遺されたもの 1
ジルは分かれ道のところで、街には寄らずに森へと直行した。
目的地は誰もいない屋敷なのだから、本来は街で食料を買い込むなり休憩なりをしてから向かうべきところだが、ジルはそんなことに頓着せず目的地へと急いだ。
森へ行く道には、文字が彫り込まれた岩があった。
『このさき、ダイラン王室管理区域 許可なき者の立ち入りを禁ず』
と、古めかしい書体で彫られていた。
ジルはカラッパの背に乗ったまま、森の中を進む。
森は深く、そして暗く、どこからともなく恐ろしげな鳴き声が響いてくる。
狼の魔物や、鳥の魔物がうごめいているのであろう。
奇妙なほどに生気に満ちあふれている。
生々しい獣の吐息さえも感じられそうだ。
ジルは魔物除けの香を焚こうかと思ったが、やめた。
おそらくカラッパの方が嫌がるであろう。
それに、焚く必要もあまりなさそうだった。
「ぶくぶく!」
カラッパが魔力を込めると、煌びやかな光がジルとカラッパの周囲を包み込んだ。
「これ【障壁】の魔法……。あなた強いのね?」
【障壁】とは、害を与えんとするものをはねのける防御のための魔法だ。
物理的な攻撃も、魔法による攻撃も通さない。
ジルの父、国王アランの得意とする魔法でもある。
「グルルゥ……ガオッ!」
「ギャッ!?」
時折、障壁の魔法にぶつかってくる狼や鳥がいたが、見えない壁に衝突して自分自身にダメージを与えていた。間抜けな魔物がいたおかげで、周囲から魔物の気配がさざなみのように消えていった。森の魔物は、ジルとカラッパを油断ならない強者と認めたのだろう。
「あそこの門の方まで進んでくれる?」
「ぶくぶく」
ジルはカラッパから降りて、鎖と錠前によって厳重に閉ざされた門の前に立った。
鉄格子でできた門と、その左右に伸びる石壁はあまりにも無骨だ。王家の別荘ではあるが、まるで牢獄のような厳重さを感じさせる。
事実、ここは牢獄としての役割も持っている。この屋敷は、王家の人間が罪や不始末、あるいは何かしらの病を患った際に閉じ込める場所としての役割も担っていた。
「【解錠】」
ジルが自分の指先を針で刺し、血の一滴を錠前に垂らした。
すると錠前の中から、がしゃり、という音が鳴り、手も触れないのに外れた。
錠前に通されていた鎖もするするとほどけ、鉄格子の扉がぎしぎしと音を立てて開いていく。
「行きますよ」
「ぶくぶく」
◆
カラッパを庭に残してジルは屋敷の中に入った。
幽霊屋敷だ。
ジルは一目見てそう思った。
朽ち果てているわけではないが、何とも言えない薄気味悪さがあった。
夕暮れに紅く染まる屋敷は、まるで血塗られたかのような色合いだ。
三階建ての建物で、一階には大きなエントランスホール、大きな食堂と厨房、そして浴場。そして、夜会でも開催できそうなほどの広間がある。
二階は寝室や客間のようだ。ベッドが二つ据え付けられた部屋が十部屋ほど並んでいる。
三階は恐らく、ここの屋敷の主人のプライベートスペースなのだろう。書庫や書斎、大きな寝室。そしてこじんまりしたカウンターテーブルと食器や酒類が収納された棚がある。
とても綺麗な屋敷だ。それゆえに、不気味だった。
どれも、十年以上放置されたようには見えない。家具や建物に傷みや劣化がないわけではないが、それにしても少なすぎる。改装などせずとも十分に住めるだろう。その不気味さを我慢して、ジルは屋敷の中を探索した。
「……何かあれば良いのだけれど」
ジルはこの屋敷を与えられたときに、悲しさの中でほんのわずかな喜びを感じていた。
ここは、若き日のコンラッドが数年間滞在していた場所だからだ。何か彼の残したものや普段使いしていたものがあれば、とかすかな希望を抱いていた。
コンラッドが戦争で戦死して、王城に送り返されたものは武具だけであった。
先代の王はコンラッドの死を大いに嘆き、報復を決意した。
だが実のところ、コンラッドが死んだから報復に出たのではない。戦線を拡大するための口実として、コンラッドに死んでもらう必要があったのだ。だからこそ生きては帰れないであろう危険な場所へと送り出された。
コンラッドは戦争など望んではいなかった。だから、墓に武具が飾られたことなどジルには我慢がならなかった。彼は美を愛し、日常の中の喜びを愛し、平和を愛した。せめて、コンラッドらしい遺品があればと思ってジルはこの屋敷を探索した。
だが、それらしい物はなかった。
年代物の蒸留酒を寝室で見かけた。もしかしたらコンラッドの物かもしれないが、彼は酒は嗜む程度であった。ジルの父のアランの方がよほど酔っ払いだ。書庫にある本は、王城の書庫にあるものとあまり代わり映えしない。魔法の教本や歴史書、古典などだ。これこそはコンラッドの物だ、と思えるものはなかった。
「何もない、か……」
ジルは溜め息を付きながら、窓から外を眺める。
廊下から入る日差しはあまりにもおどろおどろしかった。自分の影さえも化け物のように長くたなびいている。
ここは、ただの牢獄なのだ。
ジルはそう結論付けた。どんなに豪華で綺麗な建物であろうが、あるいは居心地が良かろうが、中に住まう者が表舞台に出ることを防ぐための牢だ。いや、閉じ込めるだけならばまだ良い。危険視されるか、あるいは捨て扶持さえ惜しいと思われれば暗殺者が送られることさえもありうる。
「もう、良いですね」
ここで、ジルは心を決めた。
屋根へと出る方法を探したが、それはすぐに見つかった。
三階のベランダに、屋根へ登る足場が付いていた。
びゅうびゅうと吹く風を感じながらジルは屋根へと向かった。
「どうするか迷ったけれど、飛び降りが良いかしら。首を吊っては屋敷が汚れてしまうし」
ジルは、ここですべてを諦めた。
それ以外にできることなどなかった。
ジルは、伯父コンラッドが好きだった。
ここまで来たのも彼の痕跡を探すためだけのことだった。
それが失われた今、ジルが生きる意味さえない。
せめて仇を取るべきとも思ったが、それさえもできなかった。
コンラッドを死地に送った先代の王もまた、戦争の中で死んだのだから。
生き残ったのは先代の王の酷薄さを受け続いたジルの両親。
そして魔法の才能も酷薄さも持ち合わせていないジルだ。
誰にも愛されず、何もなしえない人間が、いつまで生きていても仕方がない。
いや、むしろ生き長らえることが有害でさえあった。生かされているということは、王家にとってはまだリスクよりも多少上回る利用価値があると見なされていることを意味する。王も王妃も、親子の情で無駄に命を生かすような人間ではない。
例えば、より重要な貴人が敵国に捕らえられてこちらが人質を出さざるをえない事態や、あるいは王の血が絶えそうなときに適当な魔法使いの男をあてがったりするときのための保険だ。
逆にそうした想定をする必要がなくなれば、ジルを殺しに来る者が現れるであろう。
つまりジルが今ここで死ぬことが、王家にわずかながらでも傷を与える唯一の方法だ。
「さよなら」
屋根から景色を一望する。
下から見上げたときは薄気味悪かったが、上からの視界は意外に爽やかだった。
屋敷を汚したくないとジルは一瞬思ったが、死が露見されないのも困る。
そこでジルは、正門に近い場所を目指した。
ここがもっとも目立ち、そして後の掃除も楽だろう。
だがそこで、ジルはとある物に気付いた。
「何かしら……?」
丁度ジルが飛び降りようとしたところに、傷があった。
よく目を凝らせばそれは文字だ。
ジルはそれを読み上げた。
「ええと……『ここに立つ者へ。飛び降りる前に書庫の隠し棚を開けよ』……?」
◆
ジルは今までの自殺願望などすっかり忘れて、急いで書庫へと戻った。
ジルは書き置きを信じて棚を荒らすように探した。
ふと我に返ると本が床に散らばっており、まるで強盗か何かのようだとジルは自嘲する。
だが、それでも良かった。
このために、ジルはここに来たのだから。
「どこ……? どこにあるの……!」
額に貼り付いた汗も、空腹も無視して、とにかくジルは書庫を探した。
そして小一時間ほど汗みずくになって探して、一冊の奇妙な本を見つけた。
「……これは?」
本は固定されて、ジルの力では引っ張り出せなかった。
それ以前に、本ではなかった。
表紙、装丁を付けられて本に偽装した、木の板だ。
「あ、動く」
ジルはあれこれいじる内に、この木の板を押し込めることに気付いた。
それは、ジルの細腕でも問題なくするりと書架の裏の壁に押し込まれていく。
半分ほど押し込まれた段階で、
がたん!
という音が鳴った。
隣の書架が、ゆっくりと横に滑っていく。
そこに、隠し棚はあった。
観音開きの、小さな棚だ。
錠は掛けられていない。
恐る恐る、ジルは棚を開いた。
そしてジルは見つけた。
一枚の手紙と、奇妙な本を。