凶運のキャロル/覆水は盆に返り、割れたカップも元通り/悪魔のガトーマジック 1
※更新再開しました、よろしくお願いします。
※早くて3日おき、遅くて週イチくらいのペースで更新していくと思います。
※みなさんの応援のおかげで書籍化決定しました。本当にありがとうございます!
ふぁーあーあああーあぁぁーあー、と盛大で長ったらしいあくびをすると、伯父様が優しい声で語りかけてきた。
「起きたか? おはようジル」
「コンラッド伯父様、おはようございます! ……でも、まだ暗いですよ?」
「そりゃあそうだろう。朝はお前が作ってくれなきゃ夜のままだぞ。なんせここは洞窟。真っ暗闇の世界なんだからな」
「あっ、忘れてた……【照明球】」
私は【照明球】の魔法を使った。
すると、私の手から光を放つ球が現れる。
球はふわふわと泳ぐように天井の方へと移動し、私たちのいる場所を白く照らした。
これは【照明】を改良してできあがった魔法だ。この洞窟に居ると、何故か私はいつもより強い魔法が使えるし、コントロールもますます磨きが掛かる。何より、魔法を喜んでくれる人がいる。
「伯父様、おはようございます」
「うむ、おはよう。他の部屋にも『朝』を届けてくれるか?」
「わかりました」
そのまま【照明球】を十個ほど放つ。
突風に流される紙袋か何かのように、ふよふよと空中を漂っていく。
「お前らー、朝だぞー!」
伯父様がみんなの寝室に向けて声を張り上げた。
「ダスク、ドーン。さっさと起きろ。ほら【照明球】が届いてる」
「まだ眠いよ……時間ズレてない?」
「もう王女様は起きてるんだ。しゃきっとしろ」
寝室の方から、ねぼけた声が聞こえてきた。
洞窟生活三十五日目。
今日もまた、楽しい一日が始まる。
◆
「みんな、食べながらで良い。話を聞いてくれ」
朝食は、大広間に集まってみんな一斉に食べる。
大麦、毒抜きした天使マイタケ、そしてスプラウトを茹でたお粥。
メインのおかずはモグラのソテー。
これがいつものメニューだ。流石にこればっかりだと単調で飽きてくるが、伯父様はみんなが飽きてくるタイミングを見計らって風味や味付けを変えて食べる人を楽しませる。食材もそんなに手に入らないはずなのに工夫を凝らす伯父様は、やっぱり料理の天才だと思う。
「なんですかコンラッド様」
伯父様に尋ねたのはリッチーだ。
背が高く、黒髪のオールバックで眉が細い。
いかつい外見で私は最初怖がっていたが、すぐに打ち解けることができた。
顔に見合わず優しい性格で、そして歌が大好きだったからだ。
特技は美声と計算、そして節約。
食料の残りを計算したり、地図と実際の工事現場を照らし合わせて的確に命令したり、リッチーの立てた計画は一切の間違いがない。
どうして複雑な計算が上手いのかと聞くと「悪魔の助けを借りている」と答えた。悪魔使役という不思議な魔法の使い手だそうで、しかもその悪魔は計算問題を与えると喜んで解いてくれるらしい。伯父様はそんなリッチーを頼りにして、いろんな相談をしていた。なので伯父様はリッチーの注意には逆らえない。
「俺たちはこうして、ジルを守るために穴蔵生活を続けてるわけだ。王女を守る騎士なんだぞ」
「ええ、そりゃそうですとも」
「だってのに……むさい。ダサい。なんとも格好が付かん。そうは思わないかお前ら?」
伯父様が、芝居がかった仕草で両手を広げて嘆いた。
だがそこに反論したのがダスクとドーンの兄弟だ。
「そんなこと言っても、服なんてみんな一張羅じゃねえですか。あの『魔法の筆』を使って良いってんなら別ですけど」
ダスクはトンガリ頭でガサツ。ホラ吹きでいっつも怒られてる。こないだも『金塊が埋まってる!』って言い出したけど、見つかったのは銅貨だった。けれど人を悲しませるような嘘は吐いたことがなくて、「面白けりゃなんでも良いじゃねえかよ」が口癖。パーカッション……太鼓が得意でリズム感がバッチリ。
「そうだよ。魔法は無駄遣いするなって言ったのコンラッド様じゃん」
ダスクの弟のドーンは変な髪型。頭の横は刈り上げてて、真ん中だけ伸ばしてる。もひかん、って言うらしい。臆病でいじめられっ子のドーンを心配してダスクが無理矢理この髪型にしたけど、実際この髪型のおかげでいじめっ子にケンカに勝ったのだとか。ダスクに励まされたドーンは、一番ケンカも強くて根性がある。すごく大変な穴掘り作業でも、文句一つ言わずに黙々と進めている。
「雨乞いも、逆雨乞いも、けっこう面倒くせえんだからな。イザってときのために取っておきたい。けど確かにオシャレくらいはしてえな。どうなんですかいコンラッド様」
ダスクとドーンは、雨乞いが大得意で、逆に雨を遠ざけることもできる。洞窟の穴を掘り進めてるときに水たまりとぶつかっても、二人がいればちっとも怖くなかった。
「そうだな、魔力についてはちょっと緩めても良いと思う。多少の余裕はでてきたよな、リッチー?」
「そうは言っても、無駄遣いができるほどじゃありませんよ? 規律正しい生活を維持できるならば、という条件付きならば緩和しても構いませんが」
どうせできないでしょ? と言わんばかりにリッチーが言葉を返す。
だが、伯父様はにやっと笑った。
「そう。そこだよ、俺たちに足りないものは。俺たちは規律の維持ができない。それは何故か? 規律を守るために必要なモチベーションが足りてねえんだ。そのモチベーションを得るにはどうすれば良いと思う、ガーメント?」
ガーメントと呼ばれた黒髪の少年は、静かに言葉を返した。
「意図がわからないからイエスともノーとも言えない。本題は何だ?」
ガーメントはこの中で一番年下で、一番寡黙な少年だ。そしてびっくりするほど上手い絵を描く。伯父様でさえも認めるほどで、この洞窟で見つかった『魔法の筆』を任されている。
性格は皮肉屋だけど、本当は優しい子。仲間の誰かがつらくなったときや悲しくなったとき、ガーメントは何にも言わずに魔法の筆でその人の見たいものを描いてくれる。リッチーがみんなに『魔力は節約しろ』って口酸っぱく言うけれど、ガーメントにだけはあんまり言わない。本当に必要なときに他人のために使うからだ。
「ったく、十五のガキのくせに可愛げがねえなぁ。そんなお前に浪漫に満ちた提案をしてやろう」
「だからコンラッド、前置きが長い」
「騎士団を結成するんだ」
そのコンラッドの言葉に、全員がぽかんとした表情を浮かべていた。
「それこそが、ここにいる俺たちに足りないものだ、わかるか? 目的を表す称号や名前が無いんだよ! それがないから生活も漫然とする……それじゃあダメだ。もうすでに俺たちには、誇りある使命があるんだ。だから、それに見合うカンバンってもんがなけりゃいけねえ」
「ええと、コンラッド様。それはつまり……名前を付けるってことですか?」
リッチーの困惑気味の質問に、伯父様が笑顔で頷く。
「その通り! 良いかお前ら。今日から俺達は、地下に潜んで王女を守るという崇高な使命に生きる騎士団……巌窟騎士団だ!」
◆
伯父様がよくわからないことを言い出したときは、大体そのまま事態が動く。
最終的に出てくる言葉が面白おかしいだけで、意外と理に叶っているのだ。
「ダラダラやってたら魔法で作ったマントもティアラも消えちまうからな。叙任式もテキパキ行こう」
広間に、鎧と白マント姿の男たち五人が横一列に並んでいる。
そしてその男たちに向かって立っているのが私だ。
私も服の上に白マントを身に纏っている。
違うのは、私がティアラを付けて剣を腰に差していることだ。
「ええと、伯父様、どうやるのですか?」
「流れとしてはまず、叙任を受ける側がお前の前に跪く。そしてお前は、『そなたは愛と正義と真実の守護者となり、アルゲネスの平和を守る者となることを誓うか?』と聞くんだ」
「はい」
「騎士の方はそこで『誓う』と答える。次にお前は、剣の平で騎士の肩をぽんぽんぽんって叩く。右、左、右って感じで。そして最後に首を抱いて、『正しき騎士に天の恩寵がありますように』と祈りの言葉を捧げる」
「わかりました!」
「よーし、良い子だ」
伯父様が、ティアラがずれないように優しく私の頭を撫でた。
「くすぐったいです」
「おう、すまんすまん。お前らも流れはわかったな?」
伯父様がそう言うと、ガーメントが挙手をした。
「どうしたガーメント。トイレは行っとけよ」
「そうじゃない! 質問だ! 俺とコンラッドは騎士になっちゃまずいだろう。王族たる者が王以外に仕えるのは許されない」
「いちいち細けえなぁお前。王子や王女が騎士になっちゃいけないなんてルール、この洞窟にはねえんだよ」
「細かいかそれは? それに『アルゲネスの平和を守る者となることを誓うか?』なんて文句じゃないだろう。本来は国の名前が入るものだ」
「だって、お前は『ダイラン魔導王国の平和を守る』とは誓えないだろう。オルクスの王子なんだから。だったら角の立たない文言にするのが一番だ」
「それはそうだが……」
「おいおいガーメント、お前はジルの許嫁だろう? 許嫁を守りたくないってのか? はぁ、そんな情けない男に俺の姪はやれないなぁ」
やれやれ、と伯父様が露骨に溜め息を付く。
伯父様の悪い癖だが、私も同じような癖を持っていた。
「ガーメント……私の騎士は嫌なのですか?」
できるだけ精一杯、悲しげなふりをする。
こういうときは目を見せないのがコツだと以前伯父様が言っていたのでそれにならうと、ガーメントは驚くほど焦りだした。ちょっと面白くて、嬉しい。
「い、嫌とは言ってないだろ。形式を気にしてるだけで……俺はどういう形であれ、きみを守る。そこに不服などない」
「よし、じゃあやるぞ。リッチー、お前からだ」
「あ、おい!」
ガーメントの文句を無視してリッチーが一歩前に出た。
リッチーも他の皆も含み笑いをしている。
毎日こんな感じなのだ。
私は、目の前で跪くリッチーに呼びかけた。
「リッチー。そなたは愛と正義と真実の守護者と成り、アルゲネスの平和を守る者となることを誓いますか?」
「誓います」
「あなたの優しい悪魔と共にこの巌窟を守り、伯父様が無茶を言い出したときにはちゃんと止めるって誓いますか?」
「もちろん誓います」
リッチーの肩を、ぽんぽんぽんと剣で叩く。
「正しき騎士に天と地の寵愛がありますように」
「なぜ地の寵愛と?」
「ここは空が見えないし、天っていうのは光を出してる私しかいないじゃないですか。なら大地の恩寵も居るかと思いまして」
「なら天の恩寵だけで十分ですよ。貰えるものは貰いますが」
「はい、よろしい」
リッチーが満足げに下がる。
次はダスクの番だ。
「ダスク。そなたは愛と正義と真実の守護者と成り、アルゲネスの平和を守る者となることを誓いますか?」
「おうよ! 任せとけ!」
「水の災いを避けて安寧をもたらすこと、みんなが疲れたり元気をなくしたときは一番に声を張り上げて勇気付けること、そして兄弟仲良くすることを誓いますか?」
「はっはっは、弟とケンカなんてしたこたぁねえよ!」
「嘘はだめです」
「……まあちょっとはケンカもするが、ちゃんと仲直りしてるさ」
「良いです。正しき騎士に天と地の寵愛がありますように」
ダスクの肩をぽんぽんぽんと叩く。
そしてダスクは意気揚々と下がっていき、妙に緊張しているドーンがやってきた。
「ドーン。そなたは愛と正義と真実の守護者と成り、アルゲネスの平和を守る者となることを誓いますか?」
「う、うん。誓うよ」
「水の恵みをもたらし、真面目に一生懸命に頑張り、でも挫けそうになったときはちゃんとみんなを頼ると誓いますか?」
「もちろんさ!」
「正しき騎士に天と地の寵愛がありますように」
ドーンの肩をぽんぽんぽんと叩く。
ドーンは照れくさそうに下がっていく。
すると私の前に伯父様が進み出た。
「あれ、伯父様は最後ではないのですか?」
「俺が最後と行きたいところだが、そこは婚約者に譲ってやろう」
「わかりました」
「そこはちょっと躊躇って欲しかった」
伯父様の言うことはたまに難しい。
まあ良いか、と思い私は式を進める。
「コンラッド。そなたは愛と正義と真実の守護者と成り、アルゲネスの平和を守る者となることを誓いますか?」
「ああ、誓うよ」
「自分が一番年上で身分が高いからって、なんでもかんでも一人でやらないって誓いますか?」
「おいおい、そんな風に見られてたのか?」
「誓いますか?」
「ああ、誓うよ。これで良いか、ジル?」
「伯父様はずっと私の伯父様で居てくれると誓いますか?」
「もちろんだ。辞めたいなんて思ったことは一度もないさ」
「正しき騎士に天と地の寵愛がありますように」
伯父様の肩をぽんぽんぽんと叩く。
すると伯父様は、私のティアラがちょっとズレてるのを直してくれた。
「そういうの、始める前にやってください。ていうか伯父様が最初に撫でたからズレたのでは?」
「そうだな、すまん」
くっくと笑いながら伯父様が引っ込む。
最後に出てきたのは、ガーメントだ。
真面目な顔でまっすぐ私の方を見つめている。
他の人のように、冗談めかした態度がまるでない。
伯父様流の冗談みたいな儀式なのに、こっちが恥ずかしくなってしまう。
「……ガーメント。そなたは愛と正義と真実の守護者と成り、アルゲネスの平和を守る者となることを誓いますか?」
「ああ、誓う」
「……えっと、その」
さて、何を誓ってもらおうか。
他の仲間に対してはパッと思い浮かんだのに、ガーメントに対してはどう言ったものか言葉が出なかった。絵が上手で、仲間思いで、私の婚約者。
でも伯父様がいきなり決めた婚約で、彼はそれに納得しているのだろうか。なんとなく流されてる空気がある。からかったりすることはあっても、こういう改まった場面で聞いたことはなかった。
「ジル。俺は……」
私がまごまごしている内に、ガーメントの方が口を開いた。
「俺は、お前の許嫁として、お前を守ることを誓う」
「あ……」
「みんなが退屈してるときは絵を描いて元気付ける。あとは……皮肉もなるべく控える」
「なるべくなんですね」
「口癖は簡単に直らない」
「皮肉を直せとは言いませんが、もうちょっと他人のこと、言葉でちゃんと褒めてください。誤解されますよ」
「わかった。誓う」
「……正しき騎士に天と地の寵愛がありますように」
ガーメントの肩をぽんぽんぽんと叩く。
こうして結成したのだ。
洞窟だけの、猫の額ほど小さな領土の巌窟王国で。
王女を守ると誓った巌窟騎士団が。
◆
ぱりん、と陶器の割れる軽い音が響いた。
「あー、しまった。やっちゃいました」
橙色の髪の、どこかおっとりとした雰囲気の少女が呟いた。
声に少々落胆を滲ませてはいるが、さほどの深刻さはない。
まあしょうがないかーという割り切りの方が強いような、そんな気楽な声色だ。
『誘惑の森』の屋敷の主人のジルは、そんなマイペースであっけらかんとした少女であった。
「ご主人様、怪我はないかい?」
「ああ、モーリンさん。大丈夫です」
「触っちゃ駄目だよ。今片付けるから大人しくしてな」
背の高い、すらりとした黒髪のメイドが声をかけた。
ジルが雇ったメイドのモーリンだ。
態度はどこかぶっきらぼうだが、主人のジルを心配してきびきびと動く。
すでに箒とちりとりを手にしており「どいたどいた」とばかりにカップを片付けようとした。
「あ、ちょっと待ってくださいね。【液体操作】」
ジルが魔法を唱えた。
すると、こぼれて絨毯や床板に吸われたはずの紅茶がみるみるうちにジルの指先に集まっていく。数秒後には、手のひら程度の大きさの、琥珀色の水玉となっていた。
「……いつ見ても器用なもんだねぇ、御主人様の魔法は」
「それくらいが取り柄ですから。えいっ」
ジルが指先を弾く。
すると水玉はふわふわと浮游しながら、屋敷の外の側溝へと飛んでいった。
「こらこら、器用が取り柄ならカップを壊さないもんだよ」
「うっ、それを言われると反論できませんね……」
「確かに珍しいですね、ジルさんが手を滑らせるのは」
と、ジルの正面に座る男性が言った。
細身で、モーリンより若干身長が高い。
そして口調も表情もどこか穏やかなものだが、目の奥の輝きはどこか鋭い。
モーリンの兄であり、何かとジルの面倒を見ている商人のマシューだった。
「なんだか変な夢を見たんですよね……それでつい考え事をしてしまって」
「変な夢と言いますと?」
「子供の頃の夢で……なんだか変な洞窟で出られない生活をしてる夢でした」
それを聞いたモーリンが、昔を懐かしむように笑った。
「狭いところに閉じ込められる夢ってのはよくある悪夢さ。ウチの子供らも、小さいときは怖い夢を見たって泣いてたもんだよ」
「いやそれが、ちっとも嫌な気分ではなかったんですよね。むしろ凄い楽しくて……妙に具体的でした」
「具体的? どういうことだい?」
「人の名前がたくさん出てきたんですよね……顔もけっこう覚えてます。洞窟に居たのは伯父様と、伯父様の部下みたいな人たちで……。で、その六人で洞窟の中で楽しく暮らすって感じの内容でした」
「コンラッド様がいる? ってことは子供の頃の思い出とかじゃないのかい?」
「いや……そういうわけでもないんですよね。洞窟で暮らしたことなんて流石にないですし」
ジルはコンラッドの庇護下で育ち、だが十歳の頃に引き離された。
コンラッドは戦争へと赴き、それ以降はずっと王城で暮らしている。
(鎧を着た伯父様の姿は見たことないはずなのに……。それに、あの絵筆は……)
ジルが夢の中で見た人間に、コンラッド以外に思い当たるものがあった。
それは絵筆だ。
黒髪の少年が絵筆を振れば、キャンバスも何も無い空間に色が置かれて様々な物を作り出すことができた。夢の中の叙任式で男たちが着ていた白いマントも、魔法の絵筆によるものだった。
(まさかイオニアさん……? いや、でも顔や髪もちょっと違いますし……)
しかもあの少年は、ジルに好意を持っていた。
そして夢の中のジルも、恐らくは心惹かれていた。
ジルの心に、ほんの少し夢の余韻が残っている。
くすぐったく恥ずかしく、それでいて温かなもの。
夢とは思えないほどの実在感や生々しい感情の残り香。
しかし、心当たりがまったくない。
コンラッドが決めた許嫁など、ジルはまったく聞いたこともないし顔も見たこともない。
「うーん……わかりません」
椅子の背もたれに体重を掛け、あーあとジルは溜め息をついた。
あらためて考えて見ればただの夢でしかない。
ジルが諦めて忘れようと思ったとき、モーリンが割れたカップを捨てようと場を離れた。
「あ、待ってくださいモーリンさん! 割れたカップはまだ捨てないで!」
「ええ? こりゃ流石に使い物にならないよ」
「はい。ですので修復しようと思います」
「修復って……接着剤でも使うのかい? でも流石にカップは止めといた方が良いよ。変なのを使うと茶に毒が混ざっちまう」
ジルたちの住む大陸――アルゲネス島において、接着剤は未発達だ。決まった規格などもない。澱粉による糊や、松ヤニ、ニカワなどは存在するものの、錬金術師や薬師が接着力を高めるため勝手に調合しているため、毒性があったりなかったりする。均一な規格製品がないのだ。
加えて、接着剤の主な使いみちは木や革製品、そして美術品としての陶器の補修などだ。食器や素肌に付けるものに向いた接着剤はあまり認知されていない。さらに接着した部分を塗料で誤魔化さなければならないため、実用品からはますます遠ざかる。
「ですよね。だから試してみたいものがありまして」
「おや? 何かやりたいことがあるのですか?」
「ふふふ、成功すればちょっと面白いものができるかもしれません」
マシューの問いに、ジルは意味深に微笑んだ。
「それは楽しみです。できたらぜひ見せてくださいね」
「ええ、もちろん! さて、紅茶淹れ直してきますね。ちょっと頭を切り替えないと。そろそろお店の準備もしないといけませんし」
「店舗物件を借りるのもこれからですし、焦らずとも大丈夫ですよ」
「ですねぇ……居抜きの空き店舗なんかあれば良いんですけど」
ジルたちは雑貨店『ウィッチ・ハンド・クラフト』の開店にあたり、シェルランドの街の中に支店を作る計画をしていた。以前マシューが「この屋敷をそのまま店舗に使うのはもったいない」という助言をしており、ジルが聞き入れた格好だ。
「あることはあるんですが……」
マシューが意味深に呟く。
それにジルは敏感に反応した。
「え、あるんですか!?」
「でも……訳あり物件なんですよね。ちょっとお薦めするか迷っていまして」
「訳あり物件?」
ジルが興味深そうに尋ねる。
だがマシューは腕を組み、なんとも渋い顔をしていた。
「幽霊屋敷なんだそうです」
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