夜の魔女1
「――正しさとはなんであろうな」
誰かが低く喋っていた。よく知っている人の声だ。さらに、もぞもぞと何かが首の後ろで動いている。
「それは、きっとあるのだろう。なければ困る。善悪という言葉が空虚なものになってしまう。だからなければならぬ」
これまで嗅いだこともない奇妙な匂いがした。瞼を開けると、視界の中にぼんやりと光が見える。周囲の岩壁が内側から柔らかい光を発しているのである。
壁の窪みに作られた棚に枝や葉を詰めた瓶、何かの実、羽、干物などありとあらゆるガラクタじみたものが整然と並べられていた。その下に鉄の大釜が据えられている。
ここは洞窟の中に作られた誰かの住居のようだった。
「だが――例えば、例えばだ。この世にすべからく適応されるべき正義があるとする。その論理の前で余人はどんな横やりも入れられず、無力にひれ伏すしかない正しさがあったとする。その世界は幸福だろうか?」
あまりにもぞもぞするので首を動かしてやると、下から茶色いネズミが這い出てきた。フィニィの顔の横で、前足を頭の後ろから前に動かし、せわしく毛づくろいをし始める。
「正義の眼が常に私を背後から監視し、永久に未来を決定づける。私が苦痛に悶え、己と誰かの血反吐の中からやっと拾い上げた答えすら否定され得る世界。傍らの正義の顔色を窺い続ける世界。奴隷しか生きられぬ世界だ。想像するだけで私は――死んでしまいたい」
フィニィは反射的にネズミの体を掴んだ。
「し、しなないでっ」
声を出した途端に涙が溢れた。
冗長なネズミの語り口に別の人物を連想し、自覚した。フィニィはあの時、あの馬房で、男にそう言いたかったのだ。
フィニィに掴まれてもネズミは気づかず頭を抱えている。唸るほど痛むらしい。フィニィは起き上がり、腿にネズミを乗せて、首だか頭だかわからぬ場所をなでてやった。
ぽたぽたと、うつむいたまつ毛の先から雫が手の甲に落ちる。
それを、横合いから黒い爪が掬った。
フィニィが驚いてそちらを見やれば、ベッドの支柱にいつの間にか黒髪の女が顎を乗せていた。
端正な顔立ちの女だった。作り物のようにすべてが整い過ぎていた。ただの人間と違って耳がなく、かわりに両側のこめかみの辺りから、ガラス質の虫の羽のようなものが二枚ずつ生えており、その表面に虹色の光が揺らめいていた。
瞳は紫色で、中に結晶の薄片が漂い、不思議な光を呈している。
朱色の薄い唇から、這い出た舌が指を舐めた。
「臭い」
女はわずか、顔をしかめる。
そうして立ち上がると、夕方の影のように長くなった。黒いひと繋ぎのドレスを着ていたため、よけいにそう見える。
フィニィはネズミとともにベッドの端まで逃げ、壁に背をつけ縮こまった。
「昼の子。なぜ夜の森にきた?」
女の声は、気を失う前に聞こえた声と同じだった。
昼の子とはフィニィを指している。ユピの森にいるのが夜の子で、森の外にいるものが昼の子だ。
フィニィは何をしに森にきたわけでもなく、どう答えれば良いのかわからなかった。恐怖と喪失感はまだ続いており、うずくまって震えるばかりだ。
ふと、気配が離れた。
フィニィが目線を上げると、女は大釜の前にいる。
大釜はフィニィを一人くらい丸ごと煮てしまえそうなほど大きいが、下に火を焚くスペースはなく、地面の上にそのまま置かれていた。
女は棚から取った草木を無造作に釜の中へ放り、長い柄杓でかき混ぜる。すると洞窟の中に籠っていた匂いが変化した。
「陽を一匙」
柄杓に息を吹きかけ、何もない中身を大釜に注いだ途端、金色の光が吹き上がった。
粉雪の舞う朝に、陽が差し込んだ時のような光景だった。うずくまっていたフィニィは思わず手を伸ばす。
指の間や甲に金砂が付いた。
あらゆる角度からそれを眺めているうちに、やがて消えた。
女は大釜の中身を椀に掬い、フィニィに渡す。
黒いどろどろとした液体が三分の一ほど入っていた。
「飲め」
生まれた時から奴隷のフィニィは、命じられると逆らえない。
一気に飲み干し、そして吐き出した。
胃がひっくり返るようなまずさにすべて戻してしまうと、女がすかさず柄杓で受け止め、己の口に運ぶ。
途端に彼女もえづき出した。
「ぅおえぇ・・・なんという、糞のような記憶だ。反吐が出る」
顔の横の羽が細かく震えていた。
女は実際には何も吐き出さず、ひととおり咳き込み口元を拭う。
「逃げた奴隷が他に行くところもなく、森へ逃げ込んだか。いかにも可哀想な子だ」
女はベッドに腰かけ、薄く笑みを浮かべた。
「フィニィ」
当たり前のようにその名を呼ぶ。
「私は夜の魔女。ここでお前を唯一救える者だ」
「救いだとっ?」
真っ先に反応したのは、フィニィに抱かれているネズミである。
「私はかつて、皆を救いたかった。だが、誰にも望まれていなかった。水面に出されぬ手を掴むことがどうしてできよう。私の説く希望は受け入れられなかった。誰もが冷たい水底の、重い泥に押し潰される生を愛していた。私は暗い水中で無意味にもがき、自らも沈んでいったのだ。私は私すら救えなかった」
またもネズミの独白が始まると、女は不愉快そうに鼻に皺を寄せた。
「哲学屋気分のネズミが」
フィニィは目を大きくし、ネズミと女を交互に見やった。
「・・・アトロス?」
それは厩で共に過ごした男の呼び名であった。意味不明な独りごとばかり呟く男に周囲の人間が皮肉を込めて付けたあだ名であったが、フィニィは本名だと信じ込んでいた。
「さあ。そのネズミがお前の言う哲学屋かどうかは知らないが、そいつは魂を夜に囚われた何かだ。ろくでもない死に方をしたのだろう。夜はみじめな魂を好んで取り込む。お前も、ここにいればいずれ夜の子になる」
ユピの森の外では、夜に命を絶ってはならないと言われていた。肉体を離れた剥き出しの魂は夜に容易く呑みこまれ、二度と日の下に生まれ変われなくなるという。
そしてユピの森の中では肉体ごと侵され、永遠におぞましい夜の子として森をさまようことになるという。
「何になるかはお前の在り方次第。おぞましい姿になりたくなければ、そうだなあ、例えば、この夜の魔女に尽くせば、少しはまともなものになれるだろうなあ」
魔女を名乗る女は、実は最初からそのつもりであった。
彼女は異様なほどに美しく、怖いのか、優しいのか、威圧的なのか、気さくなのか、まだなんとも掴めない。唯一フィニィがわかるのは、このまま森の外に戻れば、自分は夜の子にならないかわりに、元の主人に嬲り殺しにされるということだけだ。
フィニィは、語るうちにうとうとしてきた哲学ネズミを、きゅっと握りしめた。
大事な友はここにいる。森の外に置いてきたものは他にない。
顔を上げて、フィニィは魔女に働くと答えた。
「では手始めにその臭い体をどうにかさせろ」
魔女はフィニィを掴み上げ、いきなり大釜の中に放り込んだ。
あまりに唐突なことで、フィニィはうっかり、釜の中に満たされていた黒い液体を飲み込んでしまう。
先ほど飲んだものと違い、特に味はしなかった。ただ腹の中で生き物のように蠢いている。息継ぎに上がろうとする頭は柄杓で小突かれ沈められた。そのうち、またきらきらした光が釜から吹き上がり、その勢いに飛ばされフィニィは地面に投げ出された。
衝撃に咳き込むが、液体は吐き出されず、髪も体も濡れていない。
破れていた奴隷の服はフード付きの上着とズボンに変わり、革の丈夫なショートブーツを履かされていた。
垢も糞尿も落ちている。
魔女は満足げに腕を組んだ。
「その服はいくら着ていても汚れない。火に焼けず水に濡れない。この世の貫くもの、斬るもの、擦るもの、すべてを防ぐ。お前が大きくなれば伸び、小さくなれば縮むぞ。一生大事に着るがいい」
上着のフードがもぞもぞすると思えば、哲学ネズミはそこに入っていた。釜に入れられた拍子にフィニィの手から離れたのだ。案外と居心地良さそうに丸まっている。
魔女は館の主人よりもずっと上等なものを与えてくれた。
では、その対価となるフィニィの仕事はなんなのか。
「さっそく材料集めを手伝ってもらおう」