舞台俳優ブランドン/もっと光を/栄養満点スパイシースープ 2
その日、外ではしずしずと雨が降っていた。
普段より妙に湿度が高く、不快度の高い日だった。
気圧が低いせいか、生地や服を整理しているキャロルもどこか本調子ではない。
「今はまだ弱い雨ですけど、明日から嵐になるみたいです。はー、やんなっちゃいますねぇ」
キャロルがそんなことをぽつりと呟いた。
「毎年この時期は仕方ないさ。秋も近いしね」
モーリンはそう言いつつも、キャロルと同じくどこか憂鬱そうだ。
「てんちょー。お店の方はどうしましょ……てんちょー?」
「え? あっ、嵐でしたっけ。じゃあお客さんも来ないでしょうし、その日は休みにしましょうか」
ジルは、物思いに耽っていて反応が遅れた。
どうにも夢を見て以来、空模様や天気が気になって仕方がなかった。
「このへんは夏から秋にかけてよく嵐が来るんだよ。建て替えしたときに雨戸も新品にしたから、しっかり戸締まりしておけば大丈夫じゃないかい? 不安なら大工を呼んで色々と準備してもらうけど」
「そうですねぇ……貴重品は屋敷の方に持っていって、あとはモーリンさんの言う通りしっかり戸締まりするくらいにしておきましょうか」
「あいよ」
「嵐を止められたら良いんですけどねぇ」
「あっはっは、確かにそりゃ良い。家も壊れないし人も怪我しないからね」
モーリンがからからと笑い、そして肩をすくめた。
「でも来ないなら来ないでそれも困りもんなんだよね。川や湖が干上がっちまっても困っちまうし」
「ですよねぇ。バランス良く降ったり晴れたりすると人間にとっては嬉しいんですが」
「そうはいかないのがお天道様ってもんさ」
しみじみとした雑談を交わしていた、ちょうどそんなときのことだった。
ドアにつけたベルが鳴ると同時に、一人の客が入ってきた。
「おおい、まだお店やってるかぁ?」
「あっ、普通のお客様」
その客は、仮面を被っていなかった。
エミリー夫人のファンなどではなさそうだ。
それ以前に、女性でさえなかった。
「普通?」
「ごめんなさい、なんでもないです。いらっしゃいませ!」
改めて入ってきた客を眺める。
ジルは普通とうっかり口に出してしまったが、とんでもない。
なんとも迫力のある美丈夫だと、ジルはひと目見て思った。
オールバックにしたつややかな漆黒の髪。
張りのある小麦色の肌、高い背、そして分厚い胸板。
服は、ワインレッドのチュニックさらりと着こなしている。
目鼻立ちがくっきりしており、背筋がぴんと伸びている。
妙に大きく見えたが、実際の背丈はそこまででもない。
視線と姿勢がまっすぐで、不思議と大きく見える。
そんな男だった。
「眺めても良いかい?」
「ええ、どうぞ。男性用ももちろんございます。ぜひ手に取ってご覧下さい。試着されるときは声を掛けて頂ければ」
「ああ、ありがとう」
声も張りがある。
声楽か何かの訓練を受けていると思わせる、惚れ惚れするような美声だ。
恐らく顔立ち以上に、声こそがこの人の魅力なのだと思わせる。
「ふぅん……。聞いてはいたけど、これは面白いじゃないか……」
男は、しげしげと服や小物を眺めている。
特に興味を示したのはアロハシャツだ。
模様や形状をつぶさに観察している。
「なあ、店員さん!」
「あっ、はい。なんでしょう?」
「これ、他の色はないのか? たとえば白地で絵だけがあるようなものは?」
「ごめんなさい、今は切らしてますね」
「惜しいなぁ……そういうのがあれば舞台で映えるんだが」
「舞台?」
ジルがきょとんとした顔で呟いた。
そこで、キャロルががジルに説明するように口を挟んだ。
「あのう、間違ってたらすみません……金糸雀座のトップスター、ブランドン様ですね?」
「おや、もしかしてファンかな? はっはっは、ありがとう!」
ブランドンと呼ばれた男が、眩しい微笑みを浮かべた。
◆
ブランドンは雪花絞りのシャツを一着買い、さらりと帰っていった。
ついでに「また改めて来る」と意味深な言葉を残して。
「すみませんキャロルさん。金糸雀座って何ですか?」
「この街で一番評判の高い劇団ですよ! 私、びっくりしちゃいました……!」
「ああ、演劇をやってらっしゃる人ですか」
なるほど、とジルは納得した。
立ち居振る舞いがそこらの貴族よりもどこかぴんとしている。
人に見られることを当たり前のものとして受け入れている、そんな気配を感じた。
ジルが一瞬、どこかの王族なのかと思ってしまったくらいだ。
「歌も歌いますが、やはり演技の評価が高いですね! 私もたまに演劇を見に行くんですけど、本当にすごくって……!」
「キャロルさん観劇趣味があるんですね」
「特に、投獄された男が死刑を受けるまでの十日間を描いた『ロアールドの十夜』の死刑囚役がもっとも評判が高いですね。過ちを犯し、悔い改め、復讐者に対峙する演技は批評家の評価も高いんです」
「はぁ」
「他にも、魔族と人間の許されない恋を描いた『魔王裁判』、三人の王子の愛憎に満ちた王位争いを描いた『三羽鴉』、脛に傷を持つ博徒や元犯罪者たちが開拓民になり、罪を悔いながら力を合わせて宿場町を作る『暴れ竜食堂』など、様々な演目で活躍しています。情念のこもった演技には定評があって……」
そしてキャロルは早口であれこれと演目と登場人物の名を挙げつつブランドンを絶賛した。
「ええと、キャロルさん、ファンなんですか?」
「…………はい。すみません、つい熱くなっちゃって……」
キャロルが恥ずかしそうに俯いた。
「いや、でも、この街でファンじゃない人間というのはそうそういないんですよ、本当に」
「面白そうですね、私も機会があれば見てみます」
微笑ましいものを見た気持ちになった。
だが、キャロルは首を横に振った。
「いえ、チケットは普通には手に入りません。予約しても半年……いや、一年後の公演になるかも」
「え、そんなに!?」
「そのくらいの俳優なんです。ブランドンは」
「はぁ……」
凄い人もいるものだ……と思い、あれ? とジルは気付いた。
「そんな凄い人が、なんでウチに?」
ジルの疑問に、モーリンが答えた。
「エミリー夫人あたりから伝わったんじゃないのかい? あの人、観劇趣味もあったはずさね」
「……もしかして、けっこう大変なことになったりします? あの人に触発されてお客さんがたくさん来るとか」
ジルも当然、物を売るために雑貨店を営んでいる。客が来るのは喜ばしい。だがこのまま客が押し寄せて「期待させておいて肝心の商品がない」という事態になることは避けたかった。
「いや……どうでしょうね?」
キャロルの返事は曖昧だった。
「あれ?」
「ブランドンのプライベートってあんまり知られてないんですよね。お忍びで行動してるか、ずっと稽古してるかのどちらかって、ファンではもっぱらの噂です。街で見かけたのは私も初めてですし……これはすごく珍しいですよ」
「へぇ……」
「芝居以外のことでもてはやされたりするのが苦手なんだとか。そういうストイックな姿勢を含めて老若男女問わずファンから好評を得ていて……」
「凄い人なんですねぇ。でもそれなら、ブランドンさんのファンが押しかけて大変なことになる……ってこともないですかね?」
「ですね、多分大丈夫だと思います」
キャロルの返事に、ジルは安心してホッとする。
だがジルは、すぐに見積りが甘かったことを知ることになる。





