ユピ1
黒くうねる波間をフィニィは駆け抜けていく。
靴底に塗った海蛙の油があれば水に沈むことはないが、海は湖よりも足場が動きやすいため、体を軽くする浮き薬も使ってトビウオのように海面を跳ねていた。
真夜中の沖に出ている船はなく、飛ぶ鳥もいない。暗い水平線が遥か遠くにあるばかり。
フィニィは片手に白い巻貝を握っていた。
その中から一定間隔で鐘を打つような音が出ている。フィニィは音が徐々に大きくなっていくほうへ向かっていた。
そして貝の音がいよいよ響き渡るほどになった頃、フィニィの足元深く、海底から大きな影が浮上してきた。
まず白い角が海面を割って現れ、続いて甲殻に覆われた長い竜の体がまっすぐ星空へ伸びていく。
その鋭い角の先が巻貝と同じ鐘の音を発していた。
海水がぱらぱらとフィニィの頭に降る。
今にも小さな子供を飲まんと山のようにせり上がった波をすばやく駆けのぼり、フィニィは空へ昇っていく竜の背の突起に飛びついた。
この竜は暗闇を泳ぐ。日中は陽の届かない深海に潜むが、水の下と上とで闇の境界がなくなる夜は空へ浮かぶ。
フィニィの持つ巻き貝は本当は貝ではなく、この竜の角の先端が折れたものであり、角との共鳴音で竜の位置を知ることができた。
やがて尾の先まですべて海面から出た。
水平に付いた扇形の尾を上下にあおぐことで前に進んでゆくため、長い体も絶えず波のように動く。そのたびにぎちぎちと甲殻の隙間から音が鳴る。
フィニィは尾から頭のほうまで生えている角を順に掴まっていき、竜の首にたどり着いた。
夜風が強く吹き抜ける。
竜は沖から岸のほうへ泳いでいった。海の上にも地の上にも光は見えない。
皆、窓を塞ぎ、息を潜める夜。フィニィの生まれた三百年と昔から変わらぬ光景だ。
「・・・耳を塞ぐことは罪か。目を閉じることは悪か。白日のもとで断罪される人々へさらに石を投げるくらいならば、私は、闇の中で沈黙のままに死ぬほうが幸福であった」
フードの中の哲学ネズミの独りごとは後ろへ流れていった。
フィニィは鞄から真っ赤な蔦を取り出し、角の一本に結んだ。もう片方の端は自分の腰に結ぶ。
そうしたら蔦を両手で持って、慎重に竜の背を下りていった。
竜の顎の下には唯一、ここだけ鋼色の毛が生えている。うっかり素手で触ると刺さるため、革の分厚い手袋をし、黒曜石のナイフを毛の半ばに当てた。切るというよりは、ぽきぽき折れる感触がする。
採取したものは鞄の隙間に差し込んでおいた。竜は気づいていないのか気にしていないのか、悠然と泳いでいく。
竜の顎ひげをきれいに切りそろえたら、フィニィは背の上に戻り、角から蔦を外した。これで採取は完了だ。
夜の森が眼下に見えてきたところで、地上に飛び降りた。
浮き薬の効果でゆっくりと落ちていく間、多少は風に流されるものの、広大な夜の森はフィニィを余裕で受け止められる。
過度に密集したユピの葉を足先でこじ開け、着地した。
「・・・?」
フィニィは違和感を覚えて上を見た。そこにはフィニィがいましがた通り抜けた穴がぽっかり開いて、星空が覗いている。
おかしい。
待てど暮らせど穴が塞がらない。
そもそもいつもなら穴など開かない。どこを通ったかわからぬほど早く塞がってしまう。
なのに、黒い葉の降るのが止まらない。
フィニィは大きく、大きく目を開けた。
闇を見渡す。
海のほうから夜風が吹くたび、あちこちではらはらと黒い葉が散っていた。ユピは冬でさえほとんど葉を落とさないというのに。
(ユピが、かれてる?)
夕方にここへきた時はこんなふうではなかった。
フィニィは急いで森の奥へ走った。奥のほうは、まだ落葉が少ない。だが安心はできず夜の国へ入る。
走るフィニィの後ろから、星型の頭に足を生やしたような小さな陽の欠片たちが遊びたそうにやってきたが、今は構っていられなかった。
昔に夜の王が砕いた陽の欠片たちがいるおかげで、夜の国は常に光に満ちている。
闇は頭上に溜まり、その中でユピの根が互いに繋がりながら漂っている。
天地も左右もでたらめな空間を迷わずフィニィは走り抜けると、やがてそびえたつユピの本体が見えてきた。
本体には枝葉がない。
上は空中に浮いているユピの根と繋がっており、そして下には夜の王を閉じ込めておくための籠が大きな瘤のように幹にくっついている。
普段は風の通る隙間もない籠の中に夜の王が引きこもっており、ここには滅多に近づかないフィニィだが、今は辺りが暗くないため王は不在に違いなかった。
フィニィは根を登り、ユピの幹に両手で触れた。
まるで世界を支える柱のように立派な本体。事実、彼女はこんな姿になってからずっと、この世の昼と夜とを身を呈して守ってきた。
触れてみる限り、本体の様子はまだ変わりない。
だが予感は消えない。
「・・・どうしたの?」
ぺたぺたと幹のあちこちに触っていく。
どこか痛いのか、苦しいのか、つらいのか。フィニィはどうしてあげればいいのか。
不安げに見上げる子をユピが細い根で包んだ。
ごめんね、とユピは言う。
息を呑むフィニィにそればかり繰り返す。
そして子を自らの根の下にしまった。
直後に辺りが暗くなる。
フィニィが夜の王に見つかる前に、ユピは根の下に開いている穴を通じて、地上の夜の森に子を送り帰した。
穴の先はフィニィが魔女と暮らした森のユピの大木に繋がっている。
フィニィが身を出すと、幹に止まっていたたくさんの赤い蝶が散り散りに飛び立った。
この森のユピはまだ葉を落としていない。
だが、いずれここも枯れる。ユピがそう言っていた。
「っ・・・」
ぼろぼろと涙の伝う頬をフードから出てきた哲学ネズミがつつく。
フィニィはうずくまって泣いた。
すると押し殺した泣き声を聞きつけ、鳥の仮面を付けた処刑人が現れた。
しかしその場に処刑すべき対象はない。他にどうしようもなく黒い手でフィニィを抱き上げた。闇に溶けているドレスは水を吸わず、涙がただただ滑り落ちる。
「・・・どうしたらいい?」
仮面の下に顔を持たない処刑人は、問いに答えることができない。
よって、かわりに子を救ってくれる者を求め、ベールを翻した。
「うおっ!?」
そこはまだ陽の照る世界。
魔女のように長い黒髪を持つ昼の魔法使いの館。
アクウェイルとその弟子のレトは、突如、部屋の中央に現れた影に心臓が飛び出るほど驚いたものの、すぐに泣きじゃくる子供に気づいた。
「また何か見つけてしまったのか」
アクウェイルが処刑人からフィニィを受け取る。泣く子をあやしてやるのはすでに何度目かわからない魔法使いだ。
フィニィはアクウェイルのシャツに顔を押しつけ、うぅうぅ唸っている。
「フィニィ大丈夫? どうしたの?」
レトが優しく話を促す。
まだあまり話せる状態にはなっていなかったが、フィニィはとても抱えていられず嗚咽とともに吐き出した。
「も、すぐ、ユピがしんじゃう」




