泣く娘3
天地の逆さになった遺跡に立ち、フィニィは地図を広げた。
陽の欠片たちも、どこに目があるのかわからないが、フィニィの肩に乗って同じように地図を覗き込む。
ここは夜の国で、時間も空間もでたらめだ。
歩くたびに道が変わっている。
だが生えているユピの木の位置だけは変わらない。
昼の世界で夢見る木のあった場所と、そこに繋がる夜の国の出口を照らし合わせて考えれば多少なりとも方角が掴めるのではないかと思った。
そうすればキーラの故郷に繋がる夜の国の出口だってわかるかもしれない。
水溜まりの女も千年の陽光を集めた光吸石も探さねばならないが、まずはキーラの弟を見つけようと思った。
リポルスは地図の南のほうにあった。
キーラの故郷は西のほうにある。南だとか西だとかという見方はレトに教えてもらった。
とりあえずフィニィはリポルスの出口のあるところから左に行ってみた。
しかしフィニィは昼の世界を知らな過ぎ、夜の森は世界中に広がり過ぎていた。
試しに出た場所が地図のどこなのかまったくわからない。
仮に南のリポルスの出口と反対側の出口から出たとしても、そこが昼の世界における北側の地域なのかといえばそうとも限らない。それだけ夜の国はでたらめなのだ。
結局のところ、リポルスのヒントなど大した役には立たず、フィニィは何度も夜の国を出入りして森中を探し回るはめになった。
するとある時、頭上から闇が下りてきた。
陽の欠片たちが逃げ、辺りの空気が冷たくなる。フィニィは自分と哲学ネズミに急いで銀蝶の粉を振りかけて石柱の陰に隠れた。
「フィニィ。それは意味がない」
直後に、黒衣をまとった長身痩躯の男が頭上から覗き込んだ。
すでに夏至は過ぎている。
夜の王はフィニィが眠る前に見た壮年の姿に近かった。
その時よりもまたもう少し若い。
「お前には夜の欠片を飲ませた。どこにいようと、どんな魔法を使おうと、私がお前を見失うことはないよ。たとえユピの根の下に隠れようとも、だ」
黒衣から伸びた手がフィニィを陰から掬い上げる。
夜の王はその姿がよく見えるように倒れた石柱の上に子供を座らせた。
左右に王が手をつき、フィニィは逃げられなかった。
「おはよう。良い目覚めだったようだ。エリトゥーラを探しに行く前に私に会いにきてほしかったが、それは許そう。お前はまだ私をよく知らないのだからね。だが今日はいつもより長く私の国にいる。きっと私を探していたのだね。そうだろう?」
フィニィは首を横に振った。
夜の王は口を尖らせ拗ねてみせた。
「お前は正直だ。とても良いことだが残酷だ。私はこんなに優しくしているのに」
夜の王が顔を近づけてくるので、フィニィは哲学ネズミを盾にした。
王の口にネズミの頭がもふりと当たる。
「・・・夜の中で起きたことはすべて知っている。なりかけの娘を助ける材料を探しているのだろ」
もごもごと毛の中で喋り、夜の王は身を起こした。
「私が手伝ってやろう」
フィニィは大きく目を見開いた。
夜の王はにんまりと笑みを広げる。
「おいでフィニィ。エリトゥーラはいない。お前が頼れる相手は私だけだ」
差し伸べられる手は昼の子と同じ色と形であったが、とても不気味に感じた。
そもそもキーラがなりかけに陥っているのは夜のせいなのに。
どうしようか迷う手を王は待てずに先に掴んだ。
「まずはラクスラだったか」
ぎゅうぎゅう握る手が痛い。
フィニィはたまらず悲鳴を上げた。
「どうした」
痛い、とフィニィは訴えた。手首の先が潰れてしまいそうだ。しかし夜の王はなんのことかわからなかった。
握られている手を指すと、「ああ」と力を緩める。
「このくらい? まだ痛いのか? もっとか? 本当か? 逃げるつもりではないだろうな?」
夜の王は疑り深く、移動中もフィニィをちらちらと確認していた。
彼も魔女と同じで歩くのではなく宙を滑るように動いている。
夜の国に満ちる光は王の移動にあわせて消えていく。去ると背後にまた光が戻る。
彼の国であるのに、まるで彼だけが嫌われているようだ。
二人は霧の立ち込めた花畑にやってきた。
霧も夜の王がくるとどこかへ失せてしまった。
「おいで」
王の召喚に応え、四方から青い水が集まってきた。
足元で老婆の形となったのは、しかし、ラクスラではなかった。
レイス、とフィニィが呼ぶと老婆は慄き、そしてとても恨めしそうな色を浮かべた。
妬ましそう、でもある。
「この子はもう沼の乙女ではないよ。年老いてラクスラになった。お前を沼に沈めた他の二人もそうだ。みんなみんな老いてしまった」
若返ることはないのだという。いつかラクスラもさらに老いて消えるのだ。
フィニィは鞄から小瓶をそっと出した。
「お前をわけておあげ」
ラクスラは小瓶に噛みついた。
反射的にフィニィは目を閉じたが、ラクスラが触れたのは手元だけ。小瓶いっぱいに水を残して去っていった。
「次は光吸石だったか」
光を吸収し、陽の魔法を内部に閉じこめておける特別な鉱石だ。不死鳥のいる岩山にも少しある。
ただ千年もの光を浴びているかは見ただけではわからない。
しかし夜の王はそれが夜の国にもあるのだという。
「私の国には常に陽の光が満ちている」
夜の王が呑み込んだ世界の光の半分。
陽の欠片たちが発する光を吸い込んだ石は、緑の炎の踊る岩場にたくさん転がっていた。
光吸石は、黒い針のような鉱物が中に走る透明な石で、中心に丸い光の塊を閉じ込めている。
足の生えた炎が跳び回る間にフィニィはしゃがみ、石を二つ手に取ってみた。
どれが千年の光を浴びた石か、夜の王に尋ねると「どれでも」と言う。
「いつ呑み込んだか覚えていない。ずっとずっと前からそこにあった。これらは私の国にありながら私を受け入れない。受け入れぬために陽を中に籠めている」
夜の王は石を一つ拾い、片手で砕いた。
金色の光の靄が闇に散る。黒い欠片がぱらぱらと落ちた。
「・・・砕けば染められる。が、それではだめだ。私は損なわぬ形で欲しい」
長身を折り、石を拾うフィニィの頭の左右に両手を掲げた。
触れはしない。
しかし光の映らない黒い瞳がフィニィは薄ら怖かった。
子供が石を三つ鞄に入れるまで待つと、夜の王はすぐに次のところへ連れて行った。
今度はフィニィの訪れたことのない場所だった。
木の家の残骸が辺りに散らばっている。
空気の中には灰が舞っていた。フィニィが歩くと、地面や残骸が崩れて灰になる。
何もかも乾き、朽ちている。
空に漂う白い灰は雪のようでもあった。
「あれだ。フィニィ。あそこに埋まっている」
夜の王が灰の山を指した。
フィニィが手で掻いていくと黒い小さな生き物が出てきた。
真っ黒な顔面の目と口の部分に真っ赤な穴が開いている。
大きさは赤子ほど。
黒い虫のような手足が六本生えていた。
「・・・マウリ?」
黄色のちぎれた紐が黒い子の脚に絡まっていた。
マウリは故郷の村ごと夜の国に呑まれていた。あるいは村にいるはずの両親を求めて自分で歩いてきたのかもしれない。
いずれにせよ、キーラがいくら夜の森を探しても見つかるはずはなかったのだ。
「生まれたばかりの子供は陽をあまり浴びていない。他より容易く夜に染まる」
マウリは六本の脚でフィニィに抱きついた。
脚の先は尖っている。地面に突き立てて歩くためだろう。それがフィニィの背にも食い込んだ。
魔女の服は何にも貫かれない。
しかし、痛みすべては防げない。
フィニィは小さく呻き声を漏らした。痛くて苦しくて、とてもじゃないが立ってマウリを連れて行くことなどできなかった。
マウリもまた、口から赤い液体を流して呻き続けている。
「もう置いていかれたくないのだ」
夜の王が灰の上の子供らを見下ろしていた。
「死んでも離さぬために手足が増えた。この子自身がそうあるよう望んだ。可哀想な捨てられた者。誰にも愛されなかった。ひとりぼっちの寂しい子」
マウリの力がさらに増す。
悲しみを紛らわせるように、不安を埋めるようにしがみつく。
フィニィは必死に耐えていた。
「お前も同じだよ、フィニィ」
そこへ夜の王が絶望を落とした。
「エリトゥーラはお前を置いていった。目覚めるまで待つことだってできたのに、そうしなかった。あの子はお前を捨てたのだ。エリトゥーラはもうこの世のどこにもいない」
それは絶対に考えてはいけないことだった。
もし考えてしまったら恐怖に何もかも食べられてしまう。
フィニィはフィニィでいられなくなる。
なのに夜の王は平気で口にした。
フィニィがどんなに探しても求めるものは最初からなくて、何もかもが無駄で無意味で徒労だと。
「――ぃ、ぅっ」
胸の内側がねじ切られるように痛んだ。
耐えられなくてフィニィもマウリを強く抱きしめた時、背中に食い込む脚が少しだけ緩んだ。
「あ゛、あ゛・・・」
マウリの目の穴から赤い涙が流れていた。
冷たいそれが頬に触れてフィニィは気づいた。
夜の王はマウリとフィニィが同じだという。
ではフィニィが魔女に捨てられたのだと思ってしまえば、マウリもキーラに捨てられたということになってしまう。
(ちがう)
誰の言うことも正しくはないと厩の男は言っていた。
フィニィは思い出した。
正しいはまちがいで、確かなことは自らで見つけなければならない。
「ち、がう、よ」
喉をひくひくさせてマウリに言った。
「何が違うものか。この子は姉に捨てられた」
捨てられていない、とフィニィは言い切った。
キーラは夜の森でマウリを探していた。ずっと後悔していたのだと。
「後悔が赦しにかわるものか。ユハヤの慰めにはならない」
「ち、がう。マウリ」
夜の子としての名前など付けなくていい。
フィニィは王の妨害に負けず懸命に話した。
キーラはマウリを愛していた。そうでなければ夜の子になりかけない。
魔女は約束どおりフィニィを迎えにきてくれた。だから持っていた鞄が洞窟の中に移動していた。探しに行ける用意を整えて、怪我をしても死なないように清浄の水菓子を作っておいて、今度はフィニィが見つけにくるのをどこかで待っている。
キーラもマウリを待っている。だから自分たちは同じなのだと告げた。
するとマウリの六本脚がぼろりと崩れた。
落ちて、砕けて、見えない塵となる。
フィニィが抱えている体も少しずつ崩れてきた。
「・・・赤子の体は脆い。とうに限界だ」
夜の王が静かに言った。
「この子の親たちは先に灰になった」
村の大人たちはユピの根を切った。ユピを傷つけ呪われた。
夜の呪いは悲惨な死を与え、夜の魔法は望まぬ生を与える。
だが、マウリは夜の子になってもあまり長く生きられるようにはならなかった。
腕の中で崩れて消えていく。
キーラのもとへ連れて行きたくても動かせば崩壊が早まってしまう。
フィニィは泣きながら見ているしかなかった。
マウリはずっと誰かを呼ぶように啼き続けていた。
やがて跡形もなく消えた。
ちぎれた黄色の紐だけが残った。キーラとマウリを繋いでいた背負い紐の切れ端である。
フィニィが顔を上げると夜の王は泣いていた。
自分がマウリを夜の子に変え、さんざんひどい言葉を吐いたくせに、両目からとめどなく涙の粒を零していた。
悲しいのと訊くと、悲しいと答える。
「お前たちが夜の中で悲しむから私は悲しくなる」
夜の王は夜の中にいる誰かの心に共鳴してしまう。痛みも苦しみも寸分違わず感じてしまう。
彼の広める悲しみは彼自身に返ってくるのだ。
だから王はいつでも悲しく、寂しく、つらい。
「――その紐を持っておゆき。これで材料がそろった。お前の望みは叶う」
最後は耐えられなかったかのように、黒い外套を翻して消えてしまった。




