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獣達が黒犬の活躍を囁きあう声は夜半まで消えなかった。
だが噂の彼は精神的な疲れだろうか、軽い寝息を立てて檻の奥で眠っている。
(クロ……)
返り血で汚れ固まった毛並みを見下ろして、サクラは戸惑いの涙を流した。
安易に頼った自分の声がこの黒犬を汚した。
(ごめんね、クロ)
抱きしめてしまいたくなる気持ちを押し殺し、サクラは向かいの檻を覗き込む。
「あの……さっきはありがとうございます」
通路はさして広くない。その声を聞きつけたチンパンジーは鉄格子に顔を挟むようにしてサクラに答えた。
「別にあんたから礼を言われるようなことはしちゃいないさ。あの子のためだよ」
「あの子?」
「そこでぐーすか眠っているバカ犬だよ。あのままじゃ止めを刺しかねないからね」
サクラの頬に再び涙が伝った。
「泣くほど怖かったのかい、あの子が戦う姿は」
確かに恐ろしい姿だった。血をためらいもせず、冷酷に相手を刻むような攻撃は。
「あの子はあんたに言わなかったかい? あたしらは『兵器』だよ。恐ろしくて当たり前さ」
「クロは兵器なんかじゃありません!」
「ふん? じゃあ何者だい」
「……クロは……」
サクラにはいつだって優しい言葉をくれる。だからこそ甘えて見失っていたのではないだろうか、『全てをかけて』という言葉の意味を。
そして、彼がどういう存在かと言うことを……
「あんたには覚悟が足りなかった、それだけの話さ」
そのチンパンジーは長い腕を伸ばし、サクラの涙をついと拭った。
「今日だって私を守ろうとして、クロは……」
「守られてやっておくれよ」
柔らかな笑顔が毛のない顔に浮かぶ。
「あの子はバカな男だからね、そのぐらいしか能がないのさ。その代わり、何一つ目を背けずに見てやっておくれ。あの子がどんな生き物なのかを」
幾度も頷くサクラの頭を、長い指がぽんぽんと叩く。
「さ、あんたも寝な。夜更かしは美容に良くないよ」
慈愛に満ちたその表情は母親を思わせる愛情に満ちていた。
前島の研究室は雑然としている。
かなり広い空間であるはずなのに、様々な薬品の並ぶ棚や、大きな模型の類、太いコードを床に這わせた機械類が詰め込まれている。そのせいで天井さえ低く感じるほどの閉塞感があった。
そこに呼び出されたサクラの隣にはもちろん、クロが従っている。
自分からは決してサクラに触れようとはしない彼の背中に、サクラが震える手を置いた。
びく、と背中の皮を震わせたクロは、見上げた彼女の顔が不安そうに青ざめているのを見取って、すり、と軽く体を寄せる。
揺れるように入ってきた前島は、その様子に明らかな侮蔑の笑いを浮かべた。
「随分と仲良くなったもんだね。そんなにいいのかい? ハジメテの『男』は」
黒犬が小さく牙を剥く。
「そんな怖い顔をしなくても、今は何もしないよ。大事な『母体』である可能性が高いからね」
前島は一匹のアフガンハウンドを研究室に招き入れた。つややかに流れる茶色い被毛は美しく、シャンと鼻先を上げた姿は貴公子の様だ。
「君は一応人間だからね、不便なこともあるだろう。そのための特別措置さ」
前島の隣にピシッと背筋を伸ばして座った彼は、やはり高貴な少し高めの声を発した。
「素体番号126です」
クロがサクラを鼻先でつつく。
(そうか、これは……)
クロとの会話が当たり前になっていた彼女は、それが『普通』ではないことに思い当たった。
「や、やあっ。ビックリしちゃっ……」
サクラのオーバーすぎるリアクションと、明らかに平坦な言葉は気品あふれる怒号にさえぎられる。
「黙りなさい、実験動物風情が!」
ふぁさ、とロングコートを揺らした彼は、鼻先をさらに上に向けた。
「私はこの研究施設でも数少ない『完成品』。そんな『デキソコナイ』と一緒にしないでください!」
「……デキソコナイ……」
屈辱にぐっと握り締められたサクラの指をなだめるように、クロの鼻先が擦り寄る。
冷たく湿ったその感触は彼女に冷静さを与え、寄り添っている存在感が、震えそうになるその身を支えた。
「で、この『犬』が何だって言うの?」
「君の身の回りの世話をさせる。下手に人間の男に任せるよりもずっと安心だからね。」
くつくつと喉の奥を鳴らす嫌な笑声をこぼしながら前島は扉を開け、さらにもう一人の『人物』を部屋へ招き入れる。
「もう一人、紹介しておこう。君の交配相手の候補だ……もう一人のね」
(綺麗な男の人……)
それが第一印象だった。
(でも……)
出来の良いビスクドールのような……作り物のように無機質な美しさだ。
「彼は『素体番号無し』。人間と実験動物との間に生まれた、第二世代としては唯一の『成功例』だ」
前島の言葉ににっこりと微笑んだ『ソレ』の笑顔は、『お手本どおり』であった。口の端を形良くあげ、真っ白な歯を僅かに覗かせる。眉尻を下げ、目元を美しく細めた、『理想的』な笑顔……
サクラは強い拒絶を感じる。
(この人は……嫌!)
ライトブルーの瞳は、明るい色調とは裏腹な暗い闇を孕み、不吉なガラス玉のように全てを透かして、何も映しはしない。
(助けて……クロ!)
寄り添う黒犬を見下ろしたサクラは、彼が不安そうに耳を動かしながら見上げていることに気がついた。漆黒の瞳は複雑にクルリクルリと光を反しながら、サクラの姿だけを優しく映しこんでいる。
「わた……しっの……交配相手は、この黒犬でしょ!」
その言葉に、ノーネームは笑顔を消す。それは全くの無表情……
「ドクターの報告書を読んだんでしょう! もう、交配相手は必要ないの!」
「ああ、あれかぁ……君達の『交接』が成功したってだけの話だよね」
前島が太った体の中で唯一薄い、酷薄そうな唇をなめる。
「昨日の今日で『妊娠』が確認できるわけじゃない。もし、111素体に君を孕ませる兆候すらなかった場合は、このノーネームが後任だ」
ぶるっと震える体をしっかりと支えてくれる黒犬。
その存在がサクラを後押しする。
「私の相手は、クロ以外考えられないから」
言い放つ彼女に、前島だけが冷たい笑いを向けた。