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フィニィの魔法の国  作者: 日生
三章 鉄の国
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右足1

 深い森に囲まれた広大な湖。


 水面に立ちのぼる朝靄をじっと見ていると、ふとした時に靄の向こうで影がよぎる。


 一瞬、人かと思う。気のせいかと思えば、またよぎる。


 辺りは異様なほどの静寂が支配し、そよ風すら吹かない。


 どこか夜の国に似ている。


 鉄の国の民は靄に隠れた人影を湖に囚われた死霊と見なし、ここを二度と生まれ変わることのない魂の墓場であると考えていた。


 確かに湖面には何かがうろついている。だがあれらは無力な者たちだと魔女が言っていた。あまり気にする必要はない。


 フィニィは息を止め、青鈍色の湖に頭だけいれてみた。


 水の下は昏い。空が曇っているせいだけでなく、夜の子の目でも見通すことができないほどに底が深い。


 すぐに水から顔を上げた。濡れた髪の毛先からフードに水が滴り、哲学ネズミは目をしぱしぱさせる。


 湖底からの右足の回収は難題だった。


 フィニィはあまり泳げない。水中で息を長くもたせる方法はあるが、足を見つけるまでもつかわからず、そもそも泳いでいくだけの体力が足りるかどうか。


 湖畔に座り、鞄の中の魔法薬や魔法道具をあれこれ組み合わせて考えてみるが、どれも試すには不安だった。


 大地の亀裂に飛び込むよりも水に溺れることのほうがとても怖い。できれば二度とあの苦しみを味わいたくなかった。


 しかしグウェトが待っている。


 怖くても覚悟を決めるべきか。

 静かに追い詰められていた子の傍の地面が、その時ぼこりと盛り上がった。


 現れたのは、黒い木の芽。


 慌ててフィニィが避けると見る間に生長し、人の大きさほどのユピの若木になった。


 驚く子供のほうへ枝を一本伸ばす。

 他のユピと違って枝の中は空洞になっていた。咥えると空気が送り込まれる。

 

「・・・いっしょに、いってくれる?」


 そういうことだとフィニィは解釈した。

 もう魔女はいないから、ユピが助けてくれるのだ。それなら少し怖くなくなる。


 フィニィは鞄と哲学ネズミを湖畔に残した。


 水がとても冷たかったので、体を温めるスタラナの飴を両頬に含み、それからユピを咥えた。


 足から湖に入る。


 緩やかにユピの枝が伸び、フィニィは掴まっているだけで下へ下へ潜っていける。

 フィニィの吐く泡がごぼごぼと頭上へのぼる。


 おそろしいほどに澄んだ水の中。生き物の鼓動は聞こえず、ひたすらに真っ暗な静寂。


 辺りに遮るものなくどこまでも見渡せるが、底だけが見えない。


 一層、下がるごとに水は格段に冷たくなっていく。


 どこまで下りてもまだ着かない。

 長い旅路の間にすっかり飴を舐め終えてしまう。それでもまだまだ、辿り着かない。




 何かが見え始めたのは山の一つ分くらい潜った頃。


 辺りに雪が降りだした。


 ぽわぽわ淡く光るそれらは、ごく小さなエビだ。


 死骸が浮いているのかと思ったが、よく見ると動いている。フィニィが手を伸ばせば指先をさりさりとくすぐった。


 その水深には見渡す限りに無数のエビがいた。フィニィは星空の中に迷い込んでしまったように思えた。


 さらに潜っていくと、今度は青い光が幾本も見えてきた。


 それは発光する半透明な触手。

 湖の底に森のように生えている。


 触手の根本にはクラゲのカサをひっくり返した形の巨大な本体がある。


 その中心に太くまっすぐな白い木が生えていた。ところどころ枝葉のかわりにフリンジに似た繊維がひらひら揺れている。

 触手を花びらに見立てれば雌蕊のようでもあった。


 よく見れば触手はどれも何かを捕らえている。


 それは朽ちかけの流木であったり、動物の死骸であったり、かろうじて人の形に見て取れる残骸であったりした。


 触手が絡みついているところから長い時間をかけて少しずつ溶かされ、吸収されている。

 小さなエビたちも死骸を一生懸命さりさり食べている。


 ここは湖に落ちた命が最後に行き着くところ。

 この触手もまた夜の王のようにいつから存在しているのかわからない。


 フィニィは触手の森の上から右足を探した。


 水が動くたびに触手はフィニィのほうへ揺られるが、特に襲ってくる気配はない。


 やがて、一本の触手に絡めとられている鉄の右足を見つけた。


 まだ少しも溶けていない。

 掴んで引っ張ってみるが、細かな吸盤が張りついてまったくはがれそうになかったので、フィニィはポケットから黒曜石のナイフを出した。


 半透明な触手は薄いゼリーのような感触だ。刃をいれるはじめだけ軽い抵抗があったが、すんなり切れた。

 

 しかし、切った途端に周囲の触手がざわりと揺れた。


 すかさずユピがフィニィを引き上げる。

 その後を触手たちが無音で追った。


 餌を横取りされることは許せなかったらしい。

 フィニィはグウェトの右足をしっかり脇に抱え、触手に捕まらないようなるべく体を丸めてユピの枝にしがみついた。


 触手はどこまでも伸びてくる。


 静かに、着実に、盗人を追い詰める。


 体の末端がちぎれそうな冷たい水の中でフィニィは耐えるしかない。

 徐々に地上の明かりが近くなってきている。


 あと少し。もう少し。水底の番人は陸まで追ってこれないはずだ。そう期待して水面を見上げた。


 日暮れの空の色が見えた。


 ざばりと魚を釣り上げるようにユピの枝が大きくしなり、フィニィを湖畔から離れた地面に置く。


 数本の触手が水面を飛び出しユピの若木に巻きついた。


 ばきばきと幹を砕く音を響かせながら湖に引きずり込む。


 若木の根は夜の森に繋がっていたが、それさえも引きちぎり連れていってしまった。


 湖面に波紋が広がり、最後に一つ二つ泡が割れ、再びの静寂が満ちた。


 フィニィには自分の荒い呼吸と鼓動だけが聞こえる。

 しばらく、動くことができなかった。

 

 そのうち冷たい鉄を抱えているのがつらくなり、地面に置いた。

 右足に張りついていた触手はナイフを使って丁寧に吸盤をはがし、瓶詰にした。これも初めての素材である。


 フードやブーツの中の水を出し、湖畔に残していた鞄と哲学ネズミを回収する。

 ネズミは今しがた起きたことにさえ気づかず、フィニィが助けるまで水面に自分で鼻を突っ込み溺れかけていた。


「・・・選択の後にいつもこれではなかったと思う。選んだもの、選ばなかったもの、そして選ばれたこと、選ばれなかったことに、おそらく大した差異はない。それらはただの結果でしかないのだ。にもかかわらず、大いなる意味を求めてしまう。ゆえに私は、選び取れなかった未来を後悔し続けている」


 朝から消えない靄の向こうで、おぼろげな人影が複数、無音のままに彼を喚んでいた。


 フィニィは濡れた頬を哲学ネズミの背に擦りつける。

 影のほうへ行かなくていいように、フィニィが傍に戻ってきていることを伝えた。そうすれば徐々に落ちつき、哲学ネズミはうつらうつら寝始めた。


 それをフードに収め、帰り際に夜の森で一本のユピにも頬を押しあてた。


 感謝と労わりを伝えると、わずかに木の葉がささめいた。

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