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明かりを落とした実験室は薄暗い。
それよりも暗い闇色の犬は、部屋の中央に置かれた巨大なガラスケースに歩み寄った。
ピンク色の肉片と成り果てて浮かぶ……彼女。人工心臓の拍動で規則正しく揺れる様は、笑ってでもいるかのようだ。
もし、この脳を他の個体に移植するようなことがあっても、そこに現れるのは『第三の人格』。彼女が戻ってくることはない。
「ぐ、ううううううう!」
黒犬はガラスに強く額を打ち付けた。中の液体が僅かに揺れたが、その表面には傷の一つもつかない。
手遅れだということは解っている。それでも言わずにはいられない。
「……好きだ」
それを聴かせるための、桜色に透ける耳はもう無い。
「好きだ」
くすぐったいほど繊細な、たっぷりとした白毛も無い。
「好き……だ」
微笑の形にあがった、あの口元も……
記憶の中にふく桜吹雪が、微笑んだ口元からこぼれる声を吹き攫う。彼女の答えを聞くことは、幻の中ですら叶わない。
「ぐ……」
深く落とされた黒犬の肩は、いつまでも揺れていた。
「……」
クロの話を聞き終わった男は、コップを包んだ手を広げることすらできずにいた。
僅かに残った酒は掌の熱を吸って生ぬるい。
「初恋は実らないというのは、本当だな」
クロはジョッキをくいと空け、立ち上がった。男が呼び止める。
「なあ、もし彼女がいたら、今の嫁さんとは……」
「タラレバは好きじゃない」
クロは財布を取り出し、中を探りながら答えた。
「ああ、だが仮定の話をするとすれば、彼女がいなかったら俺は誰かを愛するということを知らないままだっただろう。そして、サクラに出会わなければ……」
ふと見上げたその瞳が愛しさをこめて潤むのは、どちらの女を想ってのことだろうか。
「サクラに会わなければ、誰かを愛するこの気持ちを、思い出すことすらなかっただろう」
その漆黒の瞳を見上げた男は、酒臭い息で笑った。
「ここはおごってやるよ。さっさと嫁さんのトコに帰んな」
「いや、しかし……」
「ふん、取材のためのヒツヨウケイヒってやつだ。それに、今すぐ嫁さんを抱いちまいたい気分なんじゃねぇのか?」
「お前は本当に下品だな」
だが、確かにサクラを抱きたい……いや、抱かれたい。
この悲しみも、寂しさも、全てを彼女の前に投げ出して、ただ静かに抱きしめられたい。
「わかった。ご馳走になる」
「気にすんな。このネタで一発当てたら、もっといいもんおごってやるよ」
「楽しみにしているよ、『アザとー』」
暖簾の向こうへと消える背中に、その男は呟いた。
「嫁さんと、仲良くやれよ」
心配するまでも無い。彼の恋女房は『犬』を受け入れる覚悟のある、いい女だ。
それに……
(お前も、いい女だよ)
男の瞼の裏には、満開の桜の下で愛する男の幸せを見守る一頭の微笑み犬の笑顔が、鮮やかに咲き誇っていた。




