厩の男
一日の仕事を終えたフィニィは、館の厨房の勝手口を叩き、癇癪持ちのメイドから夕食として拳半分のパンをもらった。
寝床に辿り着くまで待ちきれず、パンの端を奥歯で少し齧る。これだけが今日の労働に報いる対価であり、長い明日を生き抜く糧となる。
フィニィは他の奴隷たちより体が小さく役立たずだからと、ケチな主人はこれぽっちしか与えてくれない。
フィニィはまだ六つだが、奴隷の母がこの貴族屋敷の厩で生んだ子であるため、最初からもう奴隷であった。今も厩の空いた馬房を寝床としている。
死んだ母に代わり、馬房にはやせ細った男が一人。
重ねた藁に寄りかかり、かろうじて生きている。
間もなく枷から手首を抜けそうだ。
フィニィは井戸から汲んだ水をパンによく吸わせ、男の口元に持っていく。以前噛みしめて紫色に腫れてしまった唇がかすかに動くが、一向に食いつくことはなかった。
「・・・いいんだ。もう」
よく聞けばそう言っていた。
男が息を吐くと、長く溝に溜めた汚泥のような匂いがする。
そのまましばらく動かなくなったため、フィニィはパンを齧った。
館の玄関に焚かれているかがり火が、かすかにこの厩からも見える。一番星が二つ東に並んで輝く今は春。領内には青い麦が広がり、大地の上にあらゆる生命が漲っている。
その中で、ここだけはどの季節も糞尿と死の匂いに包まれていた。
「・・・不当な人生だ」
フィニィが食べ終えた頃、男が喋り出した。
いつもこの男は一人で何かしら喋っている。それをフィニィは横で静かに聞いている。
「生まれた場所で生き続けることは幸せだろうか。停滞は安寧か。一日の労働の対価がパンの一欠けらであることに何も思わず生きる、奴隷とは奇妙な生き物だ。必ず糧が手に入るだけ野の獣よりはましか? 他の、手に入るはずだったすべてを奪われても本当にそう思えるか? 私は私を奴隷たらしめた者たちがこんなにも憎らしい」
骨ばった拳を握り込める。薄い皮が今にも破れてしまいそうだった。
この男のもともとの素性をフィニィはよく知らない。男は母が死ぬとかわりにやってきて、はじめの数か月を除き半年もここに繋がれている。
仕えて早々に主人に逆らったのだという。他の奴隷たちにも嫌われて、フィニィ以外は誰も男に近づかない。
だから勝手に男に食べ物を分け与えていることがばれたフィニィは、さらに夕飯を減らされてしまっていた。
「領主に私を告げ口した者、あれも奴隷だ。憎む相手が違うとは思わないのか。あいつも正当な扱いを受けていたわけではないのに、なぜ忠実であろうとする。なぜそれが己の役割だと思う。なぜ奴隷は奴隷のままであろうとするのだ? フィニィ」
急に話を振られ、フィニィは何かしら考えようとしたが、疲れた頭はうまく動かなかった。
すると男は悲しげに言った。
「生きることが正しいと思っているからだ。生きていくためには奴隷であるしかないのだ。だから私は今夜、死ぬことにした」
フィニィは目を見開いた。
枷から手を抜き、男はその小さな頭をなでてやる。
「フィニィ。今、君が正しいと思っていることの多くはまちがいだ。いいか? 正しいは、まちがいだ」
「・・・ただしいは、まちがい?」
「そうだ。館から火が見えたら、ここを出て走りなさい。どうか忘れないでおくれ。誰の言うことも正しくはないのだ。今日信じた正義には明日裏切られるのだ。言葉など無意味なのだよ。だからこそ――黙って、日々の糧を分けてくれた君だけが、信ずべき友だった」
男は厩を出て行った。
それから間もなく、ぱちぱちと爆ぜる音に馬たちが騒ぎ始める。
フィニィは馬房を飛び出した。
一度も振り返らず、夜道を駆ける間に瞳からは涙が溢れた。
どこへ行けば良いのかはわからなかった。ただ人のいる場所にはいられない。フィニィの背中には持ち主を表す焼き印が押されており、脱走が見つかれば殺されてしまう可能性があった。
背後の熱に急き立てられ、町を避け、村を避け、行き着く先は深い森だった。
そこは館の地下より暗く、周辺の人々は決して立ち入らないようにしている場所だ。
冬にも葉を落とさないユピの木が空を覆い隠し、その下は夏の日差しの中でさえ闇を抱えたまま。
ゆえに大昔の誰かが【夜を生む森】と名付けた。
この森から夜が生み出され、世界の光を半分奪ってしまったのだという。
森の中には夜の子と呼ばれる異形の生き物がおり、それらが恐ろしい魔法を使う。具体的にどれほど恐ろしいものなのかフィニィは知らない。ただ恐怖のみが伝えられていた。
森の前でフィニィは一度立ち止まった。大勢の人が入ってはいけないと言っている場所だ。しかし他に逃げ込めるところはない。
(・・・ただしいは、まちがい)
フィニィは男の言葉を呪文のように頭の中で唱え、木々の闇へ足を踏み入れた。
夜の森の中は何も見えなかった。素足の感覚だけを頼りに奥へ潜る。どこかにあるかもしれない出口をひたすら探し、さまよう。
怖くて、痛くて、たまらなかった。
自分の息の合間には、何かのうめき声が聞こえた。
それに気づいて急ぎ口を塞ぐ。目を凝らしても影と闇の区別もわからない。うずくまり、必死に息を殺して気配が行き過ぎるのを待った。
だが、その上に何かが落ちてきた。
ちょうど背中の服の隙間に入り込み、フィニィは悲鳴を上げる。
「何をしてる?」
耳元からの声がとどめとなって、フィニィは気を失った。