や首にもヒビが入り、亀裂から控えめな光が漏れていた。
少年の目にも、白くぼんやり光る子供の姿が映っている。
フィニィは、フィニィだと名乗った。
「っ、王の子か?」
その名を少年は鉄の王から聞いていた。
急いで身を起こしたために、皮膚がまたぼろりと剥がれた。
「だめだっ」
黒い大地についた手の上に涙が降る。
その涙も光を帯びていた。
「助けてくれ・・・これ以上、私は化け物になりたくない・・・っ」
ひび割れた頬を涙はジグザグに伝う。
フィニィは鞄から清浄の水菓子を取り出し、中の青いゼリーを少年の顔に押しつけた。
ひび割れの隙間にゼリーが沁み込み皮膚を繋ぐ。フィニィは辺りに落ちていた皮膚の破片も拾って、つけられるものはくっつけてやった。
完全に元通りにはできず、亀裂をただ水菓子で埋めただけではあるが、皮膚が剥がれてしまうのを少しの間、防げるだろう。
フィニィはたどたどしく少年に教え、また頭をなでてあげた。
それでも少年は泣き続けている。
「教えてくれ、王の子。私は若人の王。呪われのエンシオ。なぜ私は陽に焼かれてしまう? なぜ私の皮は剥がれる? なぜ、私は、夜に呪われねばならなかった?」
悲痛だった。エンシオのか細く頼りない声がフィニィにはまるで絶叫に聞こえる。
彼は常に恨んでいた。妬んでいた。憎んでいた。
何も大それたことを願ったわけではない。彼はただ周りの人間が当たり前に享受している陽の光を同じく浴びたかっただけ。昼の世界で普通に生きたかっただけなのだ。
ゆえに国の者が残らず羨ましかった。彼以外の人間は存在するだけで罪深い。誰を幾度となく責め立てようと、王の座を譲り受けようと到底赦せない。
そして、そんなふうに周囲を攻撃することでしか心を保てない自分の不甲斐なさが、何よりもいちばん嫌いだった。
すべてが夜の呪いのせいであれば良い。
王の子に呪いを解いてもらい、醜い殻を脱ぎ捨てれば、きっと変われる。
「私は善い者でありたかった」
肩の上の哲学ネズミがぼそりと言った。
フィニィは皮膚が割れないように、そっとエンシオの頬に触れ、涙のいくらかを掬う。
「いっしょ、いこう?」
呪われた理由を知りたいのなら、夜の王のもとへゆこう。
呪いを解く材料もフィニィは持っていない。ならば探しにゆかねばならない。
「どこへ・・・・?」
どこへでもフィニィならいける。
恐れるエンシオを励まし、その光る手を取って、歩みを再開した。
そこで初めてエンシオは花人と処刑人を認識した。音もなく先導し、気配なく付いてくる魔女の分身たちは不気味である。
だが不思議と手を繋いでいる夜の子のことは怖くなかった。
冷たい夜気の中で、その手がじんわり温かい。
伏せていた目線を上げる。
闇の中を白い竜が泳いでいた。上下に尾を漕ぐたびに軋む甲殻に覆われた体がどこまでも長く、視界の横を通り過ぎてゆく。その腹の一部が明滅していた。
すると、子供らの背後で処刑人が大鎌を振るった。
ばしゃりと水音がし、青く光る水が辺りに飛び散った。それらはひとりでに集合し、三人の水の老婆の姿になる。
影になった瞳で恨めしそうにフィニィとエンシオを見つめていた。
そちらに気を取られていると、今度は前方から大きな獣がフィニィに飛びかかった。そちらは処刑人の刃に襲われない。
夕焼け色の獅子がフィニィを見つけただ構われにやってきたのだ。
フィニィはあいている手でたてがみをなでてやる。獅子は猫の子のようにごろごろ鳴いていた。
「・・・そいつも夜の子?」
フィニィは頷く。
大きな獅子がフィニィのついでに体を擦りつけてくるので、エンシオも指先だけおそるおそる夕焼け色の毛並みに触れてみた。
温かく、生きていた。
それからも様々な夜の子に出会った。
黄色い嘴から奇声を上げる大蛇、頭に貧弱な草を生やした土人形、甘い臭いの粘液の中で眠る赤い女、顔の半分だけ人間の狼、雷を吐きながら徘徊する老人、青白い蜂の大群。
目にするのは夢にも見たことのない光景ばかり。夜の国はまるで祭りの騒ぎのようだった。
フィニィも知らない夜の子をたくさん見かけた。つい先ほど生まれたばかりの者が騒ぎに交じっているのだろう。
やがて先導する花人が止まった。
陶器のように白い彼女の指が示す先に、枯れて倒れたユピの骸と、伏せて泣く夜の王がいた。
冬の今は最盛期である青年の姿。
若さと力が溢れ、なんでもできる。だが赤子のように泣いてばかりいる。
「あれが、夜の王?」
教えられてエンシオは唖然とした。
フィニィは少年の手を離し、花人から花束を受け取ってユピの亡骸へ供えた。
哲学ネズミもフードから出てきてユピの根に落ちた。口に出るのは支離滅裂な独り言だが、別れと感謝を告げている。
「・・・なぜ」
横倒しの幹の上から、夜の王が顔を半分覗かせていた。
大仰に嘆く気力さえなく、はらはらと静かに涙をこぼす。
「なぜ、生き続けてくれない。優しい、ユピ。やはり、お前も私を嫌っていたのか? だから私を置いていくのか」
ちがうよ、とフィニィは言った。
ただ命が終わっただけ。生き物とはそういうものだ。
「だったらどうすればいい? 私は独りになりたくないのに、お前たちは必ず私を独りにする。厭だと縋れば嫌われる。――もううんざりだ。何もかも私のせいにして、夜の中で嘆き続けるお前たちが心から厭だ」
夜の王は耳を塞いで縮こまった。
それでも彼には夜の中で悲しむ者の声が聞こえ続ける。
「夜の王、なぜ私を呪ったっ」
エンシオがたまらず問い詰めた。彼の心は今、夜への恐怖よりも不安が占めている。
「私も私の先祖もユピに触れたことはただの一度もなかった。夜に生まれた子供を呪う理由はなんだ。なぜ私を陽に当たれぬ体に変えた!」
夜の王は指の隙間から少年を冷たい瞳で見やる。
「・・・答えはお前が言った。呪われる理由がない。お前は呪われていない」
エンシオの息が止まった。
夜の王はゆらりと身を起こす。
「陽に当たれぬのが生来のお前だ。――可哀想に、よほど光に焦がれていたのだね。殻を脱いで、まがいものの光になろうとしている。その姿はお前自身の願ったもの。私のせいではない。私は悪くない。なぜそうまで嫌うのだ」
少年へ覆いかぶさるように手を伸ばす。
夜の王が近づくと魔法の力が一層濃くなり、かろうじて水菓子で繋がれていた皮膚が剥がれ始めた。夜の子への変貌が進んでゆく。
「あ・・・あぁ・・・っ」
フィニィは咄嗟に夜の王の黒衣を掴んだ。
彼に明確な悪意がなくとも、その力の影響は昼の子には大きすぎる。かつて魔女が夜の王の魔法のへたさ加減に憤っていたことをフィニィは思い出した。
夜の王は衣を引っ張られ素直に戻ってくる。
初めてフィニィから触れられたことに喜んでいた。
「フィニィ、寂しいフィニィ、お前だけは私の悲しみを感じてくれる。どうか、私を愛しておくれ。お願いだ。ユピのように傍にいておくれ」
子供にすり寄る首を大鎌が刎ねた。
処刑人がフィニィと夜の王の間に立つ。
転々と闇に転がった首がそのままで相手を見上げた。
「・・・エリトゥーラの分身か。あの子は死んでも私を嫌う」
悲しそうに呟く首が浮き上がり、もとの場所に戻った。何をしても夜の王が死ぬことはない。ゆえに彼は永遠に悲しい。
それをフィニィは可哀想だと思う。
「お前も私が嫌いか、フィニィ」
夜の王の問いに、フィニィは首を横に振った。
「ずっと傍にいてくれる?」
フィニィは首を横に振った。
命をつくりかえられてもそれは永遠のものではない。ずっと傍にはいられない。
「嫌だ。置いていかないでくれっ」
処刑人に何度切り裂かれても、夜の王は寂しい子供のように縋りつこうとする。
長くユピに依存していた彼はもう独りではいられない。たとえ愛されなくても、傍にいてくれるならそれだけでいいとさえ思う。
そのくらい夜の王は多くのことに傷ついて、多くの命を台無しにしてきた。
フィニィは処刑人の後ろから身を乗り出し、切り離された夜の王の手を取った。
まるで人形を触っているような無機質な感触。
以前、手を繋いだ時には潰されるかと思うほど強く握られた。夜の王は触れ合うということをまるで知らないのだ。
「みんないるよ」
この世に生きているのはフィニィだけではないと伝える。
昼の子らは夜を恐れるが、夜が救いだったと言う者もいた。
フィニィもそうだ。
夜は奴隷の仕事から解放された。闇の中では誰もフィニィを怒鳴りつけにこず、厩の男も殴られなかった。
拳半分のパンを齧って、男の独り言を子守唄に眠ることができた。
人が夜に泣くのは昼間に泣くことができないからだ。昼はすべてが見え過ぎてしまう。目を塞がれて、怖いものから匿われる闇の中でこそ、初めて心の内に溜まったものを吐露できる。
人は夜を必要としている。
いつかフィニィがいなくなっても彼らがいる。
「・・・だからなんだと言う。それは、別れの悲しみを重ねてゆくだけじゃないか」
大切なものの最期まで見届けられるということだとフィニィは言った。
フィニィもどうしたって置いていかれてしまう。だからせめて彼らの命の記憶を心に留めておく。
それは子供が自分だけの宝物を拾い集めることに似ていた。
「そう思えるのは・・・お前が、愛されているからだろう。私は触れるだけで命を侵してしまう。独りを厭うあまりに皆を夜に染めてしまう。すべて、わかっている。わかっていても――ユピがいなければ力を抑えられない。私だって光が恋しい。だがもう取り戻せない。もう私を愛してくれる者はいない」
強く握ってくる手は震えていた。
本体がフィニィの足元に崩れ落ちて、ただただ悔いては嘆く。
フィニィはしゃがんで、夜の王の手を腕に繋げてやり、怯える頭をなでてやった。
黙っているエンシオのほうを見やると、そちらも暗闇に膝をついて絶望していた。
夜の呪いではなかった以上、解呪はできない。
この世界ではそもそも陽を望めない。夜の王の意思にかかわらず、夜の魔法はかろうじて今も正気を保っている者をいずれ侵し尽くしてしまうだろう。
後に残るのは嘆きばかりだ。
フィニィは考えていた。
光に焦がれるエンシオと、光が恋しい夜の王、そのどちらの望みも叶えてやる方法はないか。
いつも始まりは願いからだと魔法使いは言っていた。
フィニィは夜の王を優しく起こす。
そしてエンシオのもとへいき、再び彼の手を取った。
「まほう、つくろう」
エンシオを焼かない陽をつくろう。夜の国を照らそう。
そのために、この広い世界のどこかに隠れている陽の欠片を探しにいこう。
フィニィは昼と夜の二人の王を探検に誘った。




