夏夜の幻惑
まだ忘れていない、あの温もり。
ふわりと揺れる胸元の毛に顔を埋め、彼の体温をうつされて眠る夜が好きだった。
「はあ、うるさいわねえ」
公園墓地の横を通るドクターは、墓所の方から聞こえた笑い声に眉を顰める。季節柄、肝試しにもぐりこんだ若者たちだろう。
クロの家を訪ねるのに少しでも近い道を、と横着したのが良くなかった。遠回りでも、大通りを行けば良かったのに……もちろん、科学者である彼女は霊魂だの、幽霊だのの存在を信じはしない。夜中に墓場の横を通ることに恐怖などない。
避けたかったのは、子供っぽい肝試しなどに興じて静かな眠りを踏み荒らす馬鹿どもだ。
彼女の『最愛の夫』はすでに鬼籍に入っている。彼には墓石すら与えられなかった。だからこそ、墓所は彼女にとって神聖な場所である。
『魂が眠る場所』などと非科学的なことは言わない。墓などただの遺骨収納の場所だ。本当に墓石を必要としているのは、生者の方である。生命活動も、感覚器も失い、無機質に変わった死者は、何も感じたりはしない。だが生きているものは傷つく、悲しむ、苦しみもする。愛するものの面影を求めて惑うこともあるだろう。
だから、温かな体の代わりに冷たい石を置く……。
「お墓、ね」
あの柔らかな温もりに二度と包まれることは叶わない。ならば冷たい石くれで構わない。彼が確かにこの世に在ったのだと、その魂をここに留め置いているのだと示す標があれば、少しは心慰められただろうか。
「馬鹿みたい。そんなもの信じてないのに……」
それでも、涙が流れる。あの魂は、どこへ行ってしまったのだろう。高潔で、愛情深い、彼の魂は……
「あなたは……今頃どこをほっつき歩いているのよ」
街灯の明かりの向こうから、甲高くなるほど浮かれきった女の笑い声が聞こえた。酒でも入って、相当盛り上がっているに違いない。
「死者に対する冒涜って言葉を知らないのかしら」
侮蔑を込めて墓所の奥をにらみつけた視界の端、植え込みの蔭に、何か大きなものがふわりと横切った。
「!」
信じていない……そんなものは信じていない、が。
今度はもう一つ離れた植え込みにふわりと、金地に黒も鮮やかな縞毛の尻尾が揺れる。足が自然と前に進んだ。
「待って!」
墓所を区切る柵の間を、ふわりと横切る逞しい四足の背中。
「待ってって言ってるでしょ!」
墓石の間をふわり、ふわりと走る、立ち上がった耳。
気がつけば墓所の置くまで入り込んでいるが、そんなことに頓着してはいられない。
科学的な根拠などいらない。自分の信念など放り投げても構わない。もう一度だけでいい。あの愛しい虎に会えるのなら……
「待ちなさいよっ!」
苛立ちと共にはき捨てられた言葉。それに答える者があった。
「はいっ! スイマセンっ!」
怪訝に思って墓石の間を覗けば、頭を金色に染めた大柄な男が座り込んでいる。
「あんた、何やってるの?」
男は大きな体を丸め込んでおびえ切った表情を浮かべているのだから、聞くまでもないが。
「しょ、職場の若い連中と肝試しに来たんですけど、置いていかれちゃって……」
「……お仲間は、たぶんあちらで酒盛りでもしているはずよ」
「あ、あいつら……あんまり、罰当たりなことするなって、言っておいたのに」
立ち上がろうとした男は、すぐにぺたんと膝を落とした。
「こ、腰が、抜けたみたい、です」
泣きそうな顔は日焼けて、肌質も粗く、若者というにはやや年がいっているはずだ。まあ、ドクターよりはいくつか年下ではあろうが。年頃と話から察するに、彼は若い連中が無茶しないように付き添ったお目付け役なのだろう。
全く、情けないお目付け役があったものだ。
(でも、なんだろう)
ふわりと懐かしい熱が心を揺らす。
怯えにフルフルと揺れる金の毛先は、臆病だった『彼』を思い起こさせる。
「そんな粋がって、髪なんか染めるような年じゃないでしょう」
「じ、地毛です。い、一応、ち、父がヨーロッパの……」
「ふうん?」
「そ、それに、と、年とか、か、関係な、なな、な……」
「少し落ち着きなさいよ、みっともない」
そもそも『そんなこと』を信じてはいない。大体、『彼』の死んだ年から考えたって、計算が合わない。それでも『もしかして』と思ってしまうのは、科学者としての頭脳ではなくて、女の業だ。
ありえない……この心惹かれる感じに、もしかして……『彼』の生まれ変わりではないかと、ほんの一瞬でも思ったなど……認めない!
男は両手をついて立ち上がろうとした。だが、墓石にこつんとぶつかって、しりもちをついたまま後ろに飛びのく。
「ひああああ! ご、ごめんなさい、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
「ばかねえ、ここに十字架が刻んであるでしょ。キリスト式よ?」
「じゃ、じゃあ、アーメン、アーメン!!」
「あのねえ……死んだ人間は怒ったりしないわよ」
「し、知ってます」
怯えきってはいても、実にしっかりとした声が返ってきた。
「でも、ここに眠っているのはみんな、誰かの大事な人だから、し、失礼があったら、お、お墓参りに来た人が怒るし、か、悲しむし、た、祟るし……」
「面白い見解ね。生きている人間が祟るの?」
「そ、そうだと思います。だ、だからさっきの虎も、きっと誰かの……」
「虎っ?」
素っ頓狂な声がでてしまった。男がびくっと震えるほどの。
「その虎、どっちに行ったか解かる?」
「わ、解かりません。ぼ、僕の目の前で、消えてしまったから」
「目の前で?」
ならば、この男はやはり、再び現し身を得た、彼の……?
(そんなこと、あり得ないわね。結局、私はこういうタイプの男に弱いってだけなのよ)
ドクターはかがみこみ、男の腕を自分の肩に担ぎ上げる。
「ほら、立って。お仲間のところへ戻る? それともお家まで送って行きましょうか?」
彼が不思議そうにドクターの顔を見上げた。震えも、すっかり止まっている。
「お姉さん、どこかで……会った?」
心の奥底では、そうならいいと願っている。何しろ腕から伝わる体温は少し高くて、思い出のように心地よい。
「そんなわけ、絶対に無いの」
「何が?」
首をかしげる彼の瞳は、街灯の明かりの下でも輝く薄い色だった。
……氷蒼色、一番好きな色。冷たく澄んでいるくせに、優しい熱で見つめてくれた、『彼』の瞳の色……
(ああ、もう、理屈なんかどうでもいい)
吸い寄せられるようだった。
堪えきれずに唇を重ねる。それに対する彼の返答は、当たり前のように両肩を引き寄せてくれる、少しごつごつとした掌。
墓場を、大きな獣に似た強い風が吹きすぎる。
『……マヤ、愛しておるぞ』
懐かしい声で囁いたのは、目の前に居る彼?
新しい想いと共に深く唇を重ねれば、それさえも、もう、どうでもいい。
だって、獣に食らわれるように激しい、このキスは……




