夜のほとりの魔法使い1
「・・・親を、子を、友を、人は誰かを生まれながらに愛し、その影で他者を虐げる。誰かを殺すのが誰かを愛すゆえならば、私たちは一度愛する者を忘れるべきだ。もし誰もがひたすらに目の前で困窮する者へ愛情を注いだならば、あなたが私を殺すことはなかったのだろう・・・」
牢の中で哲学ネズミの独りごとが延々続いている。
いつの間にかフィニィは眠っていた。
膝から顔を上げても鉄の部屋は暗いまま。
フィニィには食べ物も何も必要がないから、寝ている間に世話人が訪ねてきたりはしなかった。
だが何か気配を感じた。
頭上の細い通気口を見上げる。
そこからカサカサと音がして白いものが落ちてきた。
風に吹かれたように黒い部屋の中へ舞い降りる、それは折り紙の蝶だった。
『――ようやく見つかったか。フィニィ、一体どこにいる』
不機嫌そうなアクウェイルの声。
フィニィは跳び上がって蝶を捕まえた。
『紙に触っているか? ガサガサうるさいぞ。誰の依頼を受けたのか知らんが早く戻ってこい。ルジェクが一度探しにきたぞ。今日はどこにいるんだ』
フィニィは鉄の国の鉄の塔の中に閉じ込められ、帰れずに困っていることを早口に訴えた。
『・・・何をどうしてそうなった』
無言の後にアクウェイルが呆れたように言う。
『そこには他に誰かいるか? ネズミ以外でだ。誰もいないか? 今は危険ではないのだな? なら一から話せ。誰に会って何をした』
フィニィはたどたどしく説明した。
順序立てて話せないところもあったが、冷静な魔法使いがその都度状況を整理し正確な理解に努めた。
『――馬鹿な男に捕まったな。どのみち死ぬのだから呪われた王など放っておけばよかったのだ。こういうことを自業自得というのだ。反省しろ』
魔法使いは辛辣だ。
それでもフィニィは可哀想なものを見捨てられない。死にかけているものは特に。せめて最期を看取ってやらねばと思ってしまう。
だがこんな事態はまったく望んでいなかった。
「・・・かえる」
帰りたい、と涙声で願った。どうすれば叶うのかは、さっぱりわからなかったが。
すると紙の蝶がぐずる鼻先にとまった。
『迎えにいく。泣かずに待っていろ』
両目を擦って、フィニィはこくりと頷いた。
☾
その日、三つ四つの雲の塊が浮かんだ空を城の兵士は見上げていた。
焼きたてのパンの中身のように柔らかそうだ。そんなふうに考えていると、ひと際大きくふわふわした白いものが頭上へゆっくり滑りこんできた。
毛の生えた鯨のような空遊魚。
商家が空輸に使う非常に大きな個体である。
そこから人影が一つ、下りてきた。
左腕に絡みついている木の根がピューイの上からめきめきと伸びて、白髪の青年が兵士の前に立った。
「こんにちは。鉄の王はどちらかな?」
そこは城の中庭で、警備のど真ん中である。
すぐさま四方から兵士や色んな役職の人間が駆け付けた。大きなピューイは城のどこからでも見えた。
二階からも顔を覗かせる鉄の国の人々へ、ルジェクは語りかけた。
「はじめまして。僕は夜の森のほとりに住む魔法使い。この城に僕らの大事な子が囚われていると聞いて迎えにきた。誰でもいい、僕をあの子のもとへ案内してほしい。それから鉄の王にも言っておきたいことがある。彼を呼んでくれ。こないのならば、こちらから探しにいくと伝えてくれ」
青年は周囲の兵士たちが突きつける槍の先が見えていないかのようだ。
逆に武器を持つ鉄の国の人々のほうが内心では怯えていた。半身に木の根を巻き付けていることも、刃の形の両手をもつ透明な女が背後に浮いていることも、どちらも恐ろしくてたまらない。
本当はすぐにでも捕えねばならない侵入者であるが、あと一歩槍を突き出した先にどうなるのか、彼らは想像もつかなかった。
すると、城の二階から一人、男が下りてきた。
鉄の国の高官である。
兵士らの壁の後ろから遠巻きに異形の魔法使いへ問いかけた。
「貴殿は魔法の国の大臣か?」
高官はルジェクと初対面だが、関所のない魔法の国はいくらでも間者を送り放題だ。透明な裁定人に憑りつかれている者が大臣であることを知っていた。
「そう呼ばれることもある。あの子のいる場所を教えてほしい」
ルジェクは静かな笑みを浮かべていた。
一方、右の青い瞳は冷えきっている。
高官は背筋に嫌な感触を覚えた。
「可哀想に、閉じ込められて泣いているらしい。早く安心させてあげたいんだ。それは君らのためでもある。あの子が涙を流せばここは処刑場になる。その前に僕がきたことを感謝してほしいくらいだ」
「なんの話をしているのかわからない」
高官はある意味、正直に言っていた。
王が連れ帰ってきた魔法の国の子供を彼は知っている。玉座の間でその姿も見た。
だがそんな子供のためだけに大臣が直接城に乗り込む暴挙を働いたとまでは想像できていなかったのだ。
「これが魔法の国の礼法か? 王への謁見を望むのならばおとなしく――」
「勘違いしないでほしいな」
瞬間、裁定人の刃が槍の穂先を粉々に砕いた。
「僕は君らに乞うているのじゃない。脅しているんだ」
空から大きな人影が降ってきた。
土煙を上げ大臣の背後に落ちたそれは、尻尾の先まで青黒い鱗に覆われた竜人。三又の鉾を携えた巨躯の戦士。
さらにその肩の上には骨の翼を生やした派手な少女が乗っていた。
魔法の国の異形たちは三者三様に殺気を放つ。
「僕らの王の子を解放しろ。鉄の王を差し出せ。以上だ」
まさかと高官は思った。
魔法の国にいつか現れると言い伝えられていた王の子。それが最近見つかったらしいとの噂は鉄の国にも届いていた。
間者からの報告もある。ならば鉄の王が知らぬはずがない。その子が夜の子であることも。
上空のピューイからさらにいくつかの影が降る。
非常識な訪問などというレベルの話ではなかった。
魔法の国の者たちは極めて身軽に、呆れるほど迅速に、攻め込んできたのだ。
彼はようやく、国家の危機を理解した。




