星の子1
『フィニィ。今日はアンテのお願いを聞いて』
水銀色の小さな夜の子に声をかけられたのは、フィニィが洞窟の前で哲学ネズミの尻をつついていた時だった。
魔女のお使いがなく暇だったため、寝て食べてうわごとを言うばかりのネズミを少し運動させようと思ったのだが、ネズミはまったくやる気を出さない。
他にしたいこともなかったフィニィは、いいよと答えた。
『花をたくさん集めるの』
森を歩きながらアンテのお願いの詳細を聞く。
哲学ネズミは微塵も動かなかったくせにフードの中ですでに寝入っていた。
『アンテの秘密の場所をフィニィに教えてあげる。フィニィはアンテのかわりに花を摘むのよ』
小さなアンテは花を摘めるほどの力がない。そのくらいフィニィにはお安い御用である。
魔女のくれた大きな肩掛け鞄に入れていくらでも花を持ち運べるだろう。
アンテの導くままにフィニィは夜の国を通り、別の森へ出た。
闇の中、どこからか風が吹いてくる。
そちらへ足を向けると間もなく夜の森が途切れ、舳先のような狭い崖の上に出た。
夕日が凪いだ海原に沈もうとしている。
フィニィは初めて海を見た。
そこには想像以上に何もない。風と、波の香りと音、光と影。怖いくらいに開けた世界があるだけ。
生き物のいない海面を光が自由に跳ね回る。
その光景に見惚れるフィニィを覗き込み、アンテが嬉しそうに声を弾ませた。
『フィニィの目に星が入ってるっ』
陽の輝きを映した黒い瞳がアンテには星空に思えたのだ。
我に返ったフィニィが視線を下げると、崖の上では群生したアルメリアが海風に揺れていた。細い茎の先端に咲いたピンクの丸い花。白い花の株もところどころに交じっている。
フィニィはそれらをいくつか摘んで、萎れないよう清浄の水菓子に茎を差しておいた。
他の花畑でもまだまだ摘む予定なのだ。
『次は山よ』
再び夜の国を通り、二人はある山の谷底にやってきた。
そこはまだ青空であり、左右に切り立つ山肌に挟まれた場所に黄色のキンポウゲが敷き詰まっていた。
山の上のほうには人の小屋と思しき影が見える。
あそこに住む昼の子はきっと幸せだろうと、アンテは羨ましそうに言っていた。
『アンテも夜の国の花畑で時々眠るの。ううん、ほんとは眠れないけど、眠るふりをするの』
ここでアンテはその様子を再現してみせる。
地に降りると彼女の体はキンポウゲの中に容易く隠れてしまう。フィニィは見失う前にアンテを両手で掬い出した。
手のひらの上でもアンテはしばらく目を瞑っていた。
陽の光のもとにある彼女は、きらきらと眩しい。
『フィニィは、森にきた時から体は変わってない?』
うっすら瞼を開き、横になったままアンテが尋ねた。
実際、夜の森にきてからどのくらいの月日が経ったのかフィニィには見当もつかないが、体の縦の長さも横幅も大きく変化してはいない。肌の色や髪の艶がよくなったくらいである。
『それって、エリトゥーラが夜の侵食を魔法で遅らせてるおかげなの。ゆっくり慣らしていけば、姿形や魂がまったく変わってしまうことはない。これからもエリトゥーラの麦粥を毎日食べてね。おいしくない日も、あるかもしれないけれど』
フィニィが頷くのを見てから、では次へ行こうとアンテは四枚の羽を動かした。
今度の場所は、丘の上に水色の花が広がっていた。
ケシである。
丘には一本だけモミの木が生えており、その下で毛足の長い牛が休んでいた。
夜の森から出てきたフィニィのほうを窺っているが、動く気配はない。暁の作る影の中で口をもごもごさせているだけだ。
アンテはフィニィが花を摘む間、陽に消されゆく星影を見つめていた。
寂しそうなのでも悲しそうなのでもなく、ただ目に焼き付けるように。
「アンテ」
両手に持てるだけ花を摘んだフィニィは、これで足りるかアンテに確認する。
アンテは笑って、十分だと答えた。
『鞄がもういっぱいね』
開けっ放しの口から色とりどりの花が溢れている。
フィニィはそれらをもう一度詰め直し、新たな花をいれるための隙間を作った。
『まだ入る? よかった。もっとたくさんの花が必要なの。夜の国の花より、昼の国の花がいい。星の光を浴びている花がいい。そうだからきっと、花はどれも星の光の形をしているのよ』
フィニィの持つケシの花を、アンテは潰さないように抱きしめる。
『アンテは星の子なの。地上に落ちた星と夜が交わって生まれた子。アンテはずぅっと、《お母さん》みたいな星になりたかった。だけどアンテは小さい。星のいる空までは飛べないの。――だからアンテは花が好き。星の形をしているから好き。アンテの周りに花をいっぱい散らして、フィニィ。地上に星空を作って。そこでならアンテは星になれる』
フィニィは、《お母さん》はどうしたのかと尋ねた。
アンテは寂しそうに、「消えた」と答えた。時の流れとともに崩れてなくなってしまったのだという。
星さえも永遠には存在できない。フィニィはそのことがとても悲しくてつらかった。




