【2・麗のお願い】転院しよう。生きるために。
「今日はどこに行こうか、麗?」
神崎は車のドアを開け、愛しの麗ちゃんこと恋人の塩野義麗を助手席に座らせると、麗のスカートの裾を直し、シートベルトを締めてやった。
☆ ☆ ☆
来日後、神崎は早速麗の転院を進めようと思っていたのだが、あいにく彼女の父親が出張中だという。
既にGSS社系列の総合病院を手配済みだが、勝手に娘を転院させたとあっては、麗のパパ上に怒られてしまう。婿失格となっては本末転倒だ。
結局、パパ上が東京に戻ってくる週末まで、会合の予定がずれこむことになった。
その間、検査のある日を除き、麗とドライブを楽しむ日々が続いていた。
何年も入院生活をしている麗は観光はおろか、都内ですらほとんど出歩いたことがないという。彼女がこんなことになっているなら、諦めたりせず、探し続けていれば良かった。まったく、自分はなんてクソッタレ野郎だ、と神崎は自分を責めた。
ここ数日神崎は、はとバスの運転手よろしく東京スカイツリーだの、レインボーブリッジだの、浅草だのと、都内の名所を案内していた。稀に、海外からのVIPのお忍び旅行の警護をすることがあり、一緒に観光地を巡ったことを思い出す。
車は彼女のためにわざわざ購入した、静音性の高い外車のセダンだった。もちろん、彼女とのドライブデートで楽しい語らいをするためである。彼女が元気になったら、もっといろんな場所に連れて行こう。この国に初めてやって来たときから思ってきたことを実行したい、そんなことをずっと考えていた。
それほど珍しい場所でもなかろうに、と思いつつ、それでも自分の傍らで無邪気に喜ぶ彼女を見ていると、今までの、血を吐くような苦しさと、空白の時間を忘れることが出来た。やはり、自分はこのために生きているのだと、神崎は素直に感じられた。
喉元過ぎれば……じゃないが、結構自分は現金な奴だなぁ、とも。
この日もどこか観光に連れていこうと、病院の駐車場で神崎はカーナビと相談をしていた。とりあえず、おおざっぱに「道を星から聞いた」ので、今日のコースを設定して、病院の駐車場からゆっくりと車道に出た。
「今日は、麗のお願いなんでも聞いてくれるんだよね? 有人さん」
どういうわけか、昨日いつのまにやら約束をさせられていた。
もっとも、金銭的に済むことであれば、自分の財力でほとんどの願いは叶えられるはずだから、と神崎はあまり心配はしていなかった。
「病気に響かない程度なら、何だって。……で、どんなお願い?」
強い日差しに目を細めつつ、ハンドルを持つ右手の人差し指は、カーステレオから流れる音楽に合わせて拍子を打っている。
「あのね」
「うん」
「あのね、」
「なに?」
「私を女にして欲しい」
「ぶっ!」
いきなり衝撃的な発言をされたので、思わず変な方向にハンドルを切ってしまった。慌てて車の方向を立て直す。
(アクセルを踏み込んだんじゃなくて良かった……)
「ちょ、危ないじゃないか急に変な事言って……。後続がいなかったから良かったけど」
「変じゃないよ」
麗は大真面目な顔で、バックミラー越しに神崎の顔を見た。
神崎は横目で麗の真剣な表情を見て、彼女の気持ちが『覚悟完了』である事を悟った。
過去、何度も彼女の夫であった自分が、その都度彼女の最初の相手となれるのは、気持ちとしては至極当たり前で、悦びだった。逆に、稀に誰かのお手つきだった場合には、独占欲の強い彼は、しばらくヘコんでいることもあった。だからといって彼女への愛情が変わるわけではなかったが。
「んー……。俺だって男ですから、そういうお願いをされるのはイヤじゃないし、お願いを叶えるのにやぶさかではないけど……。でも、理由が知りたいよ。ホントの」
しかし、今回ばかりは事情が大幅に違っていた。恋い焦がれ合う上で、求め合う結果ではなく、彼女には別の意図が隠れている。納得のいかない『お願い』は、いくら恋人とはいえ、イヤと言うときは言う。
またヘンなことを言われても困るので、神崎は車を路肩に停車させた。
「やっぱ言わないとダメ?」冗談めかして麗が言った。
「ダーメ」無邪気な麗相手に、神崎も子供っぽく返す。
「そっか。あのね」
「うん」
「――処女のまま死にたくない」
彼女の声のトーンから、明るい色が消えていた。
「え……それって……」
余命宣告はされていないはずだったが、やはり彼女は己の死期を悟っていたのだ。
「知ってるよ? 私、もうじき死んじゃうんだって」
そう、明るく答えた。下の句に、『だからなに?』とでも続きそうな言い方だった。
「そ、そんなことないよ」
そうだ。そのために自分は帰ってきたんだ。
あの病院に入院している限りは、死ぬまでの時間をほんの少し遅らせるだけだが、うちの系列病院に入れて、万策を尽くせば、必ず助かる。いや、助けてみせる。だから――。
「有人さんだって、お母さんから聞かされてるんでしょ? 昨日、廊下からお母さんが泣いてるの見たもん」
「それは…………ああ、そうだよ。余命のことは知ってる」
ここではぐらかす理由もないため、ストレートな麗に、そのままストレートに返す。
無論その余命宣告が覆ることは自分の中では確定事項だったが、不確定な現状では、麗にはまだ言えない。彼女のロストバージンを思いとどまらせるために、無理に未定の情報を、彼女にねじ込むことが得策とも思えない。
どうせ遅かれ早かれ、そういう間柄になるのは昔から確定しているのだから。
「長生きなんかしたことないから、短いのが不幸だとかわからない」
「それはそうかもしれないが……」
麗の言うとおりだった。短い生涯を終えるネズミでさえ自分が短命であることなど知りはしない。生き物は皆、自分の中の時計でしか、時間を計ることなど出来ないのだから。
(だけど、少なくともキミが地上にいない間は、俺は不幸確定だ)
「だから、どうせ短いなら、出来るだけしたいこと、何でもしたい」
そう語る麗は、何故かとても楽しそうだ。知識欲が、生きる糧そのもののようだった。
「前向きだね、麗は」小さくため息をついて、苦笑しながら言った。
「そうかな。ん~……ただ単に、欲張りなだけだよ♪」
麗は左腕にしがみついてきた。今朝、病院の洗髪台で髪を洗ってやったときの、シャンプーの香りが漂ってくる。
「でも、やっぱりそんな冥土の土産みたいな理由で、君を抱きたくはないよ……」
「そっか。……ごめんね、有人さん。へんなこと言って」
「いや。でも麗、まだ希望は捨てちゃだめだ。俺がついてるから」
「んー……」
「仕事も出来るだけ急いで切り上げて、君のそばにいられるようにするから。ね?」
「うん……わかった」
「よし、いい子だ」神崎は麗の頭を撫でてやった。
結局、観光をする雰囲気でもなくなったため、あてどなく都内を車で流していた。
正直なところ、神崎は麗と二人でいられればどこでもよかったのだ。
カーステレオからは「浪漫飛行」が流れていた。なんとなく、トランク一つぶら下げて世界中どこの戦場にでも行く自分には合っているような気がした。
国道246号線の青山付近を走行中、彼女が「喉が渇いた」というので車を駐め、オープンカフェで休憩することにした。神崎一人なら絶対に入らないような小洒落た店だ。
外は暑いので、店内に入りたかったのだが、彼女がオープンカフェを体験したい、と駄々をこねるので、仕方なくテラスに席を取る。
「ねぇ、有人さん。もうじき向こうに戻っちゃうんだよね」
グラスの氷をカラカラ鳴らしながら、つまらなそうに麗が言った。店名をプリントした四角いコルクのコースターには、結露した水滴が作った水溜まりが出来上がっていた。
「仕事ほっぽり出して帰ってきちゃったからね。帰ったら仕事山積みかも」
う~ん、とおおげさに頭を抱えて、おどけてみせた。
うかつに麗の気持ちを落とすことは、彼女の生きる気力を削ぎかねない。こんな自分が誰かの精神衛生について神経を遣うのは、皮肉にも程があると神崎は思った。
「いっちゃやだ……」
麗の前の、濃緑色のテーブルクロスの上に、数カ所新しい染みが出来る。グラスから落ちた水滴とは、別の滴が作った染みが。
神崎は、膝の上でハンカチを握りしめる麗の手に、そっと手を重ねた。
「俺だって、行きたくないよ。……でもね、俺が帰らなければ、迷惑のかかる人が向こうにはたくさんいるんだ」
そう、諭すように、静かに言った。いくら彼女のためとはいえ、自分にもそれなりの責任がある。とにかく向こうに戻らないことには話が始まらなかった。
「いつ帰ってくるの?」
麗は啜り泣きを始めてしまった。周囲の客からの白い目が痛い。
「はっきりとは言えないけど……、でも、なるべく早く後任を探して、日本で暮らせるようにするから、もう少しだけ待っててくれないか?」
「私は待ってるけど……病気が待ってくれるかわかんないよ」
そう言って、麗は両手で顔を覆い、肩を震わせてか細い声で泣き出した。その声に身を切られるような思いがして、神崎は唇を噛んだ。
いよいよ周囲の視線が本格的に痛い。これじゃまるで縁を切ろうとして、客に泣かれているホストのようだ。
しかし、自分がどんな目で見られようと、いまこの場だけのことであって、それは大した問題ではない。最大の問題は、麗当人があまりにも自分に依存してしまっていることだった。
普段は無邪気に振る舞ってはいるが、やはり刻々と迫る死への不安や恐怖がない訳はなかったのだ。それを見ないように、考えないように、わざと無邪気に振る舞っていただけなのだ。それは正に、彼女のことを考えないようにするために、局地に積極的に身を置く己と同じだった。
(何故そんなカンタンな事に、気が付かなかったんだ……)
過保護でか弱い彼女の心では、すぐに折れてしまうし、依存してしまう。分かり切っていることなのに、有頂天になって見落としていた、自分のバカさ加減がたまらなかった。
そんなことなら、毎日ベタベタして甘えさせる前に、強引にでも転院の話を進めて、死の恐怖から解放してやるべきだったのだ。
とにかく『自分はもうすぐ死ぬ』という彼女の思い自体を覆さないことには、彼女を置いて日本を出ることは自殺行為だ。
未定の話を前提として聞かせるのは避けたかったが、このまま彼女の気持ちが崩れてしまえば元も子もない。
転院の話がまとまらなかった場合、いざとなれば無理にでも向こうの病院に連れて行く。たとえ誘拐犯扱いされたとしても、彼女が死ぬよりマシだ。
――神崎は覚悟を決めた。
「大丈夫、俺が死なせやしない」彼女の髪を撫でながら、静かに語りかけた。「気休めでもなんでもなく、本心からそう思っている」
麗はゆっくりと、顔を覆った手を下ろした。血の気の薄い彼女の頬は涙で濡れていた。
「無理だよ……」
麗の目は絶望に彩られていた。恐らく、これが彼女の本心なのだろう。誰にも見せなかった心の内を、その瞳は悲しげに物語っていた。
神崎は、すっかり涙でぐしゃぐしゃになった麗の顔を、ハンカチで拭いてやった。彼女は、おとなしく神崎のされるがままになっている。
普段から世話を焼かれ慣れている彼女は、誰かが髪をいじろうと顔を拭おうと、まな板の上の鯉のように、積極的に受け身な態度を取る。きっと同じように何度も針を打ち込まれたり、電極をつけられたりしているのだろう。
そんな受け身な様を見るに付け、彼女がそんな風になってしまったことに、胸が締め付けられる思いがする。
「聞いて、麗。――確かに、今の病院にいても、寿命をいくばくか延ばすことしか出来ない。でもね、病院を移れば治せるんだ」
「……え?」
一瞬、何を言われているのかわからず、麗は何度か目を瞬かせた。
神崎は席を立ち、彼女の脇に片膝をついた。そして、彼女の手を取り、両手で握った。
「俺は、本当は君を救うために、日本に帰ってきたんだ」
「ほん、と……?」麗の長い睫毛が、唇が、震えた。「助かるの? ……私」
「ああ」彼女の目を真っ直ぐ見て、大きく頷いた。「でもこの話は、まだご両親にしていないから、ちゃんと決まってから話そうと思っていたんだ。黙っていて、悪かった……」
「……ホントに治るの? 私」信じられないといった様子で、麗は目の前にかしづく恋人を見下ろしている。
「もちろん。でも、みんなには、まだ言わないでね。話がややこしくなるから」
舌っ足らずな麗から、余計な情報を両親の耳に入れたくはなかった。
「うん……」微妙に腑に落ちないといった顔をしながら頷いた。
それでも今は神崎に任せるしかない、ということだけは十分分かっている。
「有人さん……」
「ん?」
「私、有人さんののことを、自分が死ぬまでの短い時間、思い残すことのないようにって使わされた、美しい死神だと思ってた。でも本当は、私を助けに来てくれた勇者様だったんだね……きっと、そうだよね?」
言葉のおわりの方は悲鳴にも似て、神崎の胸をえぐった。
麗の顔が切なげに歪んだ。そしてまた、大粒の涙をぽろぽろと零しはじめた。全てを諦め、投げ出していた自分が救われるなど、夢にも思わなかったから。
ああ、と神崎は大きくうなづいた。死なせてなるものか。百年以上も待ち続けた愛しい人を、ここで失うわけにはいかないのだ。
「俺が君を必ず護る。だから『どうせすぐ死ぬ』とか二度と言わないでくれ。いいね?」
静かだが、強い意志を感じさせる口調で語りかけた。
「……うん、もう、言わない……もう言わないよ、有人さん……」
彼女の目が、全力で『助けて』と叫んでいた。今まで一度も求めたことのない『救い』を、彼女は初めて心から求めていた。
「もう大丈夫だから」安心させたくて、一番いい笑顔を作って彼女に応えた。
「やっと、おうちに、帰れるんだね、……私」
そう、恐る恐る言った彼女の目には、微かに希望の色が見えた。
「そうだよ。前に言ってたよね。家に帰るのが夢だって。俺が必ず叶えるから」
と言って小さく頷いた。あそこなら何もかも揃っている。治せる筈だ……。きっと。
「じゃ、有人さん、私をおうちに連れて帰ってくれるって、約束して」
と、麗は青白い小指を突き出して、ゆびきりの催促をしている。
「約束する。君を必ず家に連れて帰るよ」
神崎は、麗の白くか細い小指に、自分の小指を絡ませて約束した。
――そう、『ステュクスの流れ』に誓って。




