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 地下の洞窟に、大きな獣の咆哮が響く。

 つぶれる肉の苦痛に苦しむ彼は自分に刺さった管を乱暴に引き抜き、引きちぎり、身をよじって暴れまわった。

 すでに地底湖に潜り込んだハチは顔だけを水面に浮かせて、成すすべなくそれを見ている。

「ダンナ、落ち着けよ。ダンナ!」

 低く唸りながら振り回される腕が点滴台を跳ね上げる。すっかり炭化しきっていた腕がぼろりとはずれ、華奢な金属と共に床に落ちた。

「ダンナってば!」

 騒ぎに弾き飛ばされた通信機からも、苦痛に吼える女の声が聞こえた。


「う、あああああああああ!」

 広がる骨盤にあわせて全身がみしみしと音を立てる。

「ふっ、ふっ、ひっ……いいいいい!」

 容赦なく体を裂かれるような痛みに、ドクターが励ます声も遠く聞こえる。

(クロの……子供!)

 禁忌の子供であるこの子が宿ったと知ったあの夜、やさしい黒犬はこの腹に深い愛情の言葉をかけていた。

――俺が普通のオヤジなら、ただ嬉しいとだけ言ってやれたんだろうな――

 生まれようと足掻く生命の痛みは爆動する。

(あなたのお父さんは、誰よりも優しい人だった。)

 一つの体として暮らした十月十日を終えて、自分から分かれようとしている小さな存在。

(強くて、頭も良くて、何より、愛情深い人だった。)

 この子を無事に産んで、そして伝えなくてはならない。

(クロは、誰よりも私を愛してくれた。そして、あなたのことも、よ。)

 ばつんと会陰を切るはさみの音が大きく鳴り響く。

(あなたは、大事な子。私にとっても、そして、クロにとっても……)

 ぬるんと、一気に膣道が軽くなった。


 トランシーバーから聞こえる悲鳴に呼応して獣が暴れまわる。苦痛に突き動かされるままにのたうち、ところかまわず体を打ち付ける。

 体表を覆っていた壊疽組織がそのたびに砕け、あたりに飛び散った。

「ぐ……ぁ……サクラ!」

「そうだ、ダンナ! 呼べ!」

「サ……クラ……サクラ、サクラああああああ!」

 もろっと崩れながら、背中が大きく裂ける。

「ぐううう、ぐううう、ぐ……ああああああ!」

 トランシーバーの向こうは……無音。生れ落ちた生命にささげられる一瞬の無音が洞窟内にも沁み込む。

 少し痛感が引いたのだろうか。彼は片膝をついてふうふうと肩で息をする。その姿は生命の福音を待って静寂に耳を澄ます父親のようにも見えた。

……ガ……がが、が……

 引っかくような音の後、その声は高らかに洞窟内に響き渡る。

【ふ、ほ……ぎゃあああああ!】

 ばたりと倒れこむ獣が、小さく微笑んだように、ハチには見えた。


 それから二年……哀れな黒い獣はもう居ない。

 あの桜の木の下には一人の『人間』の男が立っている。彼は冬終の枝にみっしりと膨らみ始めた蕾を見上げて呟いた。

「桜……か。」

 彼があの愚鈍な獣だったとは誰も思うまい。だが、野生的に引き締まった体つきと、少し癖っ毛な髪の黒、それに深く潤む漆黒の瞳は、彼が黒犬だった頃の面影を強く残している。

 がさ、がさと冬枯れた草を掻き分けて、ドクターが彼の背後に立った。

「どう、何か思い出せた?」

「ああ、ばっちりだ。俺は素体番号コード111、遺伝子の加工によって作られた実験動物だった。」

「他には?」

「他に……桜が好きだった。」

 艶深い幹を撫でる彼に、ドクターは肩をすくめる。

「どうして一番大事なことを忘れちゃったのかしらね。」

 その男の指先が、愛しい女の体に触れるようになまめかしく、幹肌の絶妙な凹凸をするりとなぞり落ちる。

「あんたにこんなことを話したら、非科学的だって笑われそうなんだが……」

「あら、何よ。」

「デキソコナイになっている間、ずっと夢を見ていた気がする。」

「どんな?」

「それが思い出せないんだ。夢ってそういうものだろう? ただ、誰かと……花見に行く約束をした気がする。」

……だが、とても大事な夢だった。内容すら思い出せないほどに朧なその夢を思うたび、心がほっこりと温かくなるほどの……

「あんまりにも大事すぎて、この木の下に隠してしまったのかもしれないな。」

「あら、随分とロマンチックなことを言うのね。」

 彼は少し耳を赤らめる。

「俺がロマンチックじゃ悪いのかよ。それより、俺の子供とそれを生んだ女ってのには、いつ会わせてくれるんだ?」

「そうね。この二年間の検査結果から言うと、変化はすっかり止まった。再発の兆しも無い。身体的には問題ないわね。」

「じゃあ……」

「だめよ。会いたかったらちゃんと記憶を取り戻しなさい。あの子が会いたがっているのはスリーワンじゃなくて、クロなんだから。」

「そんな悠長なことを言っていたら、桜が終わってしまう。」

 ぷふんと冬枝を見上げたその男は、心の中でそっと思った。

(本当に大事な約束なんだ。)

 夢の中で約束を交わしたあの『女』が誰なのかは思い出せない。自分がかつては犬だったことを考えると、それが人間の姿だったかすらも怪しい。愛していたのかさえも……

(それでも、約束の相手が、その女ならいい。)

……黒犬だった俺を受け入れ、愛してくれた人間の女。

 せめて身の内を焦がすその約束だけでも捧げることができたら、異形の子供まで産んでくれた女に報いることができるだろうか。

「早く会いたい……」

 その男は冷たい幹肌に唇を寄せて、誰にも聞かせることの無い秘密を、桜の木にだけ打ち明けるように囁いた。



 そして、奇跡はつづく……


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