色を失くした獣3
朝のこない夜の森では時間の感覚が掴めない。よって、一日はフィニィが眠れば終わり、目覚めれば始まる。
寝て起きると大抵腹が空いている。しかし魔女はベッドから出たフィニィに気づかず、大釜の前で頭を悩ませていた。フィニィが寝る前と寸分違わぬ光景だ。
森で取ってきた材料をとりあえず大釜に放り込み、赤い塗料を作ろうとしたのはいいものの、どうにもうまくできないらしい。
もう何度も材料を消費し、フィニィはその都度採り直しに行かされていた。
おそらく今日もそうなるだろう。ならば腹ごしらえをしておく必要がある。
フィニィは自分で洞窟のさらに奥の小さな穴蔵に入り、麻袋に詰まった大麦を椀に掬って、魔女のもとへ持って行く。
この大麦は魔女も思い出せないほど昔に、まだ人間だった母に食べさせるため、魔女が昼の世界の人間から買った時の残りらしい。
「ん? 腹が空いたのか」
椀を手にしたフィニィに服を遠慮がちに引かれ、魔女はやっと気がついた。
受け取った椀の中身をそのまま大釜に放り込み、何度かかき混ぜ、最後に魔女がいつもの呪文を唱えると、火を焚いていないのに温かい麦粥が柄杓に掬われて出てくる。椀いっぱいで同量の麦粥ができる。
フィニィはいまだ魔女の足元で伏せている白い獅子の傍に座り、スプーンで掬った麦粥をその鼻先に持っていった。
青白い鼻がひくひくするが、獅子は食べるだけの元気がない。ただ温もりを求めるようにフィニィの膝へ頭を寄せる。その動作すらつらそうな有様だった。
抜け毛は日ごとに増え、獅子の周りに雪のように降り積もっている。体躯もさらに縮んだようだ。
魔女によると、この獅子は本来とても力強く、粗暴な性格なのだという。それが見る影もなく衰えて、他者にすがりついてなおも助からないことが、この夜の子にとって最も不幸な死に方なのだという。
「・・・火に炙られることも恐ろしく思えぬ時代がある。活力に満ちていた夏の日々が確かに私にもあった。だが――いつからだろう。待ち遠しいはずの明日が怖くなったのは。気力と体力の限界を覚え、絶望が目の前を覆っていったのは・・・私が、誰にも求められていなかったことに、気づいた時だろうか――」
膝の上で震える哲学ネズミにも麦粥を食べさせてやり、フィニィは手早く食事を終えた。
「椀をよこせ」
また大釜をかき混ぜていた魔女が、フィニィがあけた椀に赤い塗料を注ぐ。スプーンのかわりに刷毛を持たせ、それで獅子を塗れという。
茶色い何かの動物の毛で作られた刷毛は柔らかく、ちょうどよいコシがあり、フィニィはそれで塗料をたっぷり掬うと、遠慮なく獅子のたてがみに塗りつけた。
しかし、塗料は塗る傍から蒸発して消えていく。色が弾かれ毛になじまない。何度やっても同じだった。
「だめか。あと一つ、何かが足りない――フィニィ、もう一度採っておいで」
フィニィは了解し、哲学ネズミをフードに放り込みさっそく出かけた。
道はおおむね頭に入ってきた。ユピの木の細かな枝ぶりや大きさを見分け、それらの目印を起点に森を進めば、魔女に教わっていない道もどうにか迷わずに歩いていける。
メインの採取物は赤い蝶と運試しの実、オームドの血。血は魔女があの怪物を絞った場所に、まだ血溜まりが残っているためそこから採取する。
他にも赤いものがあればなんでも採ってこいと言われており、フィニィは目に付いたものを片端から鞄の中に詰め込んだ。
知らない植物や、何かの虫の抜け殻などを集めることは思いのほか楽しい。フィニィは、村の子供たちが普通にするこれらの遊びを一切したことがなかったのでなおさらだ
仕事なのにおもしろいなんて、フィニィはおかしなことだと思った。
寄り道をしながら、もぐらの巣穴の一帯を抜け、オームドの血溜まりのあるところに辿り着く。死体は周囲にないので、魔女の言ったとおりあの怪物は死んでいないのだろう。
多めに二つ、小瓶に血を掬い取っていると、頭上からアンテがふわりとやってきた。
またキンキン何事か話しかけてくる。やはり意味はわからなかったが、フィニィはなんとなく、何をしているのか訊かれているような気がし、魔女が獅子の呪いを解こうとしている事情を説明した。
するとアンテは背中の羽を細かく羽ばたかせ、どこかへ飛んでいく。その際に手招きをしていたから、フィニィは後を追った。
小さな少女に導かれるまま森の奥へどんどん行くと、なぜか少しずつ、周囲が明るくなってきた。
フィニィの目が夜の森の闇に慣れたせいではなく、事実、森の奥は日の出の直前のように薄明るいのだ。相変わらず頭上には陽の光が差す隙間もありはしないのに。
アンテは一本のユピの根元に留まった。
そのうろの中を覗き込むと、青い不思議な花が咲いている。
ユリに似ている大きな花は、花弁が透明だった。どくどくと脈打つ青い光が、葉脈を流れている。誰かが空間に光で輪郭のみを描き、中の色を塗り忘れたかのようだ。
フィニィは実際に自分の手で触れるまで、本当にその花がそこに存在するものなのか確信できなかった。
顔を近づければ雌蕊の蜜の香りがする。ガラスのような花弁は柔らかく、青い葉脈はつるつるしていた。
ただ、
(あかくない)
おそらくアンテはこの花を持って行けと言っている。しかしフィニィは魔女に赤いものを拾ってこいと言われている。
アンテにも説明したはずだが、彼女の態度は変わらなかった。
「・・・ほかのいろも、ひつよう?」
逡巡の後にそう尋ねると、アンテは笑みを浮かべた。
どうやら、そうだと言っている。
フィニィは青い花を丁寧に根から抜き取った。
鞄に乱暴に放り込めば潰れてしまいそうだったため、これだけは手に大事に持って運ぶ。そうしてアンテと洞窟に帰る道すがらも、赤色ではない素材を念のため拾っておいた。
洞窟に戻ると、魔女は小さな姉とフィニィの持つ青い花にけげんな顔を見せた。
だがアンテにキンキン説明されれば納得した。
「なるほど。魔法の種類が偏っていては、うまくないわけか」
フィニィが採ってきたものはすべて作業台に並べられた。
色は赤、青、黄、茶、黒と様々。植物、虫、石、何かの抜け殻、手当たり次第にある。
しばらく思案した後、魔女はその中から青い花、赤い蝶、黄色の石を選び、追加で足元に落ちている獅子の抜け毛をひとつまみ、大釜に放り込む。
釜の中が気になるフィニィは自力で台に登ろうとして登れず、結局また魔女に乗せてもらった。
「アンテ、涙をよこせ」
魔女が宙の姉へ手のひらを差し出した。
ひとまずアンテはそこに座るも、不思議そうな顔をしている。
「このままではまた呪いに弾かれる。魔法を浸透させるためには、夜の王の力をまぜてやらなければならない。おそらく、王の子の体液で代替できるだろう」
するとアンテが魔女の手のひらをつつく。
「私は泣けない。母を取られた日だって、お前がかわりに泣いただろう」
アンテの背中の羽が悲しげに下がる。
紫色の瞳は大きな妹を憐れんでいるようだった。
アンテは目を瞑り、うつむいた。
しばらくすると、宝石のような雫が一粒、水銀色の頬を伝う。
魔女が黒い爪の先でそれを掬い、大釜の中に振り落とす。
「夜を一匙」
いつもと違う呪文を唱え、柄杓に息を吹きかけると闇の欠片が底に溜まる。
それを静かに大釜に注ぎ込めば、釜の中の黒い液体が透明に変わった。
アンテの背中の羽や、魔女の耳の羽の色に似ており、透明だが様々な色の光が水面下を泳いでいる。
フィニィは釜に落ちるぎりぎりまで乗り出し、光に見入っていた。
しかし、魔女が椀に一杯掬うと、途端に元の黒に戻ってしまった。
「フィニィ。塗ってごらん」
台から下ろされ、フィニィは椀と刷毛を持つ。
魔女とアンテも同じ椀から透明な塗料を掬い、獅子の体に塗りたくった。
今度の塗料は素直にしみ込んでいき、内側からじんわりと紅色が浮かび上がってくる。
露わとなっていた皮膚から新しい毛が生えて、蒼白の鼻にも赤みが差す。
最後の一滴まで塗料がなくなった頃、夕焼けのように真っ赤な獅子が蘇った。
その温かそうな毛並みにフィニィが無意識に手を伸ばすと、獅子はそこへ頭を突っ込む。フィニィの腕の長さでは彼の首に回らない。
頬に鼻を押し付けられるのがくすぐったく、フィニィはここにきて初めて笑い声を上げた。
あるいは、生まれて初めてであったかもしれない。
「調子のいい奴。次はないからな」
魔女は獅子の頭をなでてやりながら釘を刺す。
それが果たして伝わったのか否か、赤獅子はひととおりフィニィらに鼻を擦り付けたら、意気揚々と洞窟を飛び出していった。