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飲み屋が混むにはまだ早い。
ましてやこんな場末の小汚い居酒屋など……クロはカウンターの隅で背中を丸めている男の隣に座った。
胡乱な風体のその男は、ちみちみとコップ酒を舐めている。
「おい、こんなところへ呼び出して、どういうつもりだ」
クロの声で酒にとろけた視線を上げた彼は、にやりと大きく口元を歪めた。
「小説のネタぁ、探してンだが?」
「……俺の……何を聞こうというんだ」
彼とは旧知の仲だ。
黒犬だった頃の彼を知る、数少ない人間の一人……隠し立てなど無意味。
「俺の正体が公になるようなことは避けたいのだが?」
「いやいやいや、犬が人間になったなんて話、だ~れも信じやしねェ。むしろ極甘なラブストーリーとして人気でよォ……」
酒臭い息がクロの鼻先をかすめる。
「今日は一つ、初恋の話でもしてやっちゃあくれねェか?」
「初恋か……サクラだって言えれば、格好良かったんだろうな」
「おお? 違うのか?」
「ああ、彼女は微笑み犬だった……」
反抗期真っ只中というヤツだ。
黒い若犬は前島にあてがわれた白いメス犬に向かって牙を剥き、獣らしい低い声で威嚇を繰り返す。
(罠だ。こいつは……スパイだ!)
それにしては表情が間抜けすぎる。
目元は気難しい黒犬の扱いに戸惑って不安気に下がっているのに、口元は笑っている……いや、口角が僅かに上がったその形は生来のもので、それがのんびりとした笑顔に見えるからこそ、人間は『微笑み犬』などと呼ぶのではあるが。
三つ年上だという彼女は成熟した落ち着きがあって、大柄な体を覆う白一色の長毛がふわふわと風に揺れていた。
あの豪華な毛並みに顔を埋めたらさぞかし……
(違う! だから色仕掛けなんだってば!)
駆け上がる劣情を払おうと、黒犬は尻尾の先までをぶるっと振るう。
前島の下につく『完成品』であるこのメス犬と直接の面識はない。そもそも『前島が送り込んできた』というだけで、警戒に価するではないか。
耳と尻尾に力をこめ、喉から低い唸りをこぼす。
あからさまな敵意を向ける彼に向かって白犬は口の端を上げた。純白の体が漆黒の闇色に寄り添う。
柔らかな毛質が黒犬の形に沿ってつぶれ、暖かな体温が伝わった。
「大きな声を出しちゃダメよ。やつらはあなたがしゃべれるんじゃないかって疑ってる」
細く低められたささやき声が、この部屋に仕掛けられたマイクの存在を知らしめる。
「普通の犬みたいにしていなさいね?」
仕方なく白犬の耳の後ろを嗅ぐフリをすれば、ふわふわした毛先と彼女の匂いが鼻の中に広がった。
「お前はっ! 前島のスパイじゃ……ないのかよ」
できるだけゆっくりと、落ち着いた声を出したつもりだが、不審ではなかっただろうか。
白犬は特に気にした風もなく、大きく体を揺すった。
「確かに、ここに来たのは前島の命令だけど、そう仕向けたのはドクターよ」
「あの女! 何を企んでいる!」
「あなたのこと、よろしくって言われたけど?」
「何をよろしくなんだよ!」
「さあ?」
少し間伸びた甘ったるい返事。
「なんか頼りないな、お前」
白い毛を吹くように、黒犬はぷふんと鼻先で笑った。
「彼女……099に好意を抱くのに、さして時間はかからなかった。だがガキだったからな。素直になるなんて器用な真似はできなかった」




