王国の兵士1
赤々と焚かれた幾百本もの松明が、地平に沈む夕陽のかわりに、濃くなりゆく闇を晴らす。
夜の森の前では王国の兵士たちが防衛の柵を作り、数多の天幕を張り、陣営を築き上げていた。
フィニィはそのうちの一つの天幕に連れて行かれ、隅で震えている。
縛られてはいないが、逃げられない。
瞼の裏から、夕闇の中で串刺しにされたナーヴァの影が離れなかった。
薄い天幕の向こうでがちゃがちゃと響く兵士たちの鎧の音が怖い。笑い合う声が怖い。
フィニィは魔法薬の入った鞄を持たずに出てきてしまっている。
今は何もできないただの子供だ。哲学ネズミを両手で握りしめ、フードを目深にかぶり、どうにかして自分の存在を兵士の目から隠したかった。
なのに兵士たちはかわるがわる話しかけてきたり、食べ物を渡そうとしてくる。
フィニィは一言も口をきかずにいた。
「様子はどうだ?」
大きな体の兵士が新たに天幕にやってきた。
フィニィは声に聞き覚えがある。空から落ちたフィニィをはじめに抱き上げた男だ。彼はその後フィニィを部下にまかせてどこかに行っていた。
子供がずっと怯えていることを部下に聞くと、彼らを下がらせ、フィニィの前に自ら膝をついた。
「安心しなさい。ここに君を傷つける者は一人もいない」
男は誰より優しい声音で言う。
フィニィはほんの少しだけフードの下から片目を覗かせた。
短い顎鬚の生えた四角い顎が見えた。
「私たちは、あの鳥の化け物を追ってきたんだよ。あいつは小さな子供ばかり攫って殺してしまう。もう何人も犠牲になっていた。――私の息子も」
思わずフィニィは顔を上げた。
焦げ茶色の髪に青い目の男。悲しみと、静かな憎悪が瞳の中に渦巻いていた。
「・・・まだ五歳だった。夜の森に行ったわけでもない。家の庭で遊んでいただけだった。あの子にも妻にもなんの落ち度もなかった。突然夜の子が空からやってきて、息子を攫いその後に骨だけ見つかるなんてそんなことが、誰に予測できただろう」
男の息子はナーヴァに攫われて死んだ。
家から遠く離れた平原の川沿いに、指輪を首から提げた子供の死体が見つかったのだ。その指輪は息子が生まれた時に男が贈ったもので、男の家の家紋が刻まれていた。
男はナーヴァが殺したのだと言う。
しかしフィニィは少しだけ違うと感じた。ナーヴァは子供を愛している。故意に殺しはしない。
ただナーヴァは子供の育て方を知らないのだ。
可愛がり、あやしはするが、ナーヴァは自分が物を食べないために、子供に食べさせなければいけないことが理解できない。
ゆえに殺したのではない。死んでしまったのだ。
しかし。
「夜はいつも理不尽に私たちから光を奪う。だから我々は戦うことにしたんだ」
殺したのか死なせたのか、そんな違いは男にとって意味がなかった。
「一度逃がしてしまった時には肝を冷やしたが、君を助けることができて私たちは心から喜んでいるんだよ。もう夜の子は二度と我々の国にこさせない。安心していい。約束する」
一瞬現れた深い憎悪の色を沈め、男がフィニィに向けるのは慈愛と決意の眼差しだ。
フィニィはどうしてよいのかわからなくなった。
「君の名前を教えてくれないか」
フィニィは迷い、やがてか細い声で名乗った。
男はほっとした表情を見せる。
「家はどこにある? 村か町の名前を言えるか?」
フィニィは首を横に振る。
生まれた場所なら、陣営のあるこの領地。館が今もあるのかフィニィにはわからないが、どうであれ、あの場所は《家》ではない。
「・・・ない」
消え入りそうな声でフィニィは言った。
「ない? 家がないのか?」
フィニィは頷く。
男は逡巡してまた尋ねた。
「両親は? 君の帰りを待っている人もいないのか?」
いない、とフィニィは答えた。
男はフィニィをすぐにでも親元に送り届けるつもりだった。この軍隊の中でそれだけの権限を彼は有しているのである。
しかし昼の世界にフィニィの帰る場所はどこにもない。
夜の森に入る以前から、ずっと存在していなかった。
フィニィはまたフードを深くかぶって丸まった。今は闇の中だけが居場所だ。
「――それなら、フィニィ、私の家にくるか?」
不意に、フードの上から大きな手が頭をなでた。
「夫婦二人と使用人がわずかにいるだけの寂しい家だが、君がきてくれたら賑やかになる。妻もきっと喜ぶだろう。――ああ、いや、息子のかわりになってくれと言ってるんじゃない。私も君の父上のかわりにはとてもなれないだろう。それでも、私たちは寄り添い合って生きるべきなんだ」
夜の孤独に呑まれないように。
男は切に言い募る。
予想もしなかった言葉にフィニィはただ驚いていた。
陽の当たる居場所。手を差し伸べてくれる優しい人。
奴隷だった頃には夢見ることもできなかった存在が今、目の前に現れたのだ。
フィニィは哲学ネズミをきゅっと握りしめた。
「・・・それを正しいと信じた時、すでにあなたはまちがえている」
眠たげなネズミの声に兵士たちの顔が凍り付いた。
「想いは正しくない。まちがいではない、というだけだ。私がそうだ。あなたもそうだ。旗に掲げて蹂躙すれば凶刃に倒れる。当然のことだ」
彼が誰に向かって語りかけたつもりかはわからない。あるいはいつもの寝言の延長線で、自分でもわかっていないかもしれない。
いずれにせよ周囲の人間にとって重要なのは、ネズミが口をきいたということの一点。
「夜の子、か?」
兵士の誰かが呟いた。
それまでの眼差しが一瞬で変わる。
フィニィは天幕の隙間から飛び出した。
夜の子だ、とその背を指して兵士が周りに連呼した。
「待て殺すなっ」
男が弓を引き絞る部下を咄嗟に制止するも、他の兵たちがフィニィを追う。
フィニィは松明の照らさない闇を選んで駆け抜けた。
いつかの夜のように走りながら泣いている。
怖いのと、悲しいのと、それから嬉しかったのと、様々な感情を心が処理しきれず涙として溢れていた。
とにかく早く、魔女のもとへ帰りたかった。
木を組んだ柵の隙間を抜けた時、夜の森の前には夕焼け色の獅子がいた。
飛びくる矢を避けながら獅子はフィニィを迎えにゆき、フィニィはその長いたてがみに掴まった。
子が自力で背までよじ登ると、獅子はすばやく夜の森へ身を翻す。
そのまままっすぐ洞窟に辿り着いた。
魔女は外でフィニィを待っていた。
「ご苦労」
魔女は獅子の頭をなでてやる。役目を果たした獅子は満足し、森の奥に消えていった。
「さて――ナーヴァは死んだか。外の兵士どもはまだ何かする気のようだな。夜の子を殲滅するつもりか?」
フィニィの記憶を覗き魔女は状況を把握した。
そしてフィニィがどうするのかと尋ねると、「どうもしない」と言う。
「夜の森に入れば夜の子になる。ユピを傷つければ呪いを受ける。どれだけ望んでも奴らにはどうにもできない。おいで、そろそろ腹が空いた頃だろう」
差し出された手を越えてフィニィは魔女に抱きついた。
これ以上、何も起きなければいい。
ただそれだけを願っていた。




