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のんびりした性格は白犬の美点でもあるが、もっと警戒すべきだったのだ。
前島に呼び出された彼女は陽気な足取りで研究室へと現れた。
「やあ、ごきげんだねえ」
太った男の背後に布で覆われた、巨塔のごとき『何か』が置かれている。天井に届くほどに大きく、布裾から液体を満たしたガラスが漏れ見えている様は、なぜか白犬の心をひどく惹いた。
「それは?」
「ああ、後で見せてあげるよ」
前島は笑いで贅肉を揺らす。
「それより、あの黒犬とずいぶん仲良くなったみたいじゃないか。いつも何を話しているんだい?」
白い尻尾がぶわっと膨れ上がった。
「彼が未完成品なのは、あなたもよく知っているでしょう!」
「ふうん? まあいいや」
前島は肉にまみれた体を大仰に動かし、背後を隠していた布をばさりと剥いだ。
巨大なガラスケースの中に満たされた液体。そこに浮かぶのは……脳!
美しく丸め込まれた右脳と左脳、小脳から、だらりと下がった脳幹までをぷかりと浮かばせている。 幾本か通された人工色のチューブは生命を維持するための人工心臓につながれているのだろう。
脳は……これから起こることを恐れているかのように震えている。
「素晴らしいだろう? これを今から君に移植しようと思う。」
前島がこつこつとガラス容器を叩く。
「ご存知のとおり、脳は身体に電気信号を送るための司令塔にすぎない。ところが、ここには人格を決定する情報が詰まっているわけだ。さて、これはオス犬の脳だ。これを君に移植した場合、どうなると思う?」
「その脳に……乗っ取られるの? 私が……」
体を震わせる恐怖が柔らかい毛先まで伝わる。
「ふむ、普通はそう考えるよね? でも僕の『仮説』は違う。脳は体が伝える信号を受け取る器官でもある。そして体は脳の指令を再生するための器官である。そう思えば、この二つを切り離して考えることはできないんだよ。つまり、脳の人格と、身体の人格が一致しない場合……」
前島は血色の悪い唇を、ぬめっと舌先で湿らせた。
「『第三の人格』が発現すると考えるのが妥当だ」
「そんな実験が、何になるというのっ?」
「う~ん、少なくとも僕の仮説を証明できる。それに、あの黒犬も……」
横幅に似合わぬ俊敏な動きが、白犬の首根っこを捕える。
「仲良しの君を失っても、冷静さを保っていられるかなぁ?」
喉輪にぐいと指が喰らい込む。
(スリーワンっ!)
最後に脳裏に浮かんだのは、桜色の風の中に佇む優しい黒色だった……
その実験は『成功』した。
『彼女』が待つ病室へ通された黒犬は、いつもと変わらない口角に安堵した。
頭に包帯を巻かれ、人間用のベッドにもぐりこんだ白犬に気安い声をかける。
「元気そうだな」
白犬の顎が、かぱんと下がった。瞳が恐怖で震えている。
「き……み……は……?」
「俺がわからないのか?」
「解らない! 気持ち悪い! 近寄るな、バケモノ!」
黒犬の喉がぐう、と鳴った。
(混乱しているんだ。いじられたのは脳だからな)
低く落とした声で白い毛に触れる。
「落ち着け。俺のことは後回しで良い。お前は、誰だ?」
「僕は……いや、僕じゃない……ワタシ? ううん、私、ぼく、ボク……」
けたたましい高笑いが部屋中に満ちた。
「ねえ、誰? ボクは誰よ? 知ってる?」
屹立したまま、黒犬は絶望と恐怖に打ちのめされる。たった一言、零れ落ちた、彼女を試す質問……
「花は好きか?」
「なにそれ? そんなもの、好きでどうするのさ! 食うの?」
引き攣れるような笑い声が最後の希望をも打ち砕く。
(彼女は、もういない)
あれほどいとおしかった白毛。幾度となく首筋に深く顔を埋め、鼻先で味わった、あの感触が遠のいてゆく。
ぐう、と実に獣らしい唸りをあげて、黒犬は走り出した。




